📘 G.N.S.[4-2] 星詠みの子供達[前]

空気は少し肌寒くなってきた。走り続けて温まる体と、そこから抜けていく熱を感じる。壊れた街の向

こうに見える空が、少しずつその色合いを変えていく。薄暗い雲の向こうで日が落ち、再び夜が訪れる

時が近づくのがわかる。それでもまだ日が落ちるまでには二、三時間はかかるはずだ。

僕は所々隆起して歩きにくい道路を走り続ける。頭の中の記憶を辿って、波動論教のビルへ向かう。あ

そこから逃げてきた時は無我夢中だったし、道のりももう思い出せないと思っていた。だけど、思い出

せようが思い出せまいがあそこに戻るのだ。そう決意した時には、もう足はひとりでに動いていた。気

がつけば、見覚えのある街の郊外へと辿りついていた。前方の崩れた建物たちの中で、一つだけ全くの

無傷で建っているビルが見える。どうしてあの建物だけが無事なのかは分からない。だけど、あれが波

動論教のビルだと言うことはわかっていた。

ビルの周りにはいくらかの人が歩いていた。みな一様に虚ろな目をしていて、話しかけても反応はない

。おそらく、彼らはみなジオシンメトライザーに操られた市民たちなのだろう。彼らは波動論教の団員

たちを殺そうとしていた。つまりそれは、彼らが目の前のビルに乗り込もうとしているということだろ

う。焦りを覚える。僕は見逃してもらえたが、宮田や雨笠先輩に危害が及ぶ可能性も捨てきれない。急

ぎ足でビルに近づく。

 

高いフェンスに囲まれたビルの前方、玄関口のあたりには、おびただしい数の市民が大挙していた。人

の壁が、ビルの玄関から押し入ろうとしている。その向こうで、白い服をまとった波動論教の団員たち

が、その体でバリケードを作って、侵入を防ごうとしている。お互いスコップや木材といった鈍器や、

鋭利な刃物を持って争い合い、傷だらけのまま狂ったように殺し合っている。おかげで玄関の周辺は血

に塗れていた。まさに地獄絵図という様子だが、恐れている場合ではない。

市民たちは倒れた教団員を押し分けて入ろうとするが、後ろから教団員に打ちのめされて倒されたりし

ている。だけどこの様子だと、既に中に侵入した市民もいるのかもしれない。

僕はどうする。この人の波じゃ、玄関から侵入することは出来ない。無理に押し入ったとしても、他の

市民や教団員たちと一緒に叩きのめされて死ぬだけだ。もしも裏口でもあれば……そう思って建物の裏

手に回っていく。

 

高いフェンスに囲まれた向こうの建物の壁に、小さな鉄錆びたドアが見える。あれがたぶん裏口だ。だ

けど、フェンスを乗り越える術が見つからない。市民たちのごった返した玄関のあたりからフェンスの

内側に回るのも、自殺行為になってしまう。どうにか出来ないものか……

建物の上の方を見てみると、ガラスの割れた窓が見える。あれは、僕が脱出してきた小部屋だろうか。

あそこから飛び降りて逃げてきたのか、と思う。

よく見れば、脱出した時は暗くてよく見えなかったが、フェンスには扉がついていた。開くことのでき

るフレームが、フェンスの中に設けられている。だけど、その扉には鍵のかかった錠前がついていた。

試しにガチャガチャと動かしてみても、フェンスは開きそうになかった。このままでは中には入れない

。僕は拳銃を構え、錠前の鉤に銃口を向けて引き金を引いた。

炸裂音とともに錠前が弾け飛ぶ。破片が飛び散り、地面に突き刺さる。どうやら上手くいったらしい。

残った錠前の残骸を手で取り除いて、後ろに投げ捨て、フェンスの扉を開ける。

フェンスの中に入り、前方の扉に近づく。頭の中で考える。あの扉が開くとは限らない。鍵がかかって

いる可能性は高い。今度はドアノブを撃ち抜くしかないだろうか。そんなに上手くいくかどうかはわか

らない。だけど、やってみるしかないだろう。

ドアに近づいていくと、突然そのノブが回った。びっくりして、扉の脇に張り付いて拳銃を構える。

しばらく待ってみるが、扉が開くことはなかった。何かの罠だろうか。そんなことを考えるが、誰がそ

んなことをする必要があるのか分からない。覚悟を決めて、片手で銃を構えたままノブに手をかける。

ノブは回り、あっさりと扉が開いた。

と、思った瞬間、突然僕の方に人が飛びかかってくる。心臓が跳ね上がって後ろに飛び退く。

ドサリ、と音がしてその人影は倒れ込んだ。白い服が血に塗れている。これは……死んでいるんだ。あ

らためて扉の奥を見ると、ビルの通路に、若い一般人男性の死体が転がっている。恐らくは、この通路

で教団員と市民が殺し合って、この教団員が手負いのまま外に逃げようとして鍵を開け、ノブを回そう

としたところで力尽きたのだろう。

目の前の凄惨な死体に怖気を覚えるが、立ち止まっている場合ではない。鍵が開いていたのだから好都

合だ。僕は扉をくぐってビルの中に足を踏み入れる。

 

虚ろな記憶を辿っていく。僕と宮田と雨笠先輩が連れ込まれたのは、２階の小部屋だった。僕が一番最

初に倉庫のような部屋に投げ込まれ、その後に何かが投げられる音と扉のしまる音が二回聞こえた。あ

の時の感覚が正しければ、３人ともそれぞれ別の部屋に放り込まれたのだろう。その部屋に２人がいる

可能性は高い。とりあえず階段を見つけて二階へ上ればいいだろう。エレベーターは危なっかしくて使

えそうもない。扉が開いて教団員にこんにちは、じゃ笑えもしない。廊下の突き当りにある裏口から入

って、いくつかの扉が立ち並ぶ廊下を進んでいく。

前方で道が分かれている。右方と左方、建物の外周の廊下となる部分だろう。どちら側から階段にいけ

るかはわからない。が、廊下を歩いていけばいずれは行き当たるだろう。建物のスペースから考えると

、左方の方が僕の入った裏口から遠くにあるので、そちらに階段がある可能性は若干高いかもしれない

。勿論建築のことなどわからないから、どうとでも言えることだ。

迷ってる暇もないと思い、小走りで左方の廊下を進む。いくつかの部屋が見えては通りすぎ、突き当り

にはやや広い空間が見て取れた。右には廊下が伸びていて、左には部屋が無く、建物の中で窪んだ場所

になっている。やはりそこは階段だった。勘が当たったことを喜んで進もうとした時、足が止まった。

階段の上方から騒がしい声と足音が響いてくる。

まずい。教団員たちが降りてくるんだ。

拳銃を持っていても僕は素人に過ぎない。銃で脅してもひるむような連中とは思えないし、たとえ一人

二人銃弾を撃ち込めても、その場を切り抜けることはきっと不可能だろう。それ以前に、人を殺すこと

になるのは御免だ。

そんなことを考えている間にも気配はどんどん近付く。慌てて廊下を引き返し、扉の無い給湯室のよう

な部屋に滑り込む。

ドヤドヤとした音が近づいて、教団員が階段を下りてくるのがわかる。僕は自分の体を大きなランドリ

ーの横に隠し、身をひそめた。怒号と足音は階段の向こうの廊下へと遠ざかっていき、静けさが訪れる

。どうやら行ってしまったらしい。ホッと息をつき部屋から出ようとする。

部屋の前にいた若い男と目が合った。

心臓が大きく跳ね上がる。起き上がった慌ててしゃがませて、身を隠す。それが無駄な動きだったこと

に気付くんのに数秒もかからなかった。

どうする。見つかってしまった。このままじゃ殺されかねない。隠れても無駄だ。すぐに追ってくる。

逃げ場はない。突き抜けることも出来ないだろう。体力で勝てるかどうかも自信はない。どうする。

答えは決まっている。すう、と息を大きく吸い込み、覚悟を決める。頭の中で大きく手を叩くイメージ

をする。それと同時に、拳銃を構えて物陰から飛び上がる。

だけど、そこには誰もいなかった。

一瞬唖然として、すぐに思い至って横を振り返る。

しかし周囲を見渡しても、その場には誰もいなかった。どういうことだ。考えて、すぐに思い至った。

あれは波動論教の教団員じゃなかった。そう言えば奴らのお決まりの白い服を着てはいなかったような

気がする。動転していて、気がつかなかった。ということは、あの男はジオシンメトライザーに操られ

た市民だったのだ。どこから入ってきたのか。もしかしたら僕が開けた裏口から入ってきたのかもしれ

ない。となると、この建物がジオシンメトライザーに占拠されるのも時間の問題かもしれない。

いよいよもって急がなければならない。用心しつつ、部屋から出て、すぐ隣の階段を上っていく。建物

の反対側からは怒声と悲鳴が響いている。戦いは激しさを増している。早く宮田と雨笠先輩を見つけな

ければいけないと思った。

 

二階へ上り、周りの様子を窺いながら廊下へ出る。教団員の気配はない。急いで僕が監禁されていた部

屋に向かう。外から見たガラスの割れた窓を思い出し、その部屋の方角へ向かう。

階下で高まっていく喧騒を感じながら、廊下を進む。目的の部屋はこのあたりだったはずだ。前方右側

に、重たそうな鉄の扉が４枚ほど閉じている。一番奥の扉に近づき、その扉が半開きになっていること

を確認する。

扉を開くと、ギイ、という音が鳴る。念のため拳銃を構えて部屋に踏み込む。中はもぬけの空だ。それ

は、窓からほのかに日の光が射していること以外、僕が逃げ出した時のままの光景だった。窓ガラスが

割れていて、部屋の奥にガラス片が散乱している。少しだけ低くなりつつある日の光に照らされて、床

がキラキラと光っている。その隙間に、ちぎれたロープの残骸も残っている。

記憶が確かならこの部屋の隣に宮田と雨笠先輩が連れ込まれたはずだ。様子を窺いながら部屋を出て、

右隣の扉へ近づく。

コンコン、とノックをしてみる。数秒ほど待ってみるが、返事はない。鍵がかかって開かないだろうと

は思いつつ、ノブを回して扉を開けようとしてみる。

扉はあっさりと開いた。拍子抜けするほど簡単に、部屋の中が見えて、一瞬どういうことなのかわから

なくなる。宮田か雨笠先輩が監禁されているはずではないのか。

しかし思考とは裏腹に、部屋の中には誰もいなかった。僕が監禁された部屋と同じような構造で、簡素

な作りの何もない小さな部屋。奥の窓ガラスは割れてはいなかった。四方の壁と窓以外に何もない。

扉は四つあった。対して僕らは三人だった。つまり、この部屋はハズレだったのだろう。納得して、さ

らに右隣の部屋に同じようなアプローチをする。ノックして、扉を開けてみる。

三つ目の部屋の扉は今度もあっさりと開いた。そして、その中には誰もいない。焦りが生じてくる。さ

らに右隣、四つ目の部屋も調べてみるが、やはり鍵はかかってなく、人の姿は見えなかった。

思考してみる。僕は何か記憶を違えていただろうか。別の部屋に囚われていた……いや、そんなはずは

ない。窓ガラスの割れた部屋は間違いなく僕がいた場所だった。そして、あえて僕たち三人を別々の遠

い部屋に監禁しておく必要性も感じられない。部屋同士の壁は頑丈で、声が通じるようでもなかったし

、同じような監禁に適した部屋を使わない理由は無いのではないか。

ということは、宮田と雨笠先輩は、すでに別の場所に移されてしまったということだ。あれから随分時

間も経っているし、そう考えるのが自然だ。じゃあ、どこに行ったんだ？考えて、最悪の事態を想定し

てしまう。だけど、槇島草太は、僕らを殺そうとはしていなかったはずだ。三人とも同じ注射を打たれ

ていたし、僕は死ななかった。遠藤明雄の口ぶりでは、僕が殺されかかったのは、正気のまま逃げ出し

てしまったからだ。そうでないはずの二人が殺される理由は無いはずだ。きっと生きているはずなんだ

。自分に言い聞かせるように強く強く念じる。二人を見つけるまでは諦めるわけにいかない。

じゃあこれからどうすればいい？あてが無くなってしまったのは確かだ。早く二人を見つけなければこ

の場は危険だが、どこに行ったのか聞けるような相手もいない。教団員たちは洗脳されているようだし

、拳銃で脅したところで質問に答えてくれるとは限らない。そんな危険を冒して捕まったら元も子もな

い。ならばどうする。

――槇島草太だ。彼は他の教団員たちに指示を与えていた。彼は理性や自我を保ったまま教団のことを

取り仕切っているはずだ。彼じゃなくとも、他に誰かまともな――完全には洗脳されていない教団員を

見つけて、二人の行方を聞きだすしかない。それが叶わないなら、自分の足でビルの全てを調べつくす

。とにかく、他の部屋に行ってみるしかない。

だったらまずは、どこに行くか……何となくだが、すでにそれは決まっていた。いつの間にか足はその

場所に向かっている。何故かはわからないが、そこに行かなくちゃいけないような気がしたのだ。

 

僕ら三人が椅子に縛りつけられ、槇島草太に注射を打たれた部屋。その広間。ビルの中央付近にあるミ

ーティングルームみたいな大きな部屋。そこにはいくつかの出入り口があった。両側に自動ドアがあり

、その片方はガラス張りとなっていた。そのドアの斜め前方から、部屋の中を覗き込む。そこには、男

が一人ポツンと立っていた。その白衣を着た猫背気味な後ろ姿は、もはや間違えようもなかった。

自動ドアがガーッと開き、僕はすばやく中に踏み込んだ。拳銃を両手で構え、振り向いた男に、動くな

、と大声で叫ぶ。それから手を上げるように指示すると、若干驚いた顔をしていた男は渋々と言ったよ

うに両手を上げた。

「なんできみが拳銃を持っているんだ……？もしかして遠藤明雄のものを奪ったのか？」槇島草太は不

敵でかつ無気力なにやけ面を見せながら質問を投げかけてくる。いや、質問というよりはひとりごちた

呟きのようだった。「よく彼を出し抜くことができたな。遠藤明雄はどうしたんだ？」

「彼は死んだよ」

僕が答えると、槇島草太は若干面食らったような間を開けた。

「死んだ？遠藤明雄が？きみが殺したのか？まさかそんな」

「今この建物を襲っている連中……ジオシンメトライザーとか言う連中に襲われて死んだよ」

「ここを襲っている連中が？じゃあ、外で殺されたって言うのか。だったらきみは何故この場所まで態

々戻ってきた？逃げればよかったものを……」

「その前に、宮田と雨笠先輩を返してもらわなきゃいけない」

「……ああ、あの二人か。彼らを助けるために戻ってきたのかい。ご苦労なことだ」

「うるさい、早く二人の居場所を教えるんだ」

拳銃を肩で構えて槇島草太の体を狙う。槇島はふう、とため息をついて、部屋の奥の壁際を指さした。

「彼ならいるよ、ここにね……」

槇島に狙いを定めたまま、慎重に部屋の奥の方に移動する。脇にあったテーブルの奥で、誰かが力無く

壁にもたれかかっていた。

宮田だった。

壁際で倒れかかったみたいにだらりと力を抜いて、上半身をずり合わせてもたれかかっている宮田をよ

く見ると、目は虚ろに下を向いたままで、口からは涎を垂らしていた。

その時槇島草太が手を服の奥に滑り込ませようとしたのが見えた。僕は槇島に拳銃を向け直し「動くな

！」と言った。槇島はやれやれと言った様子で肩をすくめ、両手を上げ直した。

「宮田、大丈夫か、しっかりしろよ」

右手で注意深く槇島草太を狙ったまま、宮田の肩を揺すったり、頬を叩いてみる。だけど、宮田は反応

しない。ただ、「ああ」とか「うう」とか呻いただけだった。

カッとなって、槇島草太を向いて銃口の先を見定める。

「槇島草太……宮田にいったい何をした？」

槇島はうすら笑いをしながら首を横に振った。

「別に何も……？きみと同じセラピーを施しただけさ。だけど、この効果もさすがに個人差はあってね

……きみみたいに無事に自我を保てることはまず無いんだが……宮田くんはさすがに効き目がありすぎ

たみたいでね……」

「それで……宮田を廃人にしたっていうのか！」

槇島草太はククッと笑った。

「そんなつもりはなかったんだけど、そうなってしまったんだから仕方ないよ。彼自身は最後まで抗っ

てたみたいだけど、まあ運が悪かったんだね。雨笠千代子みたいに上手く行けば、無事に我々の一員に

なっていたと言うのに……」

「そうだ、雨笠先輩はどうしたんだ？彼女は何処へ……」

「さあね……今頃、彼らに殺されているかもしれないなあ」

「彼ら……誰のことだ？」

「きみが言っていただろう。ジオシンメトライザーとか言ってたか？ここを襲っている連中だよ」

「雨笠先輩が……？クソッ」

部屋の外へ出ようかと、足を一歩踏み出す。だけど、思いとどまった。槇島草太は笑う。

「彼を置いていくのかい？彼もいずれ殺されるかもしれないぜ。それに、我々の中に紛れた雨笠千代子

をどうやって探す気だい？きみ自身危ないんじゃないかい？」

槇島草太の言うとおりだった。闇雲に雨笠先輩を探したところで上手くいくとは思えなかった。だけど

、だったらどうすればいいのか。迷いが生じる。槇島は……本当に何も知らないのだろうか？

そんな思いを察しているのかどうか、槇島は明後日の方向を見て話し出す。

「そんなことより、ジオシンメトライザーとはなんなんだ？何故我々を襲っているんだ？」

「……知らないのか、お前は？」

「知ったことか……いや、もしかしたらそうなのだろうな。我々を滅ぼそうとする外宇宙知性体の手先

か。まさかここまで人間たちを操ることができるなんて……考えてはいなかったが」

「遠藤明雄もそう言っていた。だけど、外宇宙知性体って何なんだ？何故お前らと敵対しているんだ？

波動論教っていったい何なんだ？」

「ふん……ぼくらはただ宇宙意思に従っているだけのことだ。まさかそれがこんなことになるなんてな

……ぼくらは殺されるかもしれない。外宇宙知性体……ジオシンメトライザーって何だよ畜生、ぼくら

だってこうなるとは思ってなかったんだ、クソッ」

普段無感情な槇島草太が、明らかに焦りと憤りを見せて、足元を強く踏みならした。こうなることは彼

にとっても想定外だったらしい。ますますわからなくなる。ジオシンメトライザーとは何か。波動論教

とは何なのか。全ての真相がどこかにあるはずだ。そしてその一端はこの男が持っている。

「宇宙意思って何だ？お前たち波動論教は何に突き動かされている？答えろよ……答えろ！」

拳銃を向けて威嚇するように叫ぶ。槇島草太は忌々しいと言った顔でこちらを見て、またため息をつい

て落ちついた口調で語りだした。

「それに関して詳しく話すには、まず説明しなければいけないことがある。パラドボックスという存在

についてだ――」

「パラドボックス？それなら知っている……宇宙のあらゆる情報が集積される情報特異点……人間の精

神にも宿るというそれだろう」

「なんだ、きみが何故それを知っているんだ？」

槇島草太の質問を無視して銃を構え続ける。槇島はふうとため息をついて話を続ける。

「遠藤明雄にでも聞いたのかな。彼も案外おしゃべりのようだ。まあ、知っているなら話は早い。では

、何故パラドボックスなんて言うものがこの世に存在すると思う？答えは簡単だ……それは神の与えて

くれた魂なんだよ。精神を持つ存在としてぼくらは創られ、そして思考し確固たる意思を持つ存在とし

て確立させるために、パラドボックスという力を与えてもらったんだ」

「神だって？ふざけるなよ、お前は科学者じゃなかったのか？」

恫喝しても、槇島草太は不敵な笑みを浮かべるだけだった。

「大丈夫、ぼくは正気さ。別に変なことは言ってない。まあ考えてもみてくれ。この世に神がいるとす

れば、それはいったいどういった存在だと思う？」

「どういった存在……？お前の言う神は、人間を創り上げた創造主のことだろ？人間を作りだしたのは

自然現象に過ぎないはずだ。人間を作った神なんているはずがない。神がいたとしても、何故人間なん

か創りだした？宇宙なんか創りだした？神がいたとしても、人間の考えるような意味なんて持って行動

してるわけ無いだろう。人間が魂を与えられたなんて、馬鹿馬鹿しい。傲慢な考えだよ」

「その通りさ、笹森くん。全ては自然現象に過ぎないんだよ。神は人間だけに特別な何かを与えたわけ

でもない。だけど、その意思を知る術はあるんだ。ぼくらはそれを見つけた。まあ、聞いてくれ。神と

は何か。宇宙を作りだし、管理する存在がいるとしたら……全知全能の存在がこの世にあるとしたら…

…それは何か。一つだけふさわしい答えがあるんだよ。きみにはわかるか？」

「そんなものはいない」

「いいや、いるんだ。いいや、在るんだ。それはこの宇宙そのもののことさ。この宇宙の全ての現象、

全ての情報を知り、操ることが出来る存在。この宇宙の全てを内包する存在。それは、この宇宙そのも

のの他にあり得ない。つまり、神とは宇宙そのもののことなんだよ」

「まるでトートロジーだな」

「いいや違うね。ぼくが大学で言ったことを覚えてるだろう？宇宙は巨大な一つの精神だ。つまり、神

とは宇宙であり、神の意思とは宇宙意思のことなんだよ。つまり、パラドボックスという自然現象も、

言いかえれば神がぼくらに与えてくれた力となりうるんだ。そういう考え方だよ。ぼくらは、ぼくらが

ぼくら自身であるために必要な存在、パラドボックス――この魂を守りとおさなければならない。そし

て、さらに複雑で高次元な精神へと進化していく――それが宇宙の意思そのものなんだよ。何故生命は

進化し、人間という覇者を生み出したのか。それを考えてみればいい。僕らは進んでいくために存在し

ている存在なんだよ。ぼくらは宇宙の意思に従い、種としてさらに進化していかなければいけない。ぼ

くらはそれに目覚めた。宇宙の意思と同調し、真に重要なことを理解した。ぼくら波動論教とは、進化

する力に目覚めた者のためにある統率機関なのさ」

「その結果が洗脳と自我の破壊か。どこが進化だ？おめでたいな」

「それも必要なことだったのさ。多少無茶をしても、取り急ぎ人々を集める必要があったんだよ。そう

、宇宙意思は警告していたんだ。いつか今日この日のような事態が訪れることをね……」

「外宇宙知性体と戦うため、っていうのか」

槇島草太は頷き、目を細める。

「そうだ。人類という種がここまで進化してきた道のりも、そうそう平坦なものではない。この地球上

に無数の生命が生まれ、淘汰され、一部のものだけが進化した存在として生き残ってきたように……強

いパラドボックスを持つ知性体もまた、宇宙の中で無数に存在しているのだよ。そして、地球人類と争

いを始めるのもまた必然というわけだ。どちらかが淘汰され、他方はさらに進化していく。ぼくらは今

まさに自然界での争いを繰り広げている最中というわけだ」

「そんなに重要なことなのか、パラドボックスとか言うものが！世界をこんな風に変えてしまって……

無数の人々の命を奪わなければいけないほどに！」

「そうだ。外宇宙知性体は見境なく、不明な力を持ってこの世界をボロボロに破壊しつくした。彼らも

また、思っているんだよ。強いパラドボックスを持ち、宇宙の中で進化していく知性。それは、ただ一

つでいいのだと。それが宇宙の摂理なんだ。だけど、ぼくら波動論教だけは守られた。それは、宇宙意

思に従っていたため、宇宙の加護を受けられたということなのさ。だからぼくらは守らなければいけな

い。地球人類の可能性を。ぼくらに宿ったこのパラドボックスを。パラドボックスは、人の精神に寄生

して、より高い次元の存在へと導くもの――寄生する箱<パラサイテッドボックス>であり、宇宙の意志

と繋がり、その導きを受けるための箱――導きの箱<パラダイムボックス>であり、多くの災いを宿すと

ともに、進化していくという希望の力を宿した箱――パンドラの箱<パンドラズボックス>であり――自

分という意思を、その内的宇宙を作り、宇宙の中にパラドックスさえ起こす力――パラドックスを起こ

す箱<パラドボックス>であるんだよ。宇宙意思に従い、僕らは戦い、進化していく。波動論教とはそれ

だけのための存在。それだけが重要なんだ」

「だけど――それももう終わりかもしれないな」

槇島草太は忌々しげな瞳で、明後日の方を向いた。

「外宇宙知性体――ジオシンメトライザーという名のそれだ。クソッ、まさかここまで侵攻してくると

は思わなかった。こんなことになるなら、きみをもっと早くに――そう、殺しておけばよかったんだ」

「そうだ――」

波動論教の行動原理と、外宇宙知性体の関係は大体わかった。だけど、僕にとってもっと重要なことが

まだわからないままだった。

「外宇宙知性体と、加賀美先輩の関係は――いったい何故、僕たちを狙ったんだ――？」

槇島は険しい顔のままふふんと笑う。

「言っただろう。加賀美香苗は我々の敵だ。そして世界の敵だ。だから排除しようとした。それだけに

過ぎない」

「つまり、加賀美先輩が外宇宙知性体の仲間だって言うのか？」

「ああ、そうだ。彼女は奴らの手先だったんだよ」

「じゃあ、例のメッセンジャー事件の時も、実際に加賀美先輩が僕らにメッセージを伝えたのか？」

「それは知らんよ。まあ、外宇宙知性体があの事件を起こしたことは明白なことだが」

「可能性はあるっていうのか？じゃあ、加賀美先輩はどうしてそんなわけのわからない存在になってし

まったんだ？彼女はただの人間だったはずだ。それはお前も知ってるんだろう！？」

「さてね……きみが聞いたと言う彼女の最後の言葉……それを思い出したらどうだ？」

「まさか……それが真実だったと言うのか？」

「むしろ、未だに信じようとしない方が不自然に思えるがね。きみも確か波動論教の街頭演説を聞いた

んじゃなかったか？彼女もまた、外宇宙知性体と同じ、自らの本質的部分――パラドボックスに触れ、

自分の存在とその構造を組み替えられるようになり――やがては波動レベルの存在へと回帰したんだろ

う。そして、宇宙をさまよううちに、外宇宙知性体と接触し、彼らの傘下に置かれることとなった……

彼女はこの星の人類を売ったんだよ」

「でも……だったら、なんで僕たち三人の自我を壊すことで加賀美先輩を排除することになるんだ？話

が繋がらないじゃないか」

「わからないのか？それも加賀美香苗自身が言っていたことだろう。彼女は、自分の存在を宇宙に拡散

させてしまったんだよ。だから、彼女はもはや存在しない存在となってしまった。きみたちが言ってい

た、加賀美香苗の存在に関するパラドックスも、そこのところが原因で起こったんだろうさ。加賀美香

苗というパラドボックスが拡散して存在が変化した過程で、周りの人間たちのパラドボックスの中で、

彼女の存在していたはずの歴史が書きかえられてしまったんだ。だから、彼女は既に死んだことになっ

てしまった。それぞれの人間の間で認識の食い違いがあるのもその関係だろう。まあ、つまりはそうい

うことさ」

「随分曖昧な理由だな。本当にそんなことがあると思っているのか？」

「さてね。ぼく自身は詳しくわかっていないんだよ。うちの大幹部様が言っていたことだからね。加賀

美香苗が我々の敵として観測されたのも、その大幹部様のおかげなんだ。彼も今、この建物に来ている

んだがね」

「それは、例の大預言者とか言う人間のことか？」

槇島草太の話を聞いて、支倉隼人の顔が思い浮ぶ。あの男が加賀美先輩を観測したのだろうか、と何故

か思ってしまう。だけど、槇島は首を横に振る。

「いいや。別の人間さ。大預言者様も、大幹部様方の下で働いてる人間に過ぎないしね。何故そんなこ

とを聞く？」

「何でもないよ。それより、何故僕らを始末することで加賀美先輩を排除できるって？」

「ああ、そうだ。加賀美香苗は、存在しない存在になった。であれば、本来誰にも認識できないものに

なるはずだろう？だけど彼女は外宇宙知性体の手先としてこの世に存在し続けている。それは何故だ？

つまり、宇宙のどこかに彼女の本質が記録されているんだよ。彼女がその存在を確固たるものとして存

続させていくため、寄り代となる存在を利用しているんだ。そしてそれがきみたち三人だ。彼女の寄り

代がきみたち三人のパラドボックスだったんだよ。きみたちは、彼女に寄生された存在だったんだよ」

「僕たちが……加賀美先輩の……」

槇島草太の言葉を聞いて、遠藤明雄の言葉が思い出される。『お前らの存在が加賀美香苗というシステ

ムを作り上げている。お前らは加賀美香苗の存在を維持する歯車に過ぎなかった』あの男は、そう言っ

ていた。

「大幹部様の言っていたことはそれだけさ。お前たち三人の自我を壊してしまえば、加賀美香苗という

存在もまた消滅させることができるってね。あの忌々しい外宇宙知性体の、強力な尖兵を消し去ること

が出来ると言うんだ。そのためにぼくらは苦心したと言うのに……このざまだ」

「でも……外宇宙知性体は地球を滅ぼそうとしてるんだろう？そしたら、僕らも消える。加賀美先輩も

消えるってことになるじゃないか」

「まあ、それでも結局きみたちは、世界の滅びに巻き込まれずに生き残ってるわけだろう。最初から生

かされる運命だったんじゃないのかね」

「……どうして、僕らだったんだ？」

「どうしてって？加賀美香苗がきみたちを選んだことか？そんなのは知らないよ。本人にでも聞いても

らいたいものだね。どうせくだらない理由に過ぎないだろうが」

槇島草太の言うとおり、その理由は加賀美先輩本人に聞かなければわからないことなのかもしれない。

彼女が何故僕たちを選んだのか。本当に僕たちを利用したと言うのか。その答えが聞きたかった。だけ

ど彼女と会うことは出来ない。どうすれば会えるのか分からない。それはとても歯がゆかった。

だけど、まだ聞いておくべきことは残っているはずだ。僕はとりあえず槇島草太に残った疑問をぶつけ

ていこうと考えた。

「そもそも波動論教は、いつから僕たちを狙っていたんだ？加賀美先輩を敵とみなしたのはいつからな

んだ？」

「そうだな……大幹部様たちが宇宙意思と同調する儀式――<星詠み>を行うたび、加賀美香苗という存

在に妨害されていたのだそうだ。宇宙意思は加賀美香苗を敵とみなし、やがて交信の度にその情報を我

らに授けた。きみたちがぼくの大学を訪ねてきた時には、まだぼくらは加賀美香苗の関係者を洗い、大

幹部様たちの指示を仰いでいる段階だったんだ。そして、ぼくはきみたちの話を聞き、興味を持ち、一

応大幹部様に報告したんだ。そしたらビンゴさ。きみたち自身がそういう存在であることを突き止めた

んだ。大手柄だったよ。だからぼくはきみたちの処理も一任されたんだ。きみがこの建物から逃げさえ

しなければ、ぼくの立場は急上昇していたところだったんだ」

「それは残念だったな。もうひとつ聞いておきたい。加賀美先輩が僕たちの中にしか存在しないと言う

なら、お前たちは何故加賀美先輩のことを知っていられる？僕たちが関わらない限り、加賀美先輩はお

前たちの中に存在しないんじゃないのか？」

「なるほど、そういう考え方もありか。確かに、ぼくらのパラドボックスには、加賀美香苗は存在しな

いはずの存在になっているはずだ。だけど実際に、加賀美香苗は、自律した存在として僕たちに関わっ

てきている。そうぼくは思っている、と――そうきみは思っている」

「……どういう意味だ？」

「きみにとっては、加賀美香苗はこの世に存在するのだろうさ。きみという人間のパラドボックス……

内在宇宙の中ではね。だけど、ぼく自身ににとってはそうじゃないかもしれない。きみの見ているぼく

は加賀美香苗の存在を理解しているが、ぼく本人の内在宇宙では、そうではないかもしれない。パラド

ボックスが存在する数だけ、別の宇宙も存在する――」

「――主観的観念論――」

雨笠先輩がいつか言っていた言葉を、ふと思い出す。槇島草太はにやりとする。

「まあ、わかるだろう。そういうことだ。ぼくのなかに加賀美香苗はいないんだ」

「だけど――本当にそうなのか？それが本当なら、人間が対話することに意味などないと言うことじゃ

ないか。違うだろ？人間たちはお互いを助け合い、高め合って進化してきたんだ。ならば、今相対して

いる僕とお前が見えているものが全く違うなんて、そんなの信じられるわけがない。たとえパラドボッ

クスが内在宇宙を作りだすとしても……それでもその外の世界と無関係なはずがない！」

「ふん、その通りだよ。きみが僕をどう見ているかはわからない。ぼく自身がきみの創りだした幻かも

しれない。それでも今きみの前に相対しているぼくは、ちゃんと考え、ぼく自身の人生を生きている…

…そのつもりだよ。そして、加賀美香苗のことも知っている……」

「つまり、ただの戯言か」

「そう言うなって。きみが気付いてないだけで、それは本当のことかもしれないぜ。でも――まあ、パ

ラドボックスに関してはきみの言う通りさ。パラドボックスは内在宇宙を作るが、それを生み出す情報

のストリームは、やはりお互いのパラドボックスにまで影響を及ぼし合っているはずだ。それは、ひと

りひとりの精神を、宇宙を作りながらも、波動が伝わるみたいに歪みを蓄積させて……お互いの情報を

さらに複雑なものに高めていっているんだ」

「じゃあ、加賀美先輩の存在は、いったい――」

「さっきまで言っていたことは、大幹部様に聞いたことだと言っただろう？他の奴らは大して疑ってな

かったようだが、ぼくはきみらの話を聞いてしまった。あまりにも異様なパラドックス――だからね、

実際にはもっと複雑なシステムが働いていると考えているわけだ」

「それはいったい？」

「きみたち三人が加賀美香苗の存在を維持しているというのは、本当のことだろう。あの大預言者様を

抱える大幹部たちがそんな無意味なことをするはずがない。だけど、ぼく自身はこう考えている。そも

そも、加賀美香苗という人間は本当に存在したのか？」

「どういう意味だ」

「思い出せよ、メッセンジャーの事件を。外宇宙知性体は、地球人類全ての精神に介入し、情報を送り

込むことが出来る――そういう存在だって言うことだろ。例えば、誰かの脳内情報に介入して、もとも

と存在しないはずの架空の人物を、その人間の中で実在することにした、と――そんなのはどうだい」

「それが加賀美先輩だったって言うのか？」

「そうだ。加賀美香苗は……今や薄れていく思い出の中にしか存在しない。ぼくの中からも、どんどん

記憶は消えていく。本当に彼女は存在したのか？最初から加賀美香苗なんて存在しなかったんじゃない

か？加賀美香苗とは――創られた存在――プログラムされた人格に過ぎなかったのではないか？」

「馬鹿なことを！加賀美先輩は確かにいた――僕たちの中に、今も存在し続けている――」

「そう。きみたちの中には確かにいたんだろう。だけど、ぼくにはもう曖昧なんだ。言われてみれば彼

女は存在したと思う。だけど、本当に彼女が存在したのかどうか、自分ではもうわからないんだ。そこ

が違いなんだろうね――きみは、きみたちは、加賀美香苗という外宇宙知性体の尖兵システム――それ

を組み上げるためのプログラムに感染させられたんだよ。きみたち自身も知らない間にね――周りの人

間は――ぼくを含めて、きみたち自身のプログラムの影響で、彼女を存在していたように見せているの

さ。彼女の生死のパラドックス云々は、プログラム自体のバグか、あるいはきみたちの恣意的な意識が

見せたちぐはぐさに過ぎないんだろう」

「何故そんなものを創る必要があったと言うんだ」

「さあね。奴らは地球人類の情報を手に入れたかったんじゃないか。そのために、疑似的な地球人類の

人格を創り上げさせて、それを自らの尖兵とした、とかね。そのためにきみたちは利用されたんだよ。

きみたちはずっと騙されていたんだ。ハハッ、こいつは傑作だ」

「……それで満足か？」

「なに？」

「加賀美香苗は――先輩は、彼女は確かにいた。存在したんだ。お前の言う蓋然性の無いプログラム云

々よりも、僕は僕の記憶を信じる」

「ふん、ご立派なことだ。蓋然性を言うなら、もっと別の可能性でも唱えるか。外宇宙知性体ではなく

、もっと別の――人間の意思が、加賀美香苗を創り上げたとかね」

「誰が創り上げたと？」

「きみがだ。あるいは宮田くんでもいいし、雨笠千代子でもいい。誰かが彼女を創り上げた。存在しな

いはずの人間を創り上げた――と言うよりも、世界の全てがきみたちの見ている夢だとしたら――」

「馬鹿馬鹿しい」

「そうだな。さすがにぼくもそう思うよ。でも、完全に納得のいく理屈が出てこないんだ。ああ、全く

わけがわからない。……いや、待てよ……もしかしたら、今の理屈も案外捨てたものではないかもしれ

ないな。だとすれば、加賀美咲江が……」

「加賀美咲江がどうしたって？」

槇島草太が唐突に出してきた名前を聞いて、僕もまた唐突に思いだす。そういえば、大学で槇島に加賀

美先輩の最後の話を聞かせた時、加賀美咲江がいた手前、細部まで話すことができなかったのだ。だけ

ど槇島は先ほど、先輩の最後の言葉を思い出せと言った。先輩が消えてしまった意味を、その言葉にあ

るのだと。加賀美咲江に告げた時と同様、加賀美先輩が消えてしまうようなことを示唆する言葉を、槇

島には告げていない。ならば、何故？

「そうだ……槇島草太、そもそも何故お前が加賀美先輩の最後の言葉を知っていた？そこまで詳しく話

した覚えはないのに？」

「ああ、そのことか……件の加賀美咲江に聞いたのさ――」

「え？」

その言葉を聞いて、わけがわからなくなる。加賀美咲江は、加賀美先輩の最後の言葉を詳しく知ってい

たのか？そもそも何故、加賀美咲江と槇島草太がそんな話をした？僕はそんな場面を見た覚えはないし

、聞いた覚えもない。どういうことなんだ。

槇島はにやりとして言った。

「彼女は我々の客人だからな。丁重に扱わせてもらっているよ」

「なっ……」

そこで槇島草太は突然地面にしゃがみ込む。視界から槇島の姿が消え、目で追おうとした頃にはもう、

自分の体のすぐ下に槇島が近づいてきていた。慌てて身をひるがえし、距離をとって銃口を槇島に向け

る。だがその時既に、槇島は懐から拳銃を取り出して僕に向けて構えていた。

お互いの眉間に向けて拳銃を構えて立ったまま、腕一本分くらいの距離でにらみ合う。

「ようやく油断したみたいだね。さあ、どうする？」

槇島草太が強張った笑みを浮かべる。僕は相手の挙動に集中して、視線で何とか牽制を続ける。

「……銃を下ろせ」

そんな言葉を吐いていても、流れ出る冷汗は止められなかった。そしてそれは、槇島草太も同じようだ

った。

「下ろすわけにはいかない。ぼくはこんなところで死ぬわけにはいかないんだ。きみこそ銃を下ろした

らどうだ？ぼくも銃撃は素人だが、少しは訓練したんだぜ。敵うと思うか？」

「素人が少し練習したくらいで勝った気になっているのか？」

「違いないな」

どちらともなくゴクリと喉を鳴らして、にらみ合いは続く。うかつに瞬きも出来なさそうな緊張した場

が重くのしかかる。恐怖に負けて銃を落としてしまいそうになる。手の震えを必死で抑えて、照準を合

わせ続ける。

槇島草太は根負けしたように、一歩、二歩と後ずさり始める。そして、僕の注意を引くみたいに言葉を

出し始める。

「加賀美咲江について知りたくはないか？彼女は今、この建物にいるよ」

「……そうか」

集中を維持したまま、言葉を返す。余計なことを考えないようにしようとしても、思考が動き始めてし

まう。気がつけば、言葉を漏らしていた。

「僕らに注射を打った時言っていた『例の女』――加賀美咲江のことだったんだな」

あの時のことが思い返される。槇島は部下とやり取りをしていた。『例の女のほうはどうなっている？

』……『はい、確保できています』と――あの時僕は、さゆきが波動論教に捕まったのかと思っていた

。だけど違った。あれは加賀美咲江を指していたんだ。

「まあ、そういうことだ。だけど、もしかすると勘違いしてるんじゃないか？」

「……何をだ？」

話しながら、槇島草太はじりじりと後ずさる。その背中に、僕が入ってきたのとは反対側の自動ドアが

見える。槇島はその軽い金属製のような自動ドアから逃げ出そうとしているのかもしれない。

「またぼくら波動論教が加賀美咲江をさらったと思ってるんじゃないか？誤解だよ……彼女は自ら来た

んだ。ぼくのところにではない。波動論教にだ。お姉さんの行方を尋ねに一人で来たんだよ」

「なんだって？」

「加賀美咲江はきみらを売ったんだ。地球を売ったお姉さんと同じようにな。ハハッ、笑えるぜ。彼女

はきみらの詳しい事情も話してくれたし、きみらを捕らえるために協力してくれた。宮田くんや雨笠千

代子に連絡をとって、上手いこと捕まえさせてくれたよ。傑作だな」

胸がザワザワとした。いや、胸の中だけじゃない。体全体が震え、心臓の鼓動が激しく聞こえ、冷えた

汗がたれて気持ち悪かった。そして、空気そのものがザワザワしたように感じられた。錯覚なのだろう

か。そうじゃない。確かに、耳元で何かが囁いている。騒がしさが近づいてくる。

「ざまあみやがれ。きみらは結局あの姉妹に騙されっぱなしだったわけだ。そうやって愚昧な態度を見

せ続けてりゃいいのさ。奴らほくそ笑んでるぜ。もう一度言う――」

集中していなければならないはずだった。だが、いつの間にか僕の目は槇島草太の姿から外れていた。

その後ろから現れたその姿に、目を奪われて――

「お前らはあの女どもに、騙されてたんだ――」

槇島草太の声が、言いきる前に途切れる。その背中に、ずしりと何かが突き刺さる。

「なっ……」

唖然とした表情の槇島草太は、やがて苦悶の表情を見せ、膝から崩れ落ち、やがて地面に倒れ伏した。

ぐったりとうつぶせに寝そべったその背中の腰の近くからは、大きなナイフが生えていた。

僕は見ていた。槇島の背後の自動ドアが開いていくのを。そして、そこから現れた人影を。彼女は、ド

アから一気に駆けより、槇島の背後にナイフを突き立てた。彼女は――

ああ、信じたくもない。彼女は、加賀美咲江だ――

倒れ伏した槇島草太の背中が、その白衣が少しずつ血に塗れて赤く染まっていく。加賀美咲江が槇島に

近寄り、無造作にナイフを引き抜くと、血がピピッと跳ね上がり、彼女の頬についた。

「咲江、さん……」

加賀美咲江はこちらを一瞥して、視線を戻した。眼下に倒れる槇島を見つめ、無感情な顔でナイフをゆ

っくり振りかぶる。

僕はその瞳には見覚えがあった。それは――あの時対峙した、ジオシンメトライザーに操られた男と同

じ瞳――

腰が抜けて倒れ込む。なんてことだ。ジオシンメトライザーは彼女の心を奪っていってしまった。もう

、彼女を止めることなどできない。波動論教の人間は、みんな彼らに殺されるのだ。

ナイフが振り下ろされ、槇島の体に突き刺さる。

そのはずだった。

自分の見ている光景が一瞬信じられなかった。何度も瞬きをして確かめる。加賀美咲江の腕は、大きな

ナイフを槇島の体に突き立てる直前で、空中で止められていた。力のこもった腕が震えて、未だナイフ

を突き立てようとする力が込められているのがわかる。その彼女の腕を後ろから羽交い絞めにして止め

ているのは、ああ――僕のかけがえのない親友、宮田健次その人だった。

「咲江……ちゃん……やめるんだ……」

苦しそうな顔で宮田が言う。グッと彼女をの腕を掴んで、空中に静止させている。加賀美咲江は、それ

でも動きを止めようとしなかった。

「宮田……お前……」

驚いて声を漏らす。先ほどまで廃人のようにうな垂れていた宮田が、正気を取り戻して加賀美咲江を静

止している。その顔は苦悶に満ちていたが、それでも宮田は叫んだ。

「咲江ちゃん！……君がこいつを殺して何になるっていうんだ！……頼むから……馬鹿なことはやめて

……やめてくれ……」

必死の呼びかけにも、加賀美咲江は止まらない。ナイフの切っ先が槇島草太の体に埋もれかける。

「宮田！咲江さん！」

倒れ込んでいた地面から起き上がって、しゃがみ込むようにして揉みくちゃになっている二人に近寄る

。一瞬だけ宮田の目がこちらを見る。それだけで、自分のやるべきことがわかった。

僕は、持っていた拳銃のグリップの底でナイフを打ち払い、加賀美咲江の手からそれを弾き落とした。

カランカランと転がりながら、ナイフは壁際に転がっていく。

それと同時に、宮田は力づくで槇島草太の体から加賀美咲江を引き剥がし、床に引き倒して馬乗りにな

った。

「咲江ちゃん……お願いだから……やめてくれ……よ……」

ぜいぜいと肩で息をしながら宮田は、虚ろな目のまま暴れようとする加賀美咲江を必死で抑え込む。爪

先が宮田の腕を引っかき、血が流れる。それでも宮田は加賀美咲江を抑えつけた。あまりにも悲しそう

な顔をしながら……

「咲江ちゃん……君がどうしてこいつを殺そうとしてるのか……俺にはわからない……」

ぎりぎりと爪が肉に食い込んでいく。顔をしかめながらも、宮田は加賀美咲江に呼びかけを続けた。

「俺にはわからない……けど……やっぱり人が人を殺すなんて……そんなの、ダメだよ……誰かを殺し

て解決なんて、そんなの悲しすぎるじゃんか……」

涙がこぼれる。滴は彼女の頬に落ちて、一瞬大きく目を見開かせた。

「なあ……咲江ちゃん……お願いだから……いつもの優しい君に戻ってくれよ……俺の好きだった君に

戻ってくれ――……」

宮田は呼びかけた。涙を流しながら訴えた。それでも、加賀美咲江は答えない。何も反応すること無く

、虚ろな目で宮田の顔を見る。いつしか宮田は顔を伏せ、ただ涙を流していた。

ダメなんだ。ジオシンメトライザーは彼女の心を奪い、操り人形にしてしまったんだ。もう彼女の心は

戻ってこないんだ。そうでなければ、誰だってあんなに簡単に人を殺せるわけがない。きっと、彼女も

、他の操られた市民たちも……死んでしまったも同然なんだ……

そう考えた方が楽なんだ。

いつしか僕も目を閉じ、顔を上げ、壁にもたれかかったまま、言いようのない喪失感をただ味わってい

た。

「宮田さん……」

その時、声がした。どこからかぽつりと発せられた呟くような声。ハッとして目を開ける。

「宮田さん、痛いです……」

宮田と加賀美咲江の目が合った。宮田の涙が落ちてびしょびしょになったその顔が、その瞳が人間らし

い輝きを取り戻していた。気付けば、彼女も涙ぐんでいるようだった。宮田は呆然として、固まったま

まだった。

「腕、痛いんですけど……」

「え？あ、ああ」

再びの言葉によってようやく宮田は、強く握っていた加賀美咲江の腕を離した。それから馬乗りになっ

たままであることに気付いたようで、慌てて彼女の体から立ち上がり、やがて腕を引いて彼女を抱き起

した。

「咲江ちゃん、その……」

宮田は照れたように視線を外し、何か言いたげにもじもじとしていた。加賀美咲江はうるんだ瞳を手で

ぬぐって、薄く微笑んで答えた。

「……私は大丈夫です。もう……操られていません」

「そっか……いや、よくわからないんだけど……それなら良かった……」

宮田はしどろもどろに頷いて笑った。加賀美咲江がクスリと笑う。

「ごめんなさい……酷い迷惑……かけちゃいましたね」

その言葉には憂いが込められていた。彼女は、ジオシンメトライザーに操られていたことを覚えている

のだろうか。自分が人を殺そうとしていたことも……やはり、わかって言っているのだろうか。胸がズ

キリと痛む。自分がそんなことになったりしたら、耐えられないかもしれないな……そんなことを思っ

ていると、突然宮田が大声を出した。

「咲江ちゃん！」

「は、はいっ」

宮田が彼女の肩を掴み、真剣な眼差しで視線を合わせる。

「俺は、君のことを助けるって約束したじゃないか。あの時……どんな時でも俺だけは君の味方になる

からって……そう言っただろ。だから気にしなくていいんだ。俺は……俺がどんな場所にいたとしても

、君を守りに駆けつけるから……だから、その……」

「……宮田さん、ありがとう……」加賀美咲江は、拭ったはずの瞳から、今度こそ大粒の涙を零しなが

ら、「あなたのおかげで私、戻ってこれました」と途切れ途切れに告げた。

宮田は笑って、手を叩いた。

「まあいまいち状況はわからないけどさ……とにかくこれで良かったんだよな！」

それから、僕の方を見てあどけなく笑った。

「修も、ありがとな。あの時、助けてくれて……」

そう言ってから照れたように苦笑いした。僕の方も照れくさくなったけど、宮田の顔を真正面から向い

て言ってやった。

「馬鹿、僕たち四年来の親友だろ？」

宮田は馬鹿みたいに嬉しそうに笑って、

「ああ、そうだな。そうだった――」

――そう言いかけたところで、その頭を破裂させた。

真っ赤な血をまき散らしながら、宮田の体がゆっくりと倒れ込む。僕と、加賀美咲江の見ている前で…

…ドサリと、勢いよく地面に叩きつけられて……そのままもう、動くことはなかった。

意味がわからなかった。目の前で何が起きているのかわからなかった。ただぼんやりと、宮田だったも

のの体が床に血だまりを作っていくのを眺めていた。

わかりたくなかった。認めたくなかった。だけど、ぼんやりした意識と裏腹に、頭のどこかが高速で回

転を続け、やがてその事実を鋭く突きつけてくるのだ。

加賀美咲江は床に膝を突く。僕は彼女の視線の先を追う。そこには槇島草太がいた。右手で拳銃を持ち

……銃口から硝煙をまき散らしながら、ずるずると重い体を引きずるみたいに、自動ドアの方へ逃げて

いく。

「畜生……こんなところ……で……」

「槇島あああああっ！」

気がつけば罵声とともに、手に持っていた拳銃を槇島に向けて構えていた。

「ひいっ」

怯えたように槇島草太が体を震わせる。血でまみれた背中が、大きく揺れる。奴は自分の死を恐れてい

る。宮田を……僕の親友をこんな風にしたくせに。構わない。殺してしまえ。奴だって人を殺したんだ

。断じられて当然の存在なんだ。だから、引き金を引いてしまえ――そう思って、指先に、大きく力を

込める。

――ダメだよ。

頭の中で、突然声がする。その声は、良く知っている声だ。宮田健次……槇島草太に殺された、僕の親

友……

――人が人を殺すなんて、そんなのダメだよ。

彼の言葉がフラッシュバックする。それは本当についさっきのことだったのに、今は遠く感じる。彼は

もう、この世にいない。だから、彼を殺したあの男を……

――誰かを殺して解決なんて、そんなの悲しすぎるじゃんか。

ああ……宮田、止めるのか？そんな風に僕を止めるのか？宮田……お前の言葉は、本当に正しかったの

か？たとえ自分が殺されたとしても、そんな風に言うことが出来るのか？

わからない。わからないよ、宮田。

だけど、お前はいつだって、真っ直ぐな気持ちを持って生きていた。少し馬鹿っぽく見えても、本当は

他の誰かの気持ちを考えようと必死だったよな。そのことは知っているよ……

気がつけば僕は、引き金を引くことも出来ず、ただ突っ立っていた。腰を抜かしていた風の槇島草太が

、拳銃と視線をこちらに向けたまま、自動ドアの方に向かって駆けていく。

そのガラス張りの自動ドアの向こうで、無数の人影が待ち構えていることも知らずに。

自動ドアが開いた瞬間、槇島の頭は、ホームランボールを打ったように綺麗に、スコーンという音を立

てて、金属バットに打ち飛ばされた。

だけど野球ボールとは違い、その頭はぐちゃりと音を立てて床に叩きつけられ、粉砕されたのだった。

その顔面は見るも無残な、潰れたトマトのようになっていた。しばらくは筋肉がピクピクと反応してい

たが、その動きもやがて止まる。死んでしまった……槇島草太は、死んでしまったのだ。

 

ジオシンメトライザーに操られた市民たちが、部屋の外で大勢待ち構えていた。十数人にも及ぶそれを

一瞥して、部屋の中央に戻る。僕は、膝で立ったままうなだれる加賀美咲江に、手を差し伸べた。しば

らく間があったけど、彼女はその手を取って立ち上がった。

またしばらく間を開けて、俯いたままの加賀美咲江はぽつりと言う。

「宮田さん、死んじゃったね」

「……ああ、そうだね」

今この瞬間、僕は何を言うべきなんだろう。何を言っても白々しくなりそうだし、失ったものは戻って

こない。それ以上に、必死で抑えつけた感情の堰を切ってしまえば、悲しみに押しつぶされて何も出来

なくなるような気がした。だから何も言うことも出来ず、今やただの物体と化した宮田の体を意味もな

く眺めているしかできなかった。そんなことをしていても何にもなりはしないと言うのに。

「ジオシンメトライザー……」

加賀美咲江がぽつりと言う。

「彼らに操られていた時……それでも、自分の意識が心の奥に残ってたんです。自分の体なのに何も動

かすことも出来なくて、何かを考えようとしても言葉に出来なくて……ずっと暗い水の底にいるみたい

でした」

頭がぼんやりとして、何か言葉を返そうとしても上手く考えが纏まらなかった。だけど、彼女の話は頭

の中を素通りすることもなく、空虚になった自分の意識を満たしていく。彼女の方を見ることもなく、

どこを見るともなく、ただ何となくその声を聞き続けていた。

「だけどね、暗い暗い闇の中で、何も見えないはずなのに、視界ははっきりと見えていたんですよ。何

も聞こえないような気分なのに、いつもよりもいろんな音がくっきりと聞こえていたんですよ……あの

人と修一さんが話していることも……聞こえてたんです」

僕らは二人でうな垂れたままで、僕はただ彼女の話を聞き続ける。

「私が波動論教に修一さんたちのことを売った、って言っていたのも……聞こえてました。あれは本当

のことです。私が……みんなをこんな風にしてしまったんです」

息をついで、少し待って、また話を続ける。彼女もまた、抑えきれない気持ちを心のどこかへ追いやる

ために、話をしているのかもしれないと思った。

「あの人……槇島草太と会った日の帰り……宮田さんに送っていってもらった時……宮田さんは、いろ

んなことを話してくれました。修一さんと千代先輩が私に隠そうとしていたことを……内緒で、教えて

もらったんです。こんなのフェアじゃないって、やっぱり全部知ってた方がいいはずだって、宮田さん

が言ってくれて……三人がが居酒屋で話したこと、お姉ちゃんの最後にしていた話のこと、それが波動

論教の教義と似ていたってことも……全部、教えてもらったんです。それで私……みんなに黙って波動

論教の門を叩きました。みんなに連絡を取ったのも本当です。こんな風になるとは思わなかった……な

んて、今更そんなことを言っても許されるわけないですよね。私が……結局、私が宮田さんを殺してし

まったんです」

そんなことないよ。君は自分のやるべきことを頑張っただけなんだ。君は悪くなんかない。そう言いた

かったけど、きっと彼女には白々しい慰めの言葉としか映らないだろうし、そんなものは必要としてい

ないのだろうと思った。それとも、言いだせないのは僕の弱さだろうか。

もうどちらでもよかった。

「ごめんなさい、宮田さん、ごめんなさい……」

ぽたり、音がして滴が落ちた。それは加賀美咲江のものかと思った。確かに彼女の足元には滴が落ちて

いる。でも、僕の足元にも同じようなものが落ちていることに気づく。僕はまた泣いていた。いつの間

にか、どうしてなのか。抑えようとした感情も、抑えられなくなりそうだった。慌てて涙を拭う。

加賀美咲江の涙は止まらない。滴はポタポタと垂れ落ちる。俯いた顔は、長い前髪が邪魔をして表情が

見えない。だけど、想像はつく。

ほら、そうやって涙でくしゃくしゃになった顔を袖で拭って、どうにか哀しみを吹き飛ばそうとして、

それでもどこか歪んでいて、苦しくて辛そうな顔を見せるんだ。わかっていたんだよ。僕も同じだろう

ってことも。

「ねえ修一さん、もしかしたら、本当に全て私のせいかもしれないんです」

無理して平気そうに繕ったつもりの顔で、彼女は何か言う。だけど、意味はわからない。何とか久しぶ

りの言葉を出してみる。どうせそれだって碌に出てこないけれど。

「……どういうこと」

それだけ、言葉を出してみる。加賀美咲江は、哀しい笑みを浮かべて言う。

「居酒屋でみなさんが言っていたこと、覚えていますか。くだらないことだと思ってますか？でも、宮

田さんはそれも伝えてくれました。全部全部、伝えてくれたんです」

「……何を言っているの？」

「私、お姉ちゃんが死んだ時のこと……誰かを庇って交通事故に遭ったんだって言ったじゃないですか

。そしてみなさんは、居酒屋でその真相を推理しました。それが真実だったんですよ。事実、お姉ちゃ

んが庇った相手……それは、私だったんです」

「君が……どうしたっていうんだ」

「槇島草太も言ってたじゃないですか。私が、お姉ちゃんを生み出したんです……」

「そんな……馬鹿な」

「ずっと……ずっと忘れてたんです。今になって思い出しました。あの日、私はお姉ちゃんと一緒に歩

いてて……一緒に買い物したりして、楽しく遊んでました。あの時、道路の向こうに友達の姿が見えた

気がしたんです。急いで横断歩道を渡ろうとした時、一台の車が突っ込んできて……お姉ちゃんは私を

突き飛ばして、代わりに車にはねられました。そう……私のせいでお姉ちゃんは死にました。自分でも

その事実を忘れようとするくらい……自分が許せなくて、苦しくて、悲しくて……きっと、そういうこ

とだったんです。パラレルワールドとかそんなのじゃない。だけど、私はお姉ちゃんが生きていたはず

の世界を想像して、それを望んで、生きていたらあの高校に入っていたんだろうな、とか、どんな友達

が出来たかな、とか……そういうことを想像して……それが、お姉ちゃんという名のプログラム人格を

創りだしたんです。きっと……そういうことだったんです」

「違う！君のお姉さんは、確かに存在したはず……」

「でも、お姉ちゃんは８年前に死にました。私にとっても、その事実は消えない」

「それは……」

「そう。きっとみんな私が招いたことなんです。お姉ちゃんを探すとか言って、勝手な都合でみんなを

巻き込んで、波動論教に捕らえさせてしまって……こんなことになってしまったのは、全て私が悪いん

です。私が、宮田さんを殺したんです」

「ばっ……馬鹿なこと言うなよ！そんな、自分のせいにして全て解決かよ！そんなことしたって誰も喜

ばないに決まってるだろ……宮田だって、そんな風に思われたら……きっと悲しむはずなのに……」

「いずれにせよ、巻きこんだのは私です。とても大事なことだったのに……自分の人生をかけなくちゃ

いけないようなことだったのに、自分一人では怖くて、何ができるか分からなくて……誰かの力にすが

って、お姉ちゃんを探してもらおうとしていたんです。そのくせ、自分の都合で勝手にみんなを売るよ

うなことまでして……結局、こんなことになってしまった。私はもう……私を許すことなんて出来ない

……だから……」

ふと、彼女は本当に辛そうな笑顔を見せて、

「もう誰も巻き込まない……私は、一人だけで、お姉ちゃんを探して、会いに行きます」

そう言って身を翻して、部屋の外に出ていった。自動ドアが開いて、閉じて、彼女の姿は見えなくなる

。僕は結局何を言うことも出来ずに、ただその姿を見送っていた。

どうやって……どうやって先輩を探しに行くって言うんだ。こんな壊れてしまった世界の中で、たった

一人で……外宇宙知性体とかいう不思議な存在の下に行ってしまったらしい先輩の傍に、どうやって近

づいていくと言うんだ……わからない。わからないよ。

いや、そもそも彼女は本当に先輩を探す気なんてあるのだろうか。彼女は自責の念に囚われていた……

そして、彼女にとっては、先輩はもう死んでしまった存在なのだ。

心臓がドクンと跳ね上がる。僕は馬鹿か。なんでそんなことも思いつかなかったんだ。彼女は……もし

かしたら、いや……そんなことあるはずがない。だけど、もしもそうだとしたら……

自動ドアを開けて廊下に出る。彼女はいったいどこへ行った。その姿を探すが、見当たらない。代わり

に、ジオシンメトライザーに操られた市民たちが廊下を徘徊している。奴らに聞いてもまともに答えて

くれるとは思えない。彼女は何処へ行った。どうすればいい……

「こっちだよ」

突然、子供のような声がどこからか響いてくる。慌てて周囲を見渡す。今、誰が呼んだんだ？見れば、

廊下に面しているいくつもの部屋の中、一つだけ開いているドアがあった。声はここから聞こえたよう

な……そんな気がした。

部屋に入ってみる。いくつかの金属机が置かれ、そこら中に何かの書類が収まったファイルや無数の紙

束が散乱している。まるで資料部屋のような室内だ。雑然とした紙の山があって、その間に人が通れる

程度の道ができている。奥には開き切った窓があり、外の風が吹きこんできて紙束をバサバサと揺らし

ていた。奥の窓に寄って、外を覗いてみると、遠くに崩壊した街並みが見えた。下の方を見ると、アス

ファルトに覆われた堅い地面がある。いくつかの死体が視界に入り、顔を背けたくなる。他には何も見

えない。動いている人影もないし、僕の知っている人間の姿は見えない。

ため息をついて振り返ると、部屋の入り口近くに子供がいた。10歳前後と思しき背の低い少年だった。

少年は薄く笑って口を開く。

「あのお姉さんはここから行ってしまったよ」

「……君は……」

「加賀美咲江は、遠くに行ってしまったんだ」

「……そうか」

何となく思い出す。高校の頃のこと。使われなくなった天文部の部室跡を間借りして、加賀美先輩と語

り合った日々。彼女はよく窓を開けて、外の景色を見ながら話をしていた。あの日……先輩が失踪して

しまったあの日もそうだ。

ああ、加賀美咲江もそうだったのかもしれない。僕の知らないうちに、彼女たちはどこか遠いところに

行ってしまったんだ。姉妹そろって、突然にいなくなってしまうんだ。僕らを置き去りにして、勝手に

消えてしまうんだ――だけど、そうなんだろう。何故か納得したような気持ちが芽生える。

加賀美咲江は先輩の下へ辿りつけるだろうか。僕にはわからないけど、そうであればいいと思った。