📘 G.N.S.[3-3] 世界の敵[前]

それから、笹森修一は死んだ。

昭和１９年のことだった。

戦時中のことだ。それは、空襲だったのだと思う。突然の衝撃と爆発。僕は、戦火の中で焼かれて、体

は焦げて、やがて灰のようになり、死んでいった。

……え？昭和、１９年だって？

その頃には、僕は、死ぬどころか、まだ生まれてすらいないはずだ。

だが、事実、僕は戦火の中で死んだのだ。その記憶が、頭の中……いや、形の無い意識の中心に、強く

焼き付いている。

どういうことだ？

……そもそも、何故僕は、自分が死んだときのことを覚えている？肉体が死に至り、生命活動を停止す

れば、意識の実存すらも消え失せてしまうはずなのに。死んだあとに、意識が続いている。

そして、強く思い出す。自分がどんな人間だったか。どんなふうに、死に至ったのかを。走馬燈のよう

な記憶の回転が始まる。僕が生まれる前の、『僕』の記憶。

 

『僕』は、当時、町の近くの川辺で休んでいた。サラサラと流れる小川の水面に、自分の姿を映してみ

る。頭髪を刈り、丸まった頭。まだ一人前の男と言うには頼りないような、青年と少年の境のような顔

、そして、体つき。だけど、『僕』は決めていた。自分でも頼りない人間だと思ったが、それでも『僕

』は男なのだ。もうすぐ、『僕』は中等学校を卒業する。そうしたら、少年兵として軍に入隊を志願す

ることになっていた。

『僕』は、何とか時間を作っては、よくこの川辺に来ていた。穏やかなせせらぎを見ていれば、苦しい

心が幾分か晴れるような気がしていた。だけど、それも逃避のようなものでしかないと知っていた。

みんな、苦しいのだ。父親は死んだ。母は、必死で家を守っている。僕の下にいる何人もの兄弟は、貧

困と飢餓に苦しんでいる。そして、誰もが、いつ終わるともわからない戦争に疲れきっている。『僕』

一人が戦争に行ったところで、何が変わるとも思えなかった。だけど、少しでも、何か、みんなの役に

立ちたかった。もちろん死ぬのは怖かったが、それでも、仕方のないことだと必死に自分に言い聞かせ

ていた。

水面から自分の姿を外し、川辺に転がる。空を見ながら、ふっと眼を閉じた。こんなに空は広いのに、

どうして人の世界は窮屈で生き難いのだろうか。そんなことを考えながら、真っ暗に閉じた意識の中が

、瞼の先から透ける青空と重なる。意識が深く沈んでいき、やがて『僕』は夢を見た。

夢の中で、『僕』は一羽の白い渡り鳥だった。青い青い空を滑るように飛ぶ、白い鳥。視界の彼方に、

白い大きな雲の群れと、ちっぽけな大地の姿が見える。『僕』は自由だった。何のしがらみもない、た

だ広い空を一羽飛び回る、白い弾丸。いつまでも、こんな時が続けばいい。もっと、誰もが自由なまま

、幸せなままいられればいいんだ。

けたたましい警報の音で目を覚ます。それは、町の方から鳴り続ける大きな音。何が起きたのか、一瞬

で理解し、跳ね起きる。

――空襲が来たのだ。

僕は、慌てて町の方に戻る。そんな、家にはまだ幼い弟たちがいるのだ。いま、町が焼かれたら、『僕

』の弟たちはどうなるのだ。早く弟たちを連れ出して、避難しなければならない。

『僕』は必死で走った。自らの家の方角に向かった。警報の音は鳴り続けている。そして、空気を切り

裂くような轟音が、上空彼方から聞こえてきたような気がした。

空を見上げる。さっきまで青かった空は、あまりにもくすんで見えた。空気を切り裂き、飛行機雲を出

しながら、何機もの爆撃機の姿が見える。そして、何かが空から落ちてくる。その様子をぼんやり眺め

ていると、突然、衝撃と轟音に呑みこまれる。耳の奥で何かがはじけたような気がした。あちこちで、

何かが爆ぜるような気配がする。だけど、もう音は聞こえなかった。衝撃で中空に投げ出された体が、

地面にたたきつけられる。目の前が真っ暗になりかけたが、何とか目を開ける。ぼんやりとした視界の

中で、自分の住む町が焼き滅ぼされている姿が見えた。気がつけば、全身に、氷の刃で刺したような、

鋭い痛みが走っていた。ああ、なんだ。自分も燃えているのだ。熱いという感覚すら通り越してしまっ

たのか。弟たちは無事だろうか。無事、誰かに連れられて逃げることが出来ただろうか。それとも、自

分で避難できただろうか。せめて、これからのこの国を担うはずの彼らが、しっかりと生き延びてほし

いと、薄れゆく意識の中、『僕』は思った。

そして、『僕』は死んだ。

 

ふと、閉じていた目が開く。ひんやりとしたコンクリートの床がゴツゴツと体に当たっている。ここは

どこだ……燃え盛る町はどこに行った？

あたりを見回すと、そこは小さな暗い部屋の中だった。一つだけの重たそうな鉄製の扉が閉まっていて

、その反対側には、立てば自分の肩のあたりの高さになるであろう、明りとりのような、大きな四角い

窓が閉じられている。夜の闇の中から、月明かりが射しこみ、暗い部屋の中をわずかに照らしている。

その他には何もない。側面の壁は、ざらざらとした塗料で塗りたくられた、無機質な平面だけが広がっ

ていた。扉から窓への奥行きがある、直方体の構造だ。

――埃っぽい空気の中、自分の体に注意を向ける。僕の全身は、きつくロープで縛られている。後ろ手

に縛られた手は、何かを持つことくらいは出来そうだったが、どうしても前に持ってくることは出来な

さそうだ。足の部分も、ぐるぐる巻きにされて、立ち上がることができない。何とか這って、扉の方に

近づこうとするが、その鉄の扉には、錠前が掛けられていたことを思い出した。

そうだ。ここは、波動論教に連れ込まれた、ビルの小部屋だ。僕は、黄色い薬品を注射されて……槇島

草太は、僕は死ぬのだと言っていた。あれから、どれくらいの時間が経った？僕は、まだ生きているの

か？頭の中は薄い霞がかかったように、どこかぼんやりとしている。さっきまで、僕の意識を支配して

いたあの記憶は……僕が、戦争で死んだという記憶は……夢だったのか？それにしては、あまりにもリ

アルな感覚があった。だけど実際、僕はまだ生きている……宮田と、雨笠先輩はどうなったのだろう？

時間の感覚は鈍っていたが、薬品を注射されてからそれなりの時間はたっているような気がした。あれ

は、毒物じゃなかったんだろうか。何故、まだ生きているのだろうか。

その時、額に違和感を覚えた。右の額、こめかみのそばあたりに、何か柔らかいもの……脱脂綿が貼ら

れているようだった。それはまるで、傷跡の手当てをしたみたいに。僕は、額に怪我をした覚えはなか

った。波動論教に連れ込まれた時だって、注射を打たれたときだって、確かに何も……あの後、何かが

あったのか？

そこまで思い至った時、急速に意識が失われていくような感覚に支配される。視界が真っ白になり、自

らの精神が、どこか遠い遠い、時間と地平の彼方へ向かって飛んでいく。ああ、またか。意識が変容し

、僕じゃない『僕』の記憶が、巡りだす。

 

今度の『僕』は、若い女だった。どこか、ヨーロッパのような、洋風の屋敷の中にいる。天井とカーテ

ンがしつらえられた、豪華で大きいベッドの中に眠っている。そう……それは、２０世紀の初めごろの

ことだった。『僕』は、貴族の令嬢だった。周りには、使用人と思しき青年や、同じ貴族の若い男、そ

して、『僕』の父と母が、苦しそうな様子で『僕』を見ている。いや、本当に苦しいのは『僕』の方だ

った。体が重い。まだ若い肌が、張りを失い、青白く骨に張り付いているのがわかる。『僕』は、いつ

からか、原因の不明瞭な病に倒れ、今、まさに死の淵に漂っているのだ。『僕』の父は、使用人に「お

い」と声をかけて、水の入ったコップと、白い薬の包みを盆に載せて持ってこさせた。

「さあ、飲みなさい。大丈夫だよ、きっとよくなる。高名な医師に持ってこさせたんだ」

厳格だった父の、気遣うような優しい声。だけど、『僕』は静かに首を振った。

「いらないわ……」

「何故だ？このままでは、お前は、お前は……」

「わかるの。私、もうすぐ死ぬわ。もう何をしたって手遅れなの。だから、それはもう必要ない」

母が、顔に手を当てて「おお、神よ……」と、涙をこぼす。父も、悔しそうに「クソッ」と息を吐いて

、語気を荒立てる。

「何故だ。何故、こんなことになってしまったんだ。お前ももうすぐ結婚するはずだった。まだまだ人

生はこれからだったんだ」

「仕方ないわ。きっと運命だった。神がお定めになったことよ。大丈夫。私はきっと、天国に行ける。

お父様、お母様、私、幸せだったわ」

父は苦しそうに眼を閉じ、首を大きく振る。そして、母が涙を見せながら父の肩に手をやり、促して部

屋の扉を開けて、一緒に出ていく。

本当は、『僕』は、神の存在も、運命の存在だって、何一つ信じてはいなかった。たとえ神がいたとし

たところで、それは人間を導いてくれる存在なのだろうか。いたずらに課せられる苛烈な運命すらも、

試練だと受け取り、甘受して生きていかなければいけないと言うのか。それは、あまりにも理不尽だ。

きっと、神はいないし、いたとしても人間のことなんて気にも留めないのではなかろうか。神の思惑を

人間が推し量れると思う方が傲岸だ。わかりもしない神の意思に一喜一憂しても仕方ない。人間の世界

は、無数の偶然と、誰か、様々な人間の思惑によって動いているんだろう。今『僕』が、父と母の心の

安寧のために、神を利用したように。

部屋には、『僕』と、使用人の青年と、もう一人の貴族の男が残った。貴族の男は、『僕』の婚約者だ

った。そう、『僕』が病に倒れるまで、『僕』と彼は深く愛しあっていた。親の決めた婚約相手だった

にも関わらず、『僕』たちは、確かにお互いを求めあい、その心を理解し合っていた。幸せの中、婚約

は成立するはずだった。だけど、『僕』はもう、直に死んでしまうのだ。彼は、深い嘆きの表情を見せ

る。そして、『僕』のそばに来て、顔を合わせて、やがて、『僕』の手を取り、自分の手と合わせた。

『僕』の愛する彼は、辛そうに『僕』の名前を呼ぶ。

「ああ……愛している。僕は、君のことを愛している……」

『僕』は、力の入らない頬をゆっくりと動かして、何とか精一杯の頬笑みを浮かべた。

「私も、あなたのことを愛している……たとえ死んでも、きっと忘れない。私は生涯あなたのことを愛

し、そして天国に行ってもあなたのことを愛し続けます」

「ああ……」

男は、空いている方の左手で、顔を覆う。彼は、苦しんでいる。『僕』が苦しむ以上に、彼の心は苦し

んでいるのだ。出来ることなら、『僕』は、彼の苦しみを少しでも和らげたかった。だけど、どんな言

葉を告げても、きっと彼は苦しむ。それでも、何かを告げなくちゃいけない。力無い体を振り絞り、何

とか声を震わせる。

「私は幸せだった……あなたに愛されて、あなたを愛して、本当によかった。私はあなたに沢山のもの

をもらったわ。だけど、あなたの心を縛りつけたくない。あなたは、私が死んでも、きっと他の誰かを

愛してくださいね。私は、あなたの幸せだけを願っているのだから……」

「そんな、そんなこと……」

男は、苦しそうに首を振る。だけど、引くことは出来ない。

「お願い。私のことを愛しているなら、きっと私の願いを聞いてください。あなただけは、きっと幸せ

になってください。お願いです」

男の顔をじっと射抜き、僕は嘆願する。男は、顔を覆っていた手をどかし、こちらを見返す。

「……わかった。約束するよ。約束だ」

「ありがとう……」

『僕』は、男の手をなけなしの力で強く握る。

「ねえ、もう一つだけお願いがあるの。私の死にゆく姿を見られたくない。あなたには、私が苦しんで

死んでいく姿を見られたくないの。せめて、少しでも綺麗な姿のまま、あなたの記憶に残りたいわ」

「……そうか。わかった」

男は立ち上がり、よろよろと扉の方に歩いていく。その後ろ姿が消える前に、声をかける。

「あなたをずっと愛しているわ。さようなら」

「ああ、僕も愛している。……さようなら」

扉が音を立てて閉まる。男の最後の声は、泣いたように震えていた。

部屋には、もうすぐ命の火が尽きようとしている『僕』と、使用人の青年だけが残った。自分を繋ぎと

めていてくれた家族と婚約者が消え、『僕』の意識は、次第に朦朧としてくる。呼吸が苦しい。体中が

鈍い痛みに包まれている。もうすぐ、最期の時が近づいているのだ。

『僕』は、使用人の青年の名前を呼ぶ。

「ねえ……」

「何でしょうか、お嬢様」

「私は幸せでした。人生の半ばで息絶えたとしても、それ以上のかけがえのないものをたくさん手に入

れました。何も後悔はしていません」

「そうですか。幸いなことです」

「私は気付いていました。私の病は、もう決して治らないのだと言うことを。だって、それは病なんか

じゃない。……あなた、毒を盛りましたね」

「……気付いておられましたか」

使用人の青年は、表情を崩さず、冷静なまま答え、自分の行いを認める。『僕』は、ふう、とため息を

つく。

「気付いたころには手遅れでした。今更責め立てるつもりがあるわけではありません。だけど、何故そ

うしたのか、教えてもらえませんか」

「あなたがご結婚すると、邪魔になる者もいるのです」

「……そうですか。お医者様も、そのために？」

「その通りです」

「そう。それで、あの人は幸せになれると思いますか？」

「そのために、お嬢様に死んでいただくのですから」

「そうですか。そうですね。だったら、もう何も言うことはないわ」

「すみませんでした、お嬢様」

「……いいえ。あの人が幸せになるなら、なんでもいい。なんでも……」

すでに、言葉を紡ぐことすら限界だった。目の前が暗い闇に浸食されていく。全ての音が消えていき、

意識が、何もない無の中に落ち流れていく。『僕』は、最後に口を動かした。消えゆく意識の中に、そ

の言葉だけが、最後にはっきりと残る。

「それでも、私は幸せだった」と――

そして、『僕』は死んだのだ。

 

闇に落ちた意識の上に、ぼんやりとした光のようなものが見え始める。思わず、目を開ける。青く、か

細い光が、自分の体を照らしている。自分の体はロープで縛られている。堅く冷えた床に寝転がってい

る。窓からは月明かりが差し込み、暗い部屋をほんのりと照らしている。覚った。例の、波動論教の手

で閉じ込められた小部屋だ。そうすると、今までのビジョンは、全て夢だったのだろうか。ぼんやりと

考える。だが、それにしては、あまりにもリアルな感覚があったような気がした。それは夢のような曖

昧なものではなく、覚めた後でもはっきりと覚えている、明確な記憶のようだった。夢を見ているとい

うより、強い記憶を追体験しているような、不思議な感覚だ。だけど、自分であって自分ではない、他

の誰かの記憶が、自分の中にあると言うのはどういうことだ？走馬燈がよぎると言うなら、自分の生き

てきた記憶だけがフラッシュバックするのが筋と言うものだろう。昭和１９年に空襲で死んだ『僕』も

、２０世紀初頭にヨーロッパで死んだ『僕』も、本当に存在するのだろうか？いや、むしろ、今こうや

って思考しているはずの僕すらも、本当に存在しているのだろうか？現実と区別のつかない夢を見てい

ると言うなら、今自分が現実だと思っている僕自身すらも、誰か他の人が見ている、夢の中の存在でし

かないのかもしれない。あるいは、全てが現実なのだろうか？そうだとしても、他の誰かの記憶に触れ

ている自分自身すらも、誰か他の人間に触れられている記憶の一部でしかないのかもしれない。つまり

、どういうことかと言えば、何が何だかわからない。現実と非現実の区別がつかない。何故だ？例の薬

を注射されたからだろうか？意識は酷くぼんやりして、まるで掴みどころがない。

そうして漠然とした思考をしているうちに、再び意識が遠のいていく。ああ、僕はまた、誰かになるの

か。僕ではない『僕』になるのか。それはもしかして、本物の僕そのものなのか。本当にわけがわから

ない。

 

今度は、大きく時代が遡っていた。広い草原のイメージが流れ込む。そうだ。『僕』は、広大な草原を

移動しながら、狩りや牧畜を営み生活している一族の一人だった。様々な金属器を加工し、利用する技

術を得て、狩りの技術も向上している。だが、その生活は、やはり今まで見てきたいくつもの『僕』た

ちに比べると、原始的でもあった。意識が没入し、記憶が蘇っていく。

テントのような、折りたためるように工夫された骨組みに布をかぶせたような住居の中、『僕』は横た

わっていた。呼吸が苦しい。目がほとんど開いてない。苦痛に耐えあぐねて自分の胸に手をやると、そ

れは陥没したようになっていた。肋骨は折れ曲がって肉の間に突き刺さり、肺は潰れている。呼吸も苦

しいはずだ。何とか力を振り絞って、目を開けてみる。自分の部族の仲間たちが『僕』を見守っている

。数人の子供たちと、浅黒い肌の筋肉質の男女、そして部族の中で敬われていた、長老のような老人。

『僕』が息を引き取る瞬間を見逃すまいとしている。そうだ。『僕』は死ぬのだ。みんな、見送ってく

れているのだ。

『僕』が目を開けるのを見て、長老が口を開く。

「ああ……覚えておるか……お前は、子供たちを守ったのだ」

『僕』は、力を込めて、何とか首を動かし、肯定の返事をする。

そうだ。今日、『僕』は、部族の子供たちを引き連れて、草原の中で、狩りの仕方を教えていたのだ。

金属の矢じりを持つ弓矢の扱い方を教えた。手負いの獣に向かい、慎重に止めをさすことを教えた。子

供たちは『僕』の教えた通り、すくすくと狩りの技術を覚えていった。だが、不測の事態が起こった。

子供たちの一人が遠くに行ってしまい、一人で勝手に狩りを始めたのだ。『僕』が駆けつけた時、その

子供は、子供の狩りの練習台としては場違いなほどの巨躯を持つ獣と対峙していた。弓矢を何本も浴び

せられ、血を流し、足元もおぼつかない、手負いになった獣。だが、手負いの獣こそ恐ろしいのだ。そ

の獣は、最期の力を振り絞り、その子供に襲いかかってきた。

『僕』は、子供を庇い、巨大な獣の全力の突進をまともに受け止めた。何十年と鍛え抜いた頑強な男の

体であったが、それでも所詮は人の肉体だった。胸板は陥没し、草原に倒れそうになる。だが、力を振

り絞り、獣の体を掴み、その動きを止める。獣はほどなく力尽き、草原に倒れる。そして、『僕』が倒

れるのも同時だった。

気がつけば、部族の住居の中に運び込まれていたのだ。子供たちが、他の大人を呼んで運び込ませたの

だろう。

「ごめんなさい、ごめんなさい……僕、大人の人たちに褒めてもらいたかったんだ。僕ももう立派な一

人の男だって、そう思いたくって……」

『僕』が守った少年が、『僕』の手を強く握り、涙を流しながら謝ってくる。だけど、僕は頬笑みを返

し、何とか力を振り絞り、少年の頭に手を乗せた。最期となるであろう言葉を紡ぐ。

「悪いと思うなら、本当に一人前の男になるんだ。俺は子供に恵まれなかったが、部族の子供たちみん

なが俺の子供だった。親が子供を守るのは当たり前のことだ。泣くんじゃない。強い男であれ」

少年が、それでも涙を流しながら、力強く首を振る。

「わかった、わかったよ。僕、絶対強くなる。絶対に立派な男になる。あなたのような男に絶対なる。

だから、安心してて……」

溢れる涙をぬぐいながら、少年は力強く言葉を振り絞る。それを見て、『ああ、俺は価値のある命を守

ったのだ』と思った。それだけで十分だった。もはや言葉は紡げなかった。だけど、みんなわかってく

れるだろう。部族のみんなが見守る中、意識は暗く落ちていく。

そして、『僕』は死んだのだった。

 

意識がまた笹森修一のものに戻る。暗い部屋、冷たい床、青い月明かりの入る窓だ。ふう、と息をつく

。僕は何度死ねばいいのだろうか。いくつもの人生を過ごし、いくつもの死を迎えた記憶。今僕が僕そ

のものと思っている、笹森修一の人生すらも、誰かが追体験している記憶の一部に過ぎない……そんな

疑念は、さらに色濃くなっていく。まだどこかぼんやりとしている意識を集中させ、思考を働かせよう

とする。身をよじって、少しでも楽な体制になろうとする。しかし、その動作も、背後から聞こえた笑

い声によって中断された。誰か……いや、この笑いには、明らかに覚えがある。振り向くと、そこには

奴がいた。

「槇島、草太……」

槇島は、ふふんと笑い、突っ立ったまま僕を見下ろす。

「気分はどうだね」

僕は槇島の顔を見上げて、返答する。

「……最悪だ」

「そうか。それも直に良くなる」

僕は何とか身をよじって起こし、部屋の側面の壁に背をついて、息をついた。槇島の顔を見据えて、疑

問を投げかける。

「僕は死ぬんじゃなかったのか？」

槇島は、薄く笑って悪びれずに言葉を返す。

「直に死ぬさ。そう、きみの自我は、ほどなくして死ぬ」

「自我が……」

今までの記憶の奔流が思い返される。何度も違う人生を送り、違う死を遂げた、僕とは違う何人もの『

僕』。気を抜けば、今にも、また違う『僕』の記憶が流れ込んできそうだった。だが、今は押し流され

るわけにはいかない。何とか強がって見せようとするが、口からは弱音が漏れる。

「……そうかもしれないな」

槇島は、にやりと笑って、拍手をする。

「きみは良く頑張っているよ。何か、現世に強い執着があると見える。いや……繋ぎとめてくれるもの

、かな？」

槇島の笑みと言葉を受けて、瞬間、僕の大事な人の姿が思い浮かぶ。そして、槇島が自分の部下に言っ

ていたあの言葉……『例の女のほうはどうなっている？』ぼんやりとした意識が集中し、爆発した。

「お前っ……さゆきをどうしたんだ！？」

「はあ？」

槇島は、さも何も知らないと言うような間の抜けた顔をした。

「さゆきってなんだ？……誰のことだ？」

「……知らないのか？」

僕が問うと、槇島は両手をあげてポーズをとる。

「さあ？さゆきってのはきみの大事な人のことかな？」

僕はそれ以上何も言えなかった。本当に槇島はさゆきのことを知らないのだろうか？僕らの家を襲撃し

た波動論教であれば、さゆきのことも調べ上げていておかしくない。だけど、本当に知らないのであれ

ば、余計なことを言うわけにはいかない。

「まあいいさ。とにかく、きみがこの世界に生きることにどんな理由があるとしても、きみはもうすぐ

死ぬ。きみの自我は死ぬ。自我が崩壊し、きみは波動論教の真の教えを体感し、われわれの一員となる

んだ」

自我が死ぬ。その言葉に、どんよりとした恐怖を覚える。だけど、自分を放棄してしまったら、人生は

終わってしまう。だから、ぼんやりした意識でも、なんとか強がって返す。

「波動論教の一員？……お前の手ゴマの一つじゃないのか？大体、あんな薬一つで……」

槇島は相変わらず薄く笑って返答する。

「薬一つ、か。まあ君は覚えてないだろうがね。ちょっと脳にショックを与えた後、催眠療法をとらせ

てもらった」

「え……」

僕は、右の額にある傷の手当て跡を思い出した。そう言えば、僕があの薬を打たれた後、意識を失って

からどれくらい時間が経ったのか、良くわからなかった。僕が正常な意識を失っている間に、波動論教

が何かを施したのは、否定しようのない事実のように思えた。僕は、恐怖を隠して悪態をつく。

「……マインドコントロールか」

槇島は笑う。

「マインドコントロール？とんでもない。われわれのセラピーは、じつにスマートなものだよ。そこら

へんのカルト教団とは違う。ぼくたちが開発した、宇宙の波動を感じられるようになるために必要な、

精神の開拓手段だ。人為的に悟りを開かせると言ってもいい」

何とか笑って答えようとするが、ひきつった笑みしか出てこない。

「そのために、自我を崩壊させるとしてもか……？」

「ふふん。ぼくを見ればわかるだろうが、表向き自我を保ったまま精神を変容させるセラピーもあるさ

。だが、一般の教徒たちと同じく、きみたちにはその必要はないということだ。むしろ、きみたちの自

我は消す必要があるのだからね」

「必要……？」

「おっと、しゃべりすぎたかな」

そう言えば、彼らは何故僕たちの自我を殺そうとする？波動論教の一員に引き込むだけなら、こんな過

激な手段をとる必要はなかったんじゃないか？何故、僕たちを捕らえ、自我を殺す必要がある？槇島は

何を考えているのか、その感情の薄い表情を見てもよくわからなかった。

「まあ、とにかく、きみは今感じているはずだよ。きみは、自分の中にある、きみじゃないきみの存在

、きみのものじゃないきみの記憶を呼び起こしていることと思う。自分の手に届かないはずの様々な事

象が、様々な光景が流れ込んでくる。われわれのセラピーを受ければ、それがわかるはずだ」

槇島が言っていることは正しかった。確かに、いまや僕の中には、僕ではない『僕』たちの記憶が流れ

込んできている。見たことの無いはずの光景、触ったことの無いはずの手触りや匂いが、自分自身の記

憶として流れ込んできているのだ。今は何とか自我を保っているが、気を抜けばそれは露と消え、自分

以外の何かに自分自身を支配されてしまいそうだった。記憶の奔流に耐えながら、何とか返答をする。

「……これは、この感覚は……お前たちの仕業だったのか……？」

「そうさ。だいぶ効いてきたようだな」

「でも……なんで？どうしてこんな……」

「言っただろう？宇宙の全ての情報にアクセスできるようになると。ぼくは、その扉を少しだけ開けて

やっただけだ」

それは、槇島自身があの大学で言っていたことだった。あれは戯言などではなかったのか。本当に、そ

んな現象が起こってしまうと言うのだろうか。いまや自分自身がその只中にいる時点で、否定はできな

かった。だけど、そこには大きな一つの疑問が残る。

「だけど、何故過去の記憶を……？」

「なんだ、そんなことを気にしていたのか？」

槇島は呆れたように言うが、その意味はよくわからなかった。

「こう考えたらどうだ？宇宙の全ての情報は、蓄積されている。過去の情報が、全て累積していくんだ

。そして、過去の情報をもとに新しい情報が生み出される。そして、生み出され紡がれた新しい瞬間に

向けて意識が移り変わっていくことを、ぼくらは時が流れることと言い、変化することだと言っている

だけだ。宇宙に常に新しいパターンが生み出されているだけなのだと言うことに気付かずにな」

「でも、どうして他の人間の記憶が……」

「決まってるだろ？それがきみの前世と言うことさ」

前世？僕らの意識はひとりひとり全くの別物であり、一度死ねばそれで全てが終わり……そうじゃない

のか？

槇島は僕の顔を見て笑う。

「きみの言いたいことはわかる。輪廻を信じられないんだろう。ぼくも最初は信じられなかったさ。だ

けど、それが事実なんだ。遥かな昔、宇宙が生まれた時から、意識と記憶の連鎖が続いている。それは

一種の情報の糸さ。見えない縦糸に結ばれて、いくつもの精神が繋がってしまう。似たような精神を持

った人間同士の意識、似たようなタグを持つ情報端末。つまりそれが宇宙情報輪廻だ」

目の前の男の言ってることは、中々理解しがたかった。何とか整理すると、自分と似たような精神構造

を持っている者が、違う時代や違う場所に現れる。似たような精神だから、宇宙の情報も共有している

。それが輪廻と言うのだろうか。だが、似ているからと言っても、それらは全く別の人間だ。そんなに

簡単なものだと言うのか？

「それでも信じられないか。だが、きみの見ている世界が事実だ」

確かにそれを言われれば、もはや何も返せなかった。今まで見てきた別の『僕』の記憶が、ただの幻覚

や夢幻だと言えるだろうか。それはそれで信じられない。それくらいリアルな記憶なのだから。しかし

、やはり大きな疑問があった。

「……何のために、僕にこんなことを見せる？」

僕が問うと、槇島の顔がキッと引き締まる。とはいっても、例の、何にも興味の無さそうな顔だったが

、返ってくる声は真面目で淡々としている。

「もうすぐ、大きな戦争が巻き起こるんだよ。人類の未来をかけた戦争だ。われわれ波動論教の大預言

者が告げたんだ」

「戦争……？」

いきなりの言葉に戸惑い、先を促す。

「ああ、戦争だ。外宇宙知性体との最終戦争さ。そのための準備が今進んでいる。かの大預言者も、い

ずれ到着する。もうすぐ戦争は始まり、この世界の秩序は終わりを迎える。大いなる試練を経て人類の

未来は大きく変化していくんだ。そして、加賀美香苗は、われわれの敵だ。世界の敵なんだよ」

「先輩が……？」

もはや馬鹿みたいに聞き返すしかできなかった。この男は、本気で言っているのだろうか？

「ああ」と槇島は頷く。その顔は冗談を言っているようには見えなかった。

不思議だった。何故加賀美先輩が彼らの敵だと言うんだ？メッセンジャーの件と関係があるのだろうか

。それに、何故僕たちがこんな無茶苦茶なことに巻き込まれなければならなかったんだ？槇島は続ける

。

「加賀美香苗を排除するためにはな、きみたちの存在が邪魔なんだよ。そのためにきみたちにセラピー

を施すことになったんだ。世界が完全に崩壊してしまう、その前にな」

「そんなの、世界の終わりなんていつ訪れるって……」

その時、体が大きく跳ね上がった。視界が全てぐるりと揺らぎ、顔から床に倒れ込む。床も振動してい

る。壁や天井も、パラパラと小さな屑を落とし、ギシギシと歪んだ音を立てながら大きく跳ね震える。

床の下、地面の方からゴゴゴ、と大きな地鳴りが聞こえ続ける。数秒おきに床が大きく跳ね上がり、そ

のたびに体が床にこすりつけられて、顔や体に擦り傷が出来た。地鳴りは、とても大きく聞こえる。重

低音はどんどん大きくなる。そのたび、何か自分の意識にとてつもない違和感のようなものを覚える。

何かがおかしい。だが、それが何かはわからない。

どれくらい時間が経ったかわからない。数十秒か、数分か。大きな地震は収まった。何とか建物は無事

のようだったが、青い月明かりに照らされた部屋の中に、埃の渦が舞っていた。あれだけ耳の奥に響い

ていた地鳴りのような音も、なりを潜めていた。

座り込んでいた槇島が立ち上がり、笑って言う。

「ああ、笹森くん、言っただろう。世界の終わりが近づいているんだよ。今の現象も、その一環だ」

体が妙に重く感じる。今の地震が世界の終わりだって？そんなの偶然じゃないか……偶然だろ、偶然で

あってくれ……ぼんやりとした意識の中、目を細めて見上げる。槇島は倒れ伏した僕を見下ろし、言葉

を続けた。

「きみの精神は、もうすぐ大きく変容することになる。さあ、眠れ。そしてきみはきみじゃない存在に

なる」

槇島が部屋を出て、鉄の扉を閉めて鍵をかける音が聞こえた。自分の瞼が重く閉じられていくのを感じ

る。限界だった。何か張りつめていたものが切れてしまったような感覚がして、意識が闇に落ちていく

。意識だけじゃない。全ての記憶、人格、手に入れたと思っていたもの全て。僕が信じて大切にしてい

たものたち全てが、闇の中に消えていくような気がした。闇の中、僕と言う存在は溶けて無くなり、や

がて大きな記憶の奔流が姿を現し始める。

 

記憶の中には、無数の『僕』がいた。様々な時代、様々な世界、様々な自分の記憶が現れては消えてい

く。『僕』は、ある時は男だったし、ある時は女だった。都市の中にも居たし、小さな群落にも居た。

平原の中で生活をしてたこともあったし、森林の中にいたこともある。ほら穴に隠れて寒さと飢えをし

のいだこともあった。きらびやかな衣装に身を包んでいたことも、ぼろきれで体を覆ってたこともあっ

た。碌に働かなくても食べていられたことも、飢餓に苦しみ、過労に倒れ死んでいったこともあった。

記憶の奔流が、時代を遡っていく、やがて『僕』は人ですらなくなっていった。ある時は犬だった。あ

る時は獅子だった。ある時は、サイだった。白い渡り鳥になって青い空の彼方まで羽ばたいたこともあ

った。小さな昆虫となって、他の動物に捕食されたこともあった。人間の居ない動物たちの世界。記憶

はさらに遡り、生物が海にしか存在しない時代が訪れた。僕は小さな魚になって、薄暗い海の底を泳い

でいた。さらに遡ると、今度は『僕』の存在自体が無くなった。生物ですらない『僕』は、地球に無数

の小惑星や星間物質が落ちて来るのを眺めていた。寄る辺となる肉体も何も持たないのに、世界を観測

している『僕』はいったい何だったのだろう。疑問に思う間に、今度は僕の精神は地球を飛び出してい

た。そもそも、地球の存在自体が無くなっていた。まだ、あの偉大なる生命の惑星が出来ていない時代

の宇宙を、『僕』はさまよっていた。次第に形成されていく宇宙の事象。燃えたぎるエネルギーの渦が

冷え、様々な物質が生まれた。恒星は燃え上がり、物質が衝突しては天体を形成していく。惑星の誕生

。銀河の形成、銀河団の形成、超銀河団の形成していく様を、『僕』は眺めていた。だが、それもいつ

の間にか終わっていた。宇宙が誕生する以前まで、『僕』の意識は遡っていたのだ。光が見えた。闇が

見えた。そこでの『僕』は、形の無い、光子にすら依らない光の渦になっていた。きらびやかな世界が

見える。無数の幾何学模様が一面に広がり、それらの模様が複雑に編み込まれた世界。それは、『情報

』という不可思議な力によって構成される、巨大な都市だったのだ。都市の上層に登っていくと、幾何

学模様の果てに、まだ生まれていない宇宙の姿が見下ろせた。しばらくそれを眺めていると、宇宙はや

がて波が寄せるみたいに誕生し、大きく成長していった。エネルギーの生成、空間の膨張、天体現象の

形成、知性を持つ生命の誕生。だが、それも長くは続かない。やがて、宇宙は波が海に帰っていくみた

いに綻び、無限の真空の海に帰結していったのだ。やがて、宇宙は再び生まれ、またすぐに消えていく

。宇宙が、波が寄せては返すように輪廻を繰り返していた。『僕』は無限に繰り返すそれを眺め続け、

宇宙の全ての事象と一体化していた。宇宙の全ての映像が、音が、記憶が――全て、『僕』の中にあっ

た。フラッシュバックする記憶の中に、『僕』は、銀河を取り巻く、巨大な光子の渦を見た。宇宙の中

に無数に開いた、大小の孔が見えた。全てが喜びに満ちていた。『僕』は全てを知っていた。何もかも

を理解し、何にも恐れる必要のない世界。それは全ての時空の中心であり、全ての時空が交叉する場所

であり、交叉時点<クロスホエン>であり、全ての理解の境地、楽園<エクスタシア>であった。いつまで

もいつまでも、その場所に居たかった。だけど、意識は引き裂かれる。再び、『僕』は輪廻するのだ。

楽園を離れ、何度でも再生する宇宙の中に意識が引き込まれ、再び何かの物質やエネルギーに依存した

生命として生まれおちる。理由はわからない。それは、定めだったのだ。全時空の中心を離れ、そして

楽園の存在を忘れ、『僕』の魂は、新たに宇宙に生まれおちた命として活動を始める。そして――ああ

、きっと、笹森修一という人生は、やはり夢だったのだ。移ろいゆく意識の中、なんとなく思う。もう

一度、『僕』は、確固たる人格として現実の世界に戻ってきた。それは本当の『僕』だ。笹森修一とい

う夢を見ていた、本当の僕なのだ。魂が宇宙に定着し、本当の僕が目覚めを迎える。