📘 G.N.S.[3-2] 波動論者は笑う[後]

僕は漠然とした気持ちで読み始めたのだが、途中からは、どこか茫然としながらこの文章を読み進めて

いた。胸騒ぎが止まらなかった。あまりにも飛躍した論理展開と、結論を言うためだけに持ち出された

ような科学用語。どこまでが本当なのかはわからない。異常であるということだけはわかる。だが、問

題はそんなことではない。ここに書かれている文章と同じようなことを、僕は確かに聞いたことがある

のだ――冷や汗が止まらない。なにか……何かがおかしい。

その時、携帯電話が鳴った。慌てて取り出すと、着信は、雨笠先輩からだった。急いで通話ボタンを押

す。

「もしもし、笹森君？いきなりごめんなさい。でも、今さっき、思い出したのよ。この間、咲江ちゃん

の家で会った時、居酒屋からの帰り道で話したことなんだけど……香苗が最後にあなたに言った言葉と

似たような話を、どこかで聞いたことがあるって言ったでしょ？今思い出したの――波動論教よ」

波動論教。日本の新興宗教の一つ。その活動自体は、水面下では数十年前から行われていたらしいが、

最近まではあまり名前を聞くことのない団体だったらしい。ここ１０年ほどの間、表立って活発に活動

するようになり、知名度と信徒を着実に増やしていったらしい。噂によれば、教団の活性化は、トップ

となる人物が入れ替わってから、活動内容がある意味で過激化したからだと言う。先に見た街頭演説の

ような勧誘活動を頻繁に行ったり、半ば強引に体験セミナーに客を引き入れたりするようになったのだ

と言う。噂によれば、内部はかなりのカルトと化しており、信者からの献金などもかなりの額を要求し

、マインドコントロールのような布教活動を行っていると言う話だが……実際のところはどうなのかは

分からない。いくつか内部の情報を流す者はいても、すぐに行方が知れなくなったのだとかいう話もネ

ット上に書きこまれていたが、なにぶん噂に過ぎないので、どこまで信じていいのか分からない。海外

にもいくつも支局を持つという話もあるが、現地の言語によって名前も変えているらしく、その全容は

掴めてはいない。情報を総合すると、この宗教にはあまりクリーンなイメージは持たれていないように

見える。

「加賀美先輩は、出家して波動論教に入信したという可能性もあるんでしょうか」

宮田は何気なくそう言った。

土曜日の午前１０時ほど、僕と宮田と雨笠先輩は、例の雨笠先輩お気に入りの喫茶店に集まり、各々が

波動論教について調べてきた情報を交換しあっていた。

「でも、話によれば香苗は失踪するとき、何も持っていかなかったという話だわ。自分のものは勿論、

お金だって何も持たずに消えていった。こういう宗教の場合、出家するにしても、持参金を要求される

のが自然な流れだと思うわ」

雨笠先輩の言に、頷く。

「それに、家族に一切知らせないままに、そんなこと出来るとは思えませんよ。そうなると、未成年者

略取に当たるんじゃないですか？」

「そうね。ほとんど犯罪行為に当たると言っていいと思うわ。いくらカルト教団だとしても、そうそう

許されるようなことではないし、何の痕跡も残さずに連れ去ることなんて出来るとは思えないわ」

雨笠先輩の言葉に、宮田はうーんと唸る。

「証拠は何もないって言えば、そうなんですよね。俺だって、本気で加賀美先輩が宗教に走ったとは思

えない。そんな性格の人じゃなかった。自分をしっかりと持っている人のように見えました」

僕らは頷く。

「それに、僕が見た波動論教の演説によれば、例のメッセンジャーは、波動論教にとっては敵のような

ものだったらしい。そして、僕らはメッセンジャーに加賀美先輩の姿を見出した」

「それも偶然じゃない可能性は大いにある、ってか」

「まあ、何が偶然で、何が必然なのか……僕もさっぱり分からないけど」

雨笠先輩はかぶりを振る。

「でも、香苗が波動論教にとって敵だと言うのなら、なおさら、敵を処分する必要があった、なんてこ

とも考えられなくはないわね……」

「それは……」

僕らは押し黙った。加賀美先輩の失踪と、波動論教とは、本当に何か関係性があるのだろうか。根拠な

ど何もなかったが、他に手掛かりと呼べるようなものはほとんどないのだ。その手掛かりを辿って行っ

た先に、こんな結末を見せられるとは、全く想像もしていなかった。木造りの内装で出来た喫茶店の、

普段なら清涼なはずの空気が重くのしかかってくるようだった。思わず小さなため息が漏れる。

「でも、この件は本当に偶然の一致ってだけ、っていう可能性ももちろんあるんですよね……っていう

か、関係があるって可能性の方が少ないかもしれない」

宮田が重たい空気を振り払うように強く言った。雨笠先輩も頷く。

「そう。それは当り前のことね。とにかく、現時点では何もわからないし……この先もたぶん、何かを

理解できるようになるとは思えない。こんな宗教団体に関して調べ上げるには、私たちの力じゃ足りな

さすぎるわ。とりあえず……この件は、咲江ちゃんには内緒にしておきましょう」

「え？どうしてですか？」

宮田は疑問の声を上げる。

「あの子、今は結構思いつめちゃってるところがあるみたい。もしこんなこと話したら、何か無茶なこ

とを始めちゃう可能性も無くはないでしょ」

「なるほど」

僕は納得した。加賀美咲江の決意の強さは、僕も良く知っていた。実際に、僕はある意味彼女に騙され

たのだ。例のブラフだと思っていた、加賀美先輩の死について――それは実際には嘘ではなかったよう

だが、ともかく彼女に乗せられて、この加賀美先輩の捜索隊に加わったのだ。今は思いつめているとい

う彼女がこの話を知ったなら、もしかしたら、自分で波動論教に関して嗅ぎ回ろうとするかもしれない

。もし本当に波動論教がカルトだと言うなら、それは危険なことかもしれない。

だが、宮田は反論した。

「でも、こんなのフェアじゃないですよ。加賀美先輩の捜索隊とか言っといて、結局俺たち３人で秘密

を共有して、咲江ちゃんに何も話さないっていうのも……」

「まあ、確かにそうだけど……何も、ずっと隠しておけっていうんじゃないのよ。もうちょっと状況が

落ち着くまで待った方がいいんじゃないか、ってこと」

「うーん、でも……」

「とにかく」

まだ何か言いたそうな宮田を遮って、僕は言った。

「今から、例の科学研究会の部員に会いに行くんだ。そっちで何かわかるかもしれないし、とりあえず

今はあれこれ考えても仕方ない」

雨笠先輩は笑った。

「そうね。待ち合わせの時間もだんだん近づいてるし、向こうの駅に行って咲江ちゃんを迎えましょ」

「あ、うん……」

渋々といった様子で、宮田は立ち上がった。僕らは喫茶店を出て、駅へ向かう。だけど――僕は思って

いた。本当は、僕自身考えたくなんてなかったのだ。加賀美先輩が、あの新興宗教に関わっているだな

んて。先輩が最後に話したこと……それが本当に、宗教の教義の受け売りだったのか、なんて。彼女は

そんな人じゃなったと、僕は思う。だけど、否定しきるだけの材料があるわけでもない。本当に、何か

の事件に巻き込まれてしまったのかもしれない。それは、どうしてなのか？何故、先輩は消えてしまっ

たのか……本当に、何故、消えてしまったんですか。みんな、こんなに心配しているのに。どうして、

何も言わずに消えてしまったんですか。僕たちみんな、混乱してるんです。早く出てきて、本当のこと

を言ってください。こんなの卑怯ですよ。お願いです、先輩。お願いだから。僕の思考は、次第に祈り

のようになっていく。だけど、その声はどこにも届かない。どこにも、届くことなんてあるはずがない

のだ。

加賀美咲江は、笑顔で僕たちを迎えた。例の、加賀美先輩の面影を持つその顔で。

「あっ、こんにちはー、宮田さん、千代先輩、修一さん」

「おーっす」

宮田も手を振りかぶって短い挨拶をする。僕もひとまず挨拶する。

「こんにちは、咲江さん」

加賀美咲江は駅から出てきた僕らに歩み寄り、照れたように言う。

「へへ、なんだかみなさん、お久しぶりって気がしますね。日曜には会ったばかりなのに」

「わたしとは何度も話してたけどね」

雨笠先輩が笑う。そして、加賀美咲江もはにかむように笑う。

「そうですね、すいません」

「まあ、色々あったからしょうがないよ。咲江ちゃん、香苗先輩のこと早く見つけたがってるもんな」

宮田が言うと、加賀美咲江は小さくガッツポーズをした。

「そうですよ。折角手掛かりがあるんだから、引き締めていかないと。ファイトですよ」

「じゃ、行きましょうか。例の大学は、ここから歩きで十分くらいよ」

「はいっ」

加賀美咲江は、見るからに無理をして、明るく振る舞っていた。幼い空元気は、きっと誰が見ても明ら

かな拙さだった。けれど、それはたぶん僕たちも同じだった。むしろ、僕たちの方が重症だったのかも

しれない。だけど、加賀美咲江は明るく僕たちを迎え、僕らもまた笑顔で応対せざるを得なくなったの

だ。それは、決して悪いことではない。加賀美咲江の態度は、ともすれば痛々しく見えるかもしれない

が、彼女の境遇を考えれば、むしろ気丈な振る舞いだったのだろう。

「それで、これから会いに行く人ってどんな人なんですか？」

歩きながら、加賀美咲江が雨笠先輩に訊ねる。雨笠先輩ははっとした様子を見せる。

「ああ、そうね。そういえば、まだみんなにはちゃんと話してなかったよね。そいつは、槇島草太って

名前なんだけど、わたしと香苗の同級生だったのよ。高校で、一年のころは同じクラスだったわ。わた

しはあんまり話したことはなかったけど、香苗は科学研究会のよしみで色々話することもあったみたい

ね」

「お姉ちゃんとは仲が良かったんですか？」

「うーん、どうかな。あいつ、そんなに友達が多いタイプの人間ではなかったからね。結構、偏屈な感

じの性格しててさ、頭は悪くなかったけど、とにかく変なことばっかり知ってるって感じでね」

「やっぱり、科学研究会ってだけあって、科学知識は豊富だったってことですか」

僕が言うと、雨笠先輩は苦笑いした。

「うーん、科学知識なのか、疑似科学なのか、って感じだったかなあ。学校に科学だかオカルトだか良

くわからないの雑誌をいっぱい持ちこんで、休み時間の時もよく眺めてたっけ。そういう奴だったのよ

。友達は少なかったけど、その分深く付き合うと面白い奴だ、って言われてたっけ」

「そういや、科学研究会って、具体的にはどんな活動してたんすか。なんか化学の実験とかしてたんで

すかね。こう、フラスコで薬品を混ぜ合わせたり、みたいな」

宮田が、手振りでフラスコを操る真似をしながら訊ねる。

「いや、実際にはそういう活動はしてなかったみたいね。正式な部活じゃないから部費だって出て無か

ったし、部室だって、使われてない小さな部屋をあてがわれてただけみたいだった。科学技術をどうこ

うするっていうより、科学知識を用いていろんな議論をする、って感じだったんじゃないかな」

「それって、加賀美先輩が最後に言ってたっていう話みたいな？」

「あー、うん……そうなんじゃないかな」

雨笠先輩は少し言葉に詰まった様子で答えた。たぶん、波動論教の一件を思い出したのだろう。

「あ、それなんですけど」

加賀美香苗は、思い出したように言った。

「私、まだお姉ちゃんが最後に言ってたっていう話のこと、ちゃんと聞いてないんですよ。結局、具体

的にはどんなこと言ってたんですか？」

僕と宮田は思わず目を見合せた。そういえば、加賀美咲江には、僕が聞いた話のことを直接話してはい

ない。その件については、雨笠先輩に任せきりだったのだ。落ち込んでいた彼女をこの場に連れ出した

りするための算段も、詳しい話は聞いていなかった。

「あー、うん、だからね、その……失踪する前に、疑似科学みたいなことを延々話してたみたいだって

。だから、もしかして、元科学研究会の部員と、何らかの接触があったんじゃないかって……」

珍しくしどろもどろになる雨笠先輩に、加賀美咲江は強い口調で切り込む。

「それは聞きましたよ。でも、具体的にどんな内容の話をしていたのかは、知ってないんです」

「うーん、そうね……」

まずいかな、と思った。加賀美先輩が言っていた話をそのまま彼女に話してしまえば、いつか彼女も、

その話と波動論教との繋がりを見出してしまう可能性はある。雨笠先輩が言っていた通り、それは当面

避けた方がいい展開だろう。僕は、言葉に詰まっている雨笠先輩に助け船を出すことにした。

「咲江さん、僕が話すよ。先輩の最後の言葉を聞いたのは僕だし」

加賀美咲江はパッと顔を輝かせた。

「そうですか？じゃあ、お願いします、修一さん」

「うん……良くある話だよ、人間の無意識の中には、小さな宇宙が眠っている、と言うようなことかな

。なんでも、人間の意識と宇宙とはお互いに繋がっていて、自らの意思次第で、意識が自分の肉体を抜

け出したり、宇宙の全てを見渡すことだって出来るかもしれない、って言ってた」

「へえ、お姉ちゃんがそんなこと言ってたんですか？」

「うん。それに、こんなことも言ってた。人間の中には宇宙の姿が刻み込まれている。だから、人間の

中の宇宙の中に、別の人間もいて、その別の人間の中にも宇宙があって……無限に宇宙が存在してるっ

て。よくわからない話だよね、こんなの」

「そうですか？なんとなくわかるような気がします」

「え？」

意外だった。てっきり、『よくわからないですね』と返されることを期待していたのだが、加賀美咲江

は、それとは逆の答えを放った。

「つまり、自分の見ている宇宙も、他人の見ている宇宙も、同じじゃないってことですよね？宇宙は、

世界は、それを見ている人によっていろんな姿をしている。誰ひとりとして、同じ視点で世界を見てい

るわけじゃないし、同じものを見ているつもりでも、人によって捉え方は全然違う……そういうことを

、お姉ちゃんは言いたかったんじゃないですか」

加賀美咲江はそう言い切った。だが、僕には今一つピンと来なかった。

「ふーん……主観的観念論、ってところかしら」

雨笠先輩は呟いた。宮田は、

「なんです、それ？」と応じる。

「要するに、宇宙の全ての事象が、人間の知覚によって構成されている、と言うような考え方、かな。

自分が認識することによって宇宙が存在する。自分が考え、感じるために宇宙が存在する、みたいな考

え方なのかな。それを突き詰めていけば、ひとりひとりの人間そのものに、別々の宇宙が存在すること

になるわね」

「じゃあ、俺が感じている宇宙と、修が感じている宇宙と、咲江ちゃんが感じている宇宙は、全然別の

ものなのかもしれない、ってことですか」

「まあ、そういうことになるわね。もしかしたら、わたしが見ている宇宙と、他の人の見ている宇宙の

間では、パラドックスが起こっているかもしれない、ってことね」

――矛盾――パラドックス？

その言葉に、何か引っかかるものを覚えた。加賀美香苗が８年前に死んだこと、４年前に失踪したこと

、見る者によって姿を変えるメッセンジャーもそうか――これらは矛盾、矛盾している――と、そこま

で思い至るも、それ以上は何も出てこなかった。そもそも、自分の世界と他人の世界の間にパラドック

スなど、本当に起こりうるのだろうか？

「でも、みんな結局同じ宇宙で生きているじゃないですか。確かに色々な物事に対し、人によっていろ

んな解釈をしたりする。だけど、人によって全くの別物になったりなんてしない。同じような解釈をし

たりする人もいるし、同じ言葉を使って、同じような感情を持って、同じような生活をする。無数の人

間が存在する意味がわからなくなってしまう。それは、やっぱり間違ってますよ」

「そうね……わたしたちは、たとえ別の人生、別の世界に生きているとしても、それでも色々な何かを

共有している。全くの別物になんかなりうるわけがない。私もそう思うわね」

雨笠先輩も、最初から自分の言葉を信用しているわけではなかったようだった。宮田も頷く。

「まあ、確かに、これだけ人間がいて、別々の世界に生きてるなんて悲しいわな。なんだかよくわから

んけど、それはわかるぜ」

加賀美咲江も薄く笑い、「そうですよね」と呟く。

「話が脱線したけど、まあとにかく、そういうことを加賀美先輩は言っていた。問題は、言っていた内

容じゃなくて、そういった解り辛い話ばかりしていたという事実だよ。先輩は僕らの前ではあまりそう

いう超然とした話をしたことはなかったし、だとしたら誰かの影響があったんじゃないか、だったら、

失踪する前にその誰かに会っていた可能性もあるんじゃないか。そういう話になったんだ」

僕が話を元に戻すと、雨笠先輩がフォローする。

「そう。それで、科学研究会の仲間に話を聞くってことになったわけ」

「それが、槇島草太っていう人なんですね。あ、そういえば科学研究会の他の会員は？」

加賀美咲江の言葉に、雨笠先輩は唸る。

「うーん、わたしは、香苗が科学研究会に在籍していて、槇島もそうだった、ということくらいしか覚

えてないの。他にも同級生が在籍していたかもしれないけど、それはもうわからないわね。もちろん上

級生や下級生の会員もいたかもしれないけど、そっちはあまり手掛かりがないし。高校の時の友達関係

に当たれば何かわかるかもしれないけど、最近はお互い疎遠になってるから、時間はかかると思う」

そこで、宮田が笑顔で言った。

「大丈夫ですよ、今からその槇島って人に会いに行くんだから、そこらへんの情報も直接聞きだせばい

いだけじゃないですか。それに、その人自身が加賀美先輩の行方を知ってるかもしれないし」

「まあ、それもそうね」

「そうですよね。じゃあ、何とかして、その人から情報を得ないと！」

「その息だよ、咲江ちゃん」

加賀美咲江が頷く。傍目から見て、宮田は幾分彼女のことを気にかけているようだった。僕が彼女と出

会う以前から、二人は出会っていて、加賀美先輩の行方を捜す計画を立てていた。その間に、何か宮田

の心を動かすようなことでもあったのかもしれないと、なんとなく思った。まあ、あれこれ憶測したと

ころで無意味なことではあるのだが。

それから数分歩いて、僕らは、槇島草太の在籍する大学にたどり着いた。

槇島草太は、その大学の研究棟の、２階の角部屋に当たる小さな一室で、僕らを出迎えた。彼は、雨笠

先輩の言っていた通りの、見るからに偏屈そうな容貌をしていた。何事にも興味がなさそうに、薄らと

閉じられた瞳。天然パーマのようにぼさぼさに乱れたままの、全く自然体の髪型。やや猫背気味に、何

も気負わないように佇むその雰囲気。彼は、僕ら四人の姿を見て、全く気にも留めない様子で一瞥して

、何らかの化学式の書かれている黒板に目を戻す。

「本当に久しぶりね、槇島君。元気だった？」

雨笠先輩が挨拶すると、槇島草太は、黒板に記号を書きいれながら、無愛想に返した。

「別にそういう社交辞令はいらない。それより、さっさと本題に入ったらどうだ？ぼくもそれなりに忙

しいんでね」

「そんなに忙しいの？だったらごめんなさい」

「まあいいさ。教授の手伝いで、資料を用意しなくちゃいけないんだけど、まあ、今日中に終わらなけ

れば、来年からぼくの立場がまずくなる程度のことさ」

「院に残るの？」

「そういうことだ。まだまだ研究するべきことは沢山あるからな……」

槇島草太は振り返り、改めて僕らを見た。

「ふん、随分と大所帯じゃないか。どうせ碌でもない用事なんだろう？」

「もう、何言ってんのよ。香苗のことで話があるって、電話で言ったでしょう？」

「加賀美香苗のことね。で、どういう話をしろと言うんだ？加賀美香苗はぼくのクラスメートで、科学

研究会の大切な同士であり、そして、いつの間にか失踪してしまった。それから彼女と顔を合わせたこ

となどないし、連絡の一つもありはしない。彼女の過去の思い出ならいくらでも話すことができるだろ

う。だが、そんなことに意味があるとは思えないね」

「いや、そういうことじゃなくて……」

「お姉ちゃんのこと、知ってるんですね」

雨笠先輩の言葉を制し、加賀美咲江が割り込んだ。その顔は、毅然と槇島草太を向いている。槇島は、

一見見逃してしまいそうなほどわずかに、眉をひそめる。

「どういうことだ？君は、加賀美香苗の妹さんか？」

「そうです。あなたは、４年前のお姉ちゃんと会ったことがあるんですね」

「当り前だろう？だからこそ、君らはぼくに話を聞きに来たんじゃないのか？」

「私のお姉ちゃんは、８年前に死にました」

一瞬、槇島草太が動きを止める。それから目を閉じ、トントン、とこめかみを指先で叩き、再び目を開

ける。

「……なかなか興味深そうな話じゃないか。話を聞かせてもらおうかな」

僕らは、槇島草太にこれまでの経緯を話した。加賀美香苗は８年前、中学二年の時に交通事故によって

亡くなっているということ。火葬を終えて、墓だって立っているということ。にも関わらず、加賀美香

苗は何事もなかったかのように存在し続け、その後高校で僕らと出会ったということ。そして、僕ら４

人がその後出会い、一緒に加賀美香苗を探すことを決めた経緯、そうやってここに至った経緯までも。

「ふーむ、なるほどね……」

槇島草太は、また例のこめかみをトントンと叩く動作を繰り返した。彼のクセなのかもしれない。

「つまり問題は、加賀美香苗がこの世界の中でどういう扱いを受けているか……そういうことではない

のかな」

「どういうこと？」

雨笠先輩が聞き返す。

「客観的事実を得たいなら、第三者によるデータを集めるしかない。雨笠、きみの友達でも加賀美香苗

を知っている者くらいいるだろう？」

「え、ええ、そうね。クラスメートに聞けば、知っていると答えるに決まってるでしょ」

「ああ。ぼくが周囲に聞いてもそうなるだろう。だが、加賀美香苗の妹……加賀美咲江、きみの周りで

はどうなんだ？」

「私と、私の家族は、お姉ちゃんが死んでしまったことを知っています。だけど、周りの人たちはそれ

を知らないんです」

「じゃあ、きみと、その家族が嘘をついていたと言うだけの話だ。簡単な問題だな」

「嘘じゃありません！実際に、お姉ちゃんは……」

僕もそこで割って入った。

「僕も加賀美先輩のことは知っています。だけど、僕自身、彼女の墓を見ました。あんなものが偶然や

でたらめで存在するとは思えません」

負けじと、宮田も言い返す。

「俺もそうです。それに、そんな嘘をついても彼女には何のメリットもないはずです」

雨笠先輩も頷く。

「わたしも見たわ。彼女や、彼女の家族が嘘をついているとは思えない」

「じゃあ、加賀美香苗が交通事故に遭ったという記録は見つかったのか？雨笠、きみのことだ。それぐ

らいのことは調べたんだろう？」

雨笠先輩の方を見る。雨笠先輩は、言葉に詰まったような素振りを見せたが、何とか声を絞り出した。

「……図書館で古い新聞を洗ったわ」

「けど、その事故に関する記事は全く存在しなかった。そんなところだろう？」

「そう……そうね」

「決まりだ。よう、後輩の二人。きみたちは、あの加賀美香苗の妹に騙されていた。操られていたんだ

よ」

「なっ……」

宮田が激高し、槇島草太に飛びかかりそうになったが、肩を掴んで制止する。加賀美咲江は、なんだか

泣きそうな顔で立ち尽くしていた。だけど、本当にその表情は本物なのだろうか。雨笠先輩は、僕らの

知らないところで調べを進めていた。何故、それを言ってくれなかったのか。だとすれば、本当は加賀

美咲江の言っていることは、嘘っぱちのでたらめだったと言うのか？何故……いったい、何のために。

疑いの心は膨らむが、加賀美先輩に似たその顔は、ただただ悲しみをたたえたように見えていた。

「待って、事実はそれだけじゃなかったのよ」

「え？」

声を張り上げた雨笠先輩の方に振り向く。強い表情で槇島を見つめている。

「葬儀を行ったという会社にも連絡を取ったわ。結果、その葬儀が行われた形跡はどこにもなかった」

「……でも、私が連絡したら、記録が残ってたって……」

加賀美咲江が消え入りそうな声を絞り出す。彼女はまるで、四面楚歌の状態だった。だが、雨笠先輩は

続けた。

「パラドックスが起こってるのよ。どういうこと？咲江ちゃんの世界では、葬儀は行われていた。だけ

ど、わたしの見ている世界では、そんな葬儀なんて行われていなかった」

僕は、雨笠先輩の言っていたことを思い出した。主観的観念論。一人一人に別の世界がある、そう言い

たいのか？それは、加賀美咲江を庇っているだけではないのか？だが、雨笠先輩は意外な言葉を続けた

。

「葬儀が行われていなかったのにも関わらず、墓石が存在したのよ？そして、それを作ったはずの業者

も、徹底的に調べたわ……だけど、それが立てられた記録なんて、どこにも存在しなかった……どこに

もよ。これがパラドックスじゃなくてなんだっていうの？」

「千代先輩……」

加賀美咲江は、意外そうな顔で雨笠先輩を見上げた。僕も、宮田も、いつの間にか力が抜けていた。雨

笠先輩は、難しそうな顔でどこか遠いところを見ている。

「現実世界に、明らかなパラドックスが存在している……あり得ないはずのことなのに、それが現実な

の」

見れば、槇島草太はまた目を閉じて、トントン、とこめかみをたたいている。それから、目を開けて、

不敵に笑った。

「なるほど、事情はだいたいわかった。これは興味深いな」

雨笠先輩も、笑って槇島を見た。

「協力してくれる気になった？」

「まあ、そんなところだな。そうなると――この問題を解くには、加賀美香苗本人を見つけ出すのが手

っ取り早い。そうだろう？」

雨笠先輩はそれを聞いて、ふと思いついたように言った。

「そういえば、槇島君はメッセンジャーに香苗の姿を見なかった？」

「ん？何のことかな」

「私たちは、例のメッセンジャーが、加賀美香苗その人だったのよ。何か関係があるのかと思ったけど、

槇島君は見ていないのね」

「ふーん。そうか。まあ、今はそのことは大して関係ないだろうな」

「どうして？私はもしかしたら、香苗のことを知ってる人には香苗の姿が見られるんじゃないかって思

ってたけど」

「きみたちがそう望んだだけなんじゃないかな。他のクラスメートにも話は聞いたか？みんながみんな

その姿を見たわけじゃないだろう。例のメッセンジャーも興味深いが、とりあえずは加賀美香苗を捕ま

えることを考えようか」

「香苗を捕まえる？」

「そうだ。おい、そこの後輩くん」

僕のことが呼ばれたようだった。力が抜けていた僕は、突然の言葉に、はいと返事をする。

「ぼくが加賀美香苗の行方を知っているんじゃないかと思ったんだろ。何故そう思った？例の、加賀美

香苗の最後の話とやらを教えてくれよ」

「ああ、はい……わかりました」

僕は、加賀美咲江に対してそうしたように、加賀美先輩が最後に話したことを、かいつまんで説明した

。加賀美咲江がいる手前、さすがに一字一句全てを話すわけにはいかない。なるべく慎重に、言葉を紡

ぐ。

「僕には、科学理論の正しさはわからないけど、突拍子もないことを言っていることはわかります。そ

れで、加賀美先輩が科学研究会に属していたことが分かったから、そういう議論もしたことがあるだろ

うし、何か関係があるんじゃないかと……」

「なるほど、なるほど。まあ、きみの言いたいことはわかる。きみは、こんな理屈なんてありえないと

言いたいわけだろう？」

どうも、槇島草太には僕の意見は見抜かれている様子だが、先輩である手前、はっきりと断ずることも

出来るはずがなかった。何とか、言葉を濁そうとする。

「いえ、その……」

「遠慮しなくていいさ。大体そういう風に思われることは承知している」

「つまり、槇島先輩は、加賀美先輩の言っていたその理屈が正しいって言いたいんですか？」

宮田は疑問を口にする。確かに、槇島草太はそのようなことを言っているようにも取れた。

「ああ、その通りだよ、後輩くん。宮田くんだったか。いいか、笹森くんもだ。よく聞いてもらおう。

実際のところ、加賀美香苗の言っていたということは、僕の考えとは重なる部分がある。とはいっても

、別にそれは、加賀美香苗がぼくに話したことでもないし、ぼくが加賀美香苗に話したことでもない。

ただ、彼女も最終的に、ぼくと同じところにたどり着いたということだろう。真理を探究すれば、いず

れは同じようなところにたどり着く。そういうことだろう」

「わかるように説明してよ」

雨笠先輩が促すと、槇島はククッ、と笑いを洩らした。

「よし、ではぼくの研究していることの一部を講義することにしようか」

槇島は、黒板に書かれていた文字を全て手元の黒板消しで消す。

「ああ、心配は御無用。さっきの式は、全て頭の中に入ってる。さて、どこから話したものか」

槇島はあごに手をやり、少しの間だけ考える。それから、静かに語り始める。

「まず、そもそも人間の意識と言うものが何なのか。それが問題だ。人間は、各種の感覚器官を通じて

、外界の様々な情報を入力する。それらの情報は脳に送られ、感覚として認識される。人間の感覚器官

として知覚出来る情報は、それぞれとてもわずかな範囲でしかない。例えば、人間の瞳は、可視光線し

か知覚することができない。これは皮膚感覚も同様で、光子や電磁波を触覚として、実際的に感じるこ

とはまず無い。そうすると、宇宙の全ての情報を肉体で捉えることなど出来ないことになる。これは当

然のことだ。まあそれは置いておくとして、外部の刺激は、様々な感情や思考を想起するための呼び水

ともなる。思考や感情は、脳内の神経細胞、ニューロンのネットワークによって為されている。各ニュ

ーロン間の情報伝達は、シナプスによって化学物質が受容体を刺激することで、電気的な信号が連鎖し

て、その巨視的ネットワークが、やがて全体で思考を形成していくわけだ。この際、ニューロンなどの

脳機能を為す物質は、ある程度マクロな存在として捉える事が出来る。つまり、量子論的波動揺らぎに

よる思考経路の変化なども、まず実際的には行われないだろうことが推測されうる。つまり、宇宙その

ものと人間の認識は、何ら繋がっていないということになる。また、脳機能を形成する、数百億の神経

細胞によるネットワークを用いても、宇宙の全ての事象を認識することは不可能である。宇宙の全ての

情報を内包するためには、宇宙と同程度以上の巨大な系が必要になることは、議論の余地もなかろう。

つまり、人間には、宇宙の全ての情報を受容することも出来ないし、認識することも出来ない。これが

現実的な認識だ。ここまでは特に疑問はないな？」

槇島草太は、少しだけ間をおいて、また語り始める。

「さて、諸君は、そもそも宇宙と言うものをどういう存在ととらえているのか？宇宙にはあまりにも多

くの事象が存在しすぎている。それはビッグバンから始まり、数多のエネルギー、素粒子が生成され、

宇宙の法則性が規定されていく。物質、反物質の生成、その化学反応により数多の重元素がまき散らさ

れ、恒星が燃え上がり、惑星や小惑星、無数の星間物質が渦を巻く。重力相互作用により秩序が生まれ

、銀河が構成され、銀河団、超銀河団が構成される。宇宙には強い電磁波や重力波、放射線といったエ

ネルギーに満ち満ちて、形成された物質は互いにぶつかり合い、破壊されていったり、融合したりする

。恒星はやがて燃え尽き、一生を終えるが、大きさによっては、赤色巨星などの段階を経て、やがて超

新星爆発を起こし、周囲の宇宙の環境を大きく破壊しながら生まれ変わる。そのあとには中性子星やブ

ラックホールを形成し、周りの空間に強い影響を与え続ける。あるいはクエーサー銀河が形成され、強

いエネルギーをまき散らし続ける。恒星の放つ光や熱は、宇宙の中で乱反射し、拡散していく。重力作

用や慣性により、空間に巻き散らかされた星間物質が、宇宙の遠い彼方まで飛散して、わずかな物質を

どこかの星に届ける。われわれの住む、宇宙の中では穏やかなこの太陽系においては、地球という惑星

に、様々な要因が重なって生物が生まれ、やがて人間が生まれる。われわれ人間は宇宙を観測し、様々

な情報を得ようとし、また生み出そうとする。さて――こんな宇宙のカオスは、いったい何故存在する

のか？宇宙は何のために在る？きみたちはどう思っているかな。意味など存在せず、ただそこにあるだ

けなのか。あるいは、神に類する存在や、宇宙自身が、何らかの意味を求めて、戯れに創造した世界か

。あるいは、いつか人間と言う可能性を生み出すために、何らかの価値ある精神を生み出すために、宇

宙は生まれたと言うのか――ぼくはこう考える。宇宙が――宇宙の全てが一つに繋がっているのだとす

れば、この宇宙は巨大な一つの精神だ」

槇島は、黒板に、大きく円を描く。その中に、『エネルギー　物質　電磁波　放射線　重力』と上から

順に書き、そこから矢印を引いて、また別の円を指した。その円の中には、『星　物質　空間　知性』

と書いた。

「つまり、こういうことだ。宇宙のカオスは、この宇宙の中で、様々な情報の伝達を行う。この宇宙の

中で拡散するエネルギーや物質、その全てが、人間の脳における化学物質の役割を果たしていると考え

られる。そして、全ての星や、物質や、エネルギーが、同時に受容体ともなり得るんだ。それは、ごく

ミクロな世界の出来ごとである、素粒子レベルでの情報の交換でもいい。量子論的に、ある粒子が他の

粒子に影響し、その位置や運動量の情報を変動させるような現象でもいい。もっとマクロなレベルで、

超新星爆発により、周囲の惑星が破壊されることでもいい。ブラックホールが、周囲の空間を歪め、物

質を呑みこんだり、あるいは蒸発していく過程でもいい。とにかく、それらは、宇宙全体で考えた時、

無数の巨大な情報のストリームだと言うことだ。人間の脳ほど厳密ではないが、それ以上に多くの情報

が常に処理されている。ぼくたち人間は、宇宙と言う巨大な脳の中にあって、その神経細胞の一つを眺

めて、そこにはネットワークなどないと思っているだけのことだ。もっと巨視的な視点に立って見てみ

ればいい。宇宙そのものが一つの脳だと考えれば、その中の無数の情報が不確かなネットワークを生み

出している。人間の脳が、神経細胞で繋がった情報の全体で思考しているように、宇宙自体が、その情

報ストリームの全体を用いて、自ら思考している存在だと言うことだ。もちろん、それは人間とは比べ

ようが無く巨大な精神であり、また、緩慢な精神でもある。宇宙にとって、人間の一年は数十億年にも

相当するものかもしれない。そういう巨大なタイムスケールと、空間のスケールを持って、宇宙は自ら

の精神を持ち合わせることとなるんだ。もちろんそれは、人間の脳で理解できるものではない。だから

、そんなのあり得ないと思うかもしれない。だが、理解できないからと言って、決して否定することは

出来ない」

槇島草太は一旦言葉を区切る。宇宙自体が精神を持つ……あまりにも超然とした話で、中々頭が付いて

いかなかったが、僕は、何とか声を絞り出す。

「……でも、宇宙に精神があったとしても、その精神が、宇宙の物理運動そのものを動かすことは出来

ないんじゃないですか？だとすれば、それは思考じゃなく、漠然とした感覚でしかない」

槇島草太はにやりと笑う。

「中々理解が速いな。確かに、そのように言うことも出来る。だが、卵が先か、鶏が先か、と言う話だ

。宇宙が思考するから物理運動があるのか、物理運動があるから宇宙が思考できるのか、それは今のと

ころ、誰にも証明できない」

少し考える。宇宙が生まれたこと自体が、どういう意味のあることなのかは分からない。宇宙が生まれ

た理由が、宇宙が思考をしようとした結果であると言うなら、彼の話は全く否定しきれる話ではない。

だが、あまり現実的な思考ではなさそうに思える。だがそれは、彼の言うとおり、誰にも証明できるわ

けがないのだ。それを言ったところで水掛け論になるだろう。

「でも……もしそうだとしても、それが、加賀美先輩の話と、どう関係してるんですか」

僕は、とりあえず話の流れを元に戻そうとする。槇島草太は、熱の入った顔で語り始める。彼は、自分

の考えを話す時には、とても感情豊かになるようだった。

「問題はそこだ。今までの話を聞いてもらったことで、わかってもらえるかな。宇宙の全ての事象が、

情報のストリームと考えることで一つの精神となる。これはつまり、宇宙の全ての情報が、一点に繋が

ると言うことだ。考えてみてくれ。質量をもたない光子や電磁波や重力波は、宇宙という情報機体の中

を伝わる、単純な情報だと言うことになる。一方、物質の素粒子は、局所的にいくらか強力な情報のス

トリームを持ち、それが一種の情報特異点となっているわけだ。その特異点が、周りの情報を引き込み

ながら、自ら情報として伝わっていくということだ。無数の情報が物質の基盤を作りだし、大規模構造

を作りだす。そして、これらの宇宙の根源とも言える情報たちを、宇宙の精神と言う一点で繋いで考え

てみれば、そこで、物質の位置と言う情報は意味をなくすんだ。物質の位置情報でさえも、相対的なも

のであり、ひと固まりの情報に登録された、変数のようなものだと考えてもらいたい。コンピューター

を見ればわかるだろう。オペレーションシステムによって各種のファイルは、フォルダーやカテゴリに

整理されている。だが、それを構成する情報自体は、一つ繋ぎに続いている、０と１の情報の連続でし

かないわけだ。方法さえ規定されていれば、そこからいつでも自在に情報を取り出すことが出来る」

「……つまり、それを取り出すことで、宇宙の全ての情報にアクセス出来るって言うんですか？じゃあ

、その方法って何なんですか？そんな抽象的なことを可能にする方法があるとは思えない。それに、さ

っき言ってたじゃないですか、人間の脳に、それだけの情報を従えるキャパシティがあるはずがない」

僕が反論すると、槇島草太は小さく拍手した。

「きみは本当に理解が速いな。そちらの三人は、まだよくわかっていなさそうだが。まあ、最後まで聞

いてもらいたい。確かに、人間の脳に、宇宙の全ての情報を従えるキャパシティなどない。だが、本当

に、人間の精神は、人間の脳にのみ存在するのだろうか？人間の脳は、人間の思考情報を生み出す基盤

でしかないんだよ。人間の脳は、宇宙の中に、局所的に強力な情報のストリームを生み出す。だが、そ

の情報もまた、宇宙の内包する情報のストリームの一部に過ぎないのだ。だから、ぼくら人間の思考情

報と、それ以外の情報を隔てるものは、情報につけられたタグのようなものでしかない。ぼくらは、自

分の精神の中に検索可能なタグを持っていて、それによって、自分と言う存在に関連付けられた情報の

みしか引き出すことができない。ぼくらの脳は、いわばそのための端末に過ぎないんだ。コンピュータ

ーはネットを検索して情報を引き出すが、ネットは検索され得ない情報すら内包する。宇宙は、それを

もっと極端にしている。無数の、人間には選択され得ない可能性すらもが、最初から存在しているのだ

。その情報を引き出す人間次第で、見える宇宙は全く違ってしまうかもしれないし、自我を改変するほ

どの強い力を持てば、自分の中のタグを除外し、自らの意識を情報世界の中で広く繋ぎ合わせることが

でき、宇宙の全ての情報を得ることすらも可能かもしれない。ぼくが考えているのはそういうことだ。

これと同じようなことを、加賀美香苗は悟ったということだろう」

槇島草太は言いながら、黒板にいくつかの図を書いた。無数の情報を表すブロックを書き、そこに『宇

宙情報』と書いた。その下に円を置き、中には『自分』と書き、そこからいくつかのラインを引いて、

上のほうの、情報を表すブロックのいくつかと繋げた。つまり、自らの認識できる情報が、宇宙の中に

ある無数の情報の中、自分と関連付けられる情報のみだと言うことを示しているのだ。

槇島草太は『自分』と言う文字を線で打ち消して、上のブロックすべてにラインに引いた。

――自分、と言うものを除外することで、全ての情報に対し、自在にアクセスする権利を持つことも出

来る……槇島草太は、そう解説した。

僕らは何も言えなかった。それはあまりにも現実離れしていて、中々理解するのは難しかった。本当に

こんなことがあるとは思えない。これが本当ならば、人間は何故自分の意識を持っているのだろうか？

自分の自我を溶かすことによって宇宙の全てを知ることができる、と言うのは、例の波動論教にも通じ

るところがあるように見えた。だが、それはあまりにも狂気に近いのではないか。狂気……狂気に触れ

た人間は、自我の力が弱まり、周囲の情報全てに自分の意識が拡散してしまう、とどこかで聞いた記憶

がある。彼の言っていることは、そういうことなのだろうか？だとすれば、彼の話が真実だとしても…

…それは、あまりにも触れてはいけないことのように思えた。

「さて、やはりぼくの話はやはり理解されてはいないようだな」

槇島草太は、僕らの方を向き、突然パンパン、と手をたたく。雨笠先輩は、ふと我に返ったように、言

葉を発した。

「あ……うん、やっぱりわけわかんないわ、あなたの話は。昔からそうだったっけね。口を開けば、変

なことばっかり言ってた」

槇島は、感情を込めず薄笑いする。

「それは光栄だね。さて、宮田くんと、妹さんは、どうだい。やっぱりわからなかったか」

「お、俺はちょっとさっぱり……あんまりそういうこと、詳しくないし……なにがなんだか」

宮田は、正直に言った。しどろもどろで、頭をくしゃくしゃとしている。一方、加賀美咲江の瞳の色は

、妙に深いものを宿しているように見えた。

「お姉ちゃんが……お姉ちゃんが、つまりそういうことを言いたかったのかどうかは、私にはわかりま

せん。でも、本当にそれって真実なんでしょうか？」

槇島は、また感情なく薄く笑う。

「ぼくはそう思ってるがね」

「じゃあ、お姉ちゃんは、なんで失踪したんでしょうか。お姉ちゃんが真実を見つけたって言うなら、

そのことと、お姉ちゃんが失踪したのは、何か関係があるんでしょうか？」

槇島は、半開きの目で、一瞬どこか遠くに視線をさまよわせる。そして、黒板の方を向く。

「それはぼくの知ったことじゃないな。だけど、直接会って話せば、それもわかるかもしれない」

「え？」

雨笠先輩は、驚いて目をむく。

「どういうことよ、ちょっと槇島君」

大して、槇島草太は、後ろ姿のまま、特別に感情は込めずに言った。

「実を言うと、加賀美香苗の行方に心当たりがある」

「え……本当ですか！？」

加賀美咲江はパアッ、と顔を明るくさせて、槇島に近づく。

「マジですか！本当に知ってるんですか？」

宮田も、これ以上なくあからさまに喜ぶ。槇島草太は、振り返り、また例の感情の無い目だったが、口

元は薄く笑って、言った。

「正確には、加賀美香苗の居場所を知っている人物に心当たりがある。詳しいことはまた今度話そう。

……そうだな、来週、ちょうど一週間後の土曜日だ。この場所で、その人を呼んで、話をさせてやろう

。とりあえず、きみたちの連絡先を教えておいてもらおうか？」

「は、はい！じゃあ……」

加賀美咲江は、自分の電話番号を手帳にメモし始めた。宮田は、その肩を軽くたたく。

「やったじゃん、咲江ちゃん！これで加賀美先輩の行方がわかるんだ」

「そう……香苗は、生きてたのね」

雨笠先輩が言うと、槇島草太はふっと笑った。今まで彼の見せたことの無い、優しい表情だった。

「ああ、出来ればでいいんだけど、住所も教えてもらえるかな。都合が取れなかったら、こちらから会

いに行くかもしれない」

「わかりました！ね、皆さんも早くっ」

「あ、うん……」

僕らは、加賀美咲江の喜びに流され、槇島草太に、連絡先のメモを渡した。僕らが加賀美先輩の行方に

ついて聞いたが、

「今はもうそろそろ時間が無いし、今度全てを話そう。なに、会えば全てわかる。その時を楽しみにし

ていたほうが良いだろう？」

そんな風に流されて、結局詳しいことは教えてもらえなかった。槇島草太は、教授のための資料を作成

するからと言い、僕たちは来週もこの場所で会うことを約束し、帰路に就くこととなった。外に出てみ

れば、秋空がその暗さを増していくのは早かった。僕らは駅まで連れ立って歩き、電車に乗ってそれぞ

れの帰り道へとつく。だが、宮田は、加賀美咲江を家まで送っていく、と言いだし、彼女と一緒の駅で

降りることになった。まあ、宮田は悪い奴ではないし、実際外の景色はだいぶ暗くなっているのだから

、任せた方がいいだろうと思った。宮田は心底喜んでいたし、加賀美咲江も、その表情は昼に合流した

時の不自然な明るさではなく、自然体の喜びを表しているように見えた。だが、彼女との別れ際、彼女

は僕の方をちらりと見た。その瞳は、何か寂しげな色を湛えていたような……気のせいかもしれないが

、そんなことを思った。

僕らは別れ、それぞれの帰路を行く。僕はひとり、暗い秋空の、少し肌寒い道を歩きながら、自分がな

にか夢を見ているかのような感覚に陥っていた。あまりにもトントン拍子で進んではいないか？本当に

、加賀美先輩の行方を知ることができるのだろうか？実感はわかない。今日の出来事を反芻する。波動

論教の話……槇島草太との邂逅……そう言えば、槇島草太は、こんなことを言っていた。『真理を探究

すれば、同じところにたどり着く』それが事実だとすれば、加賀美先輩の言っていた話と、波動論教の

教義が似ていることも、『それらは同じ真実だった』ということでかたがつくのだろうか？でも、そう

だとすれば、加賀美先輩の言っていたことも、槇島草太の言っていたことも、波動論教の言っているこ

とも、全ては真実だと言うことになる。本当にそうなのか？僕にはよくわからなかった。だけど、同じ

人間の考えることだ。偶然の一致ってこともありうるかもしれない。そんなことより、ずっと気にかけ

ていたこと……加賀美先輩の行方が、ようやくわかるのだ。４年前のあの日から、ずっと心のどこかを

縛っていたことが、今になってついに解決出来る。しかも、槇島草太の口ぶりからすれば、彼女は生き

ている、ということになる……もうずっと会えないと思っていた先輩と、再び会うことが出来るのだろ

うか。そうしたら、僕は何を言うだろう。いや……いつか雨笠先輩に言った言葉の通り、たとえ彼女に

再び巡り合えたとしても、そこから何かを始めようなんて気は、決してないはずだ。だけど、何故彼女

は突然、何も言わずに消えていったのか。何故、僕たちの心をさらって、姿をくらましたのか。そのこ

とを知りたかった。そうすれば、僕の心は、もっと前に進めるような……そんな気がした。いいさ。ど

うせ、いずれ会えるはずだ。直接、会った時に聞いてみよう。

そして僕は、自宅である小さなアパートに帰ってきた。

それからの一週間は、特に何の事件もなく、穏やかなものだった。日曜にはさゆきとデートした。特に

何をするでもなく、二人で街を練り歩いた。月曜、火曜、僕は大学に通い、勉学に励んだ。水曜、木曜

と、世界は平和だった。あれだけ世間を騒がせた、メッセンジャーの終末勧告事件だって、新しい情報

もないので進展はなく、話題は下火になりつつあった。波動論教の姿も見ていない。あれだけ心を揺る

がされることの多かった先週までに比べて、僕の見る世界はあまりにも穏やかだった。だが、それとは

裏腹に、心の中は少しずつ高ぶっていくのだ。もうすぐ……もうすぐ、加賀美先輩の行方がわかる。そ

のうち、彼女と会うことができる。僕は今まで、彼女が何故突然失踪したのか考えていた。心のどこか

で、考え続けていた。だけど、何一つとしてまともな答えは出ないのだった。それは、全く想像がつか

ない。だけど、その答えももうすぐわかる。会ったら、何を言おう。何を話せばいいのか分からないけ

ど……それでも、きっと会える。もうすぐ、会える。そんな気持ちの高ぶりを何とか覆い隠したまま、

時を過ごしていった。

心の高ぶりも最高潮となった、金曜の夜。明日は約束の日だった。明日に備えて今日は早く眠らないと

。そう考えながら、大学からの帰路に就く。自宅アパートにたどり着くと、外の階段を上り、自分の部

屋の前にたどり着く。えーと、鍵、鍵……ポケットから、自分の部屋の鍵を取り出し、ノブに差し込む

。いや、そのつもりだったが、上手くはまらない。あれ？鍵は間違えて無いはずなのに……そう思いな

がら、なんとなくドアノブを回してみる。

……開いた。

鍵をかけ忘れたのだろうか？いや、朝、確かに鍵をかけて部屋を出たはずだ……だけど、実際鍵が開い

ていたわけだし……そう思いながら、ドアを開けて中を覗き込む。

そこは、間違いなく自分の部屋だった。だが……そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。思

わず、中に駆け込んで、あたりを見渡す。

部屋の中は、滅茶苦茶に荒らされていた。床も壁も、天井すらも、何かで引っかいたような傷跡で満ち

ている。そして、台所回りは、蛇口から水がぼとぼと流れ落ちて、壊れた食器の残骸が無残にも広がっ

ていた。小さな勉強机は倒され、引き出しの中身も全て散乱し、傷だらけになっている。床一面に、箪

笥にしまっていたはずの衣類がボロボロの布切れとなって転がっていた。改めて見ると、その軽い木製

の箪笥は、しっかり立っていた。引き出しも閉じていたが、慌てて閉じたみたいに中の衣類が引っかか

って少し外に出ている。しかし、表面はやっぱり傷だらけだ。

いったい、誰がこんなことを……怒りよりも悲しみよりも、何より恐怖と焦りが襲ってくる。こんな、

こんなの、まともじゃない。ただの空き巣なんかのやることじゃない。ここまで部屋を無茶苦茶にする

なんて……それは、僕自身への攻撃に他ならないと、すぐに気付く。だが、僕はそんな恨みを買った覚

えなんてない。いったい、誰がこんなことを。

その時、僕は気付いた。部屋の中で唯一まともに立っている箪笥、その表面に刻まれた傷跡……それは

、他の傷跡とは違う。整然としてつけられた、マークだった。引き出しを閉めた状態で箪笥の表面全体

に刻み込まれたマークは、見おぼえがあった。太陽のような絵。１１角形の星印の中に、円が描かれた

そのマーク……

「波動、論教……」

呟くが早いか、倒れるが早いか、僕は、後頭部に強い衝撃を受けて床に転がっていた。しまった――そ

う思った時には手遅れだった。こんな風に、僕の部屋を滅茶苦茶にした犯人は、まだ僕の部屋に潜んで

いたのだ。やっぱり、朝、鍵はかけていた。きっと、鍵を壊して入ってきたんだ。間違ってなかった…

…僕は、そんな間抜けなことを考えながら、自分の気が遠くなっていくのを感じていた。

気がつけば、暗闇の中にいた。体を起こそうとするが、上手くいかなかった。目を開けようとするが、

それもうまくいかなかった。いや、目は開いたはずなのに、それでも暗闇が広がっていた。振動が体に

伝わる。何だろう、と思った。地震だろうか。

冷静に頭を働かせてみると、僕は、両手両足を太いロープでぐるぐるに縛られているようだった。固く

縛られたそれのせいで、一切の身動きが取れそうにない。ご丁寧なことに、口にはガムテープがしっか

りと貼られていて、声すら出せない。ははあ、すると、ここは車のトランクの中だな、と、他人事のよ

うに考えた。映画とかではよくあるケースだ。先ほどから伝わってくる振動も、自動車の中のそれその

ものだ。たぶん、僕は気絶させられた後、こんな風に拘束されてトランクに詰め込まれたのだ。そして

、どこかに運ばれている……いったい、どこに？

一瞬、思考が明瞭になる。そうだ……波動論教だ。やつらが、僕を拉致したのだ……しかしながら、後

頭部に残る鈍痛で、僕の思考はすぐに鈍った。どうして……どうして、波動論教は、僕を拉致したんだ

？僕が、奴らの不利になるようなことをしただろうか？そんなはずない……そんなはずはない。だった

ら、なんでだ……僕はわけがわからないまま。暗闇の中で出口の無い逡巡を続けた。心臓が鐘楼のよう

に強く打ち鳴らされる。わからない。どうしてなんだ。僕は一体どうなるんだ。

体を揺らす振動は、暴力的なまでに不快だった。

拷問のような、悪夢のような長い長い時間は、不意に終わりを告げた。車の振動が止まる。少しして、

車のトランクが開けられる音がする。驚いて目を空けると、秋の闇夜の、わずかな月明かりが目の中に

飛び込んできた。それから、全身に白い服を身にまとった大きな男が、僕の方に手を伸ばす。抵抗しよ

うとしたが、体の自由を奪われているこの身においては、無意味なことだった。僕は男に担ぎあげられ

て、トランクから引きずり出される。そこでもうひと組の両手が伸びてきて、足を掴まれる。最初の男

は、僕の肩の方を掴んで、僕の体は中空に投げ出される。二人の白い服を着た男たちが、僕の体を担ぎ

あげていた。暴れれば地面に打ち付けられそうだった。何とか視線だけ動かして、あたりを見回す。ど

うも、ここは街の郊外のようで、まばらに古びたビルが並ぶ一角のようで、その中の古びたビルの一つ

の、小さな駐車場に僕らはいるようだった。白服の二人以外、他に人の姿は見当たらない。二人の男は

何も言わず、僕を抱えたまま、廃ビルのように荒れたそのビルの中に入り込んだ。途中エレベーターに

乗せられる。廃ビルのように見えるが、電気はまだ生きているようだった。二階でエレベーターは止ま

り、再び、通路の上を揺られたまま運ばれる。すると、男たちの動きが止まる。僕の頭の方を掴んでい

た男が、両開きの大きな扉に顔を向け、「入ります」と言った。扉の向こうから、「入れ」と声が聞こ

えてくる。どうも、この二人の男の親玉のような態度だった。組織の幹部なのだろうか。しかし、それ

よりも問題だったのは、その声質……やや野太くて、野暮ったくて、そのくせ感情の無い声……一瞬の

声だったから正確には判別できない。だが、何か違和感を感じた。まさか、今の声の主は……そう思う

前に扉が自動で開き、その向こうの大きな広間が見える。薄暗い電灯に照らされたその場には、７人ほ

どの男女がいた。ああ、しかし……しかし、そこに僕が見たものは、信じたくない光景だった。

僕は二人の男に運ばれて、部屋の中央近くにある椅子に運ばれる。そして、ロープでぐるぐる巻きにな

ったその上から、さらにビニールの紐で椅子に固定された。僕の左隣には、僕と同じようにロープと紐

でぐるぐる巻きになった椅子が二つあった。そして、僕たちの目の前には、薄暗い部屋の、向こうの壁

を向いた後ろ姿があった。それを見て、僕は叫びだしたくなった。もごもごと口を動かす。が、ガムテ

ープのせいで言葉を紡ぐことができない。すると、その人影が、「おい、とってやれ」と言葉を発した

。僕の隣に白服の男がやってきて、ガムテープを乱暴に引き剥がす。見れば、隣の二人の口に貼られた

ガムテープも、他の白服の男たちの手で引き剥がされていた。その二人は、涙目になって僕を見、呟く

。

「しゅ、修……」

若い男の声と、女の声。

「笹森……くん」

自分のよく知る、自分の名前を呼ぶ声に、僕は何も答えられなかった。代わりに、前方にいる、スーツ

に白衣をまとった男の後ろ姿を見据えて、叫び声を上げる。

「槇島……草太っ……！」

その男は、ゆっくりと、やはり興味の無さそうに半開きになった目で、こちらを振り向いた。

「やあ……」

槇島草太は、何気ない声をかける。その態度に、思わず激高する。

「ふざけるなっ！何のつもりだ！僕たちをどうしようって言うんだ！」

「ああ、はいはい……おい、黙らせろ」

槇島が言うが早いか、僕は白服の男にみぞおちを思い切り蹴られて、言葉を失った。舌がもつれる。胃

液が逆流しそうになるが、何とかこらえる。だが、そのあとにはもう大きな声は出なくなっていた。痛

みのショック、恐怖で、頭の中が真っ白になった。

「笹森君、大丈夫……？」

二つ向こうの椅子にくくりつけられた雨笠先輩が、心配そうに声をかけてくる。宮田は槇島を見据えて

声を出す。

「お前、修に何するんだよ……」

「待って！」

僕は宮田の言葉を遮り、制止した。槇島草太がおかしそうにククク、と笑う。

「賢明だな、笹森くん。君が止めなきゃ、今度は宮田くんが蹴られる番だった。彼もきみのことを庇っ

たんだけどな。ああ、美しい友情ってやつだ」

槇島草太は、声を荒げて笑う。その声は、あまりにも正気を失った者のように聞こえた。だが、彼の意

識ははっきりとしている。反面、周りにいる、６人ほどの全身白服の男女は、本当に自らの感情を失っ

ているかのような、明確な意思を持たない、人形のような瞳をしていた。槇島の、何事にも興味の無さ

そうな瞳を通り越して、興味と言う概念すら失ってしまったかのような瞳。僕は、何とか声を絞り出す

。

「お前らは……波動論教なのか……」

槇島が笑い声を止めて、薄ら笑いで僕を見据える。

「ああ。お察しの通り、ぼくたちは波動論教さ。他に何があると思っている？」

「やっぱりカルトだったのか……」

そばに立つ白服の男が、また僕を蹴ろうとしたが、

「まあ、待て待て」

と、槇島が制止する。

「人聞きが悪いことを言わないでほしいなあ。少なくとも、ぼくはまともな人間さ。君たちには、ちょ

っと用事があったんでね。少々乱暴だが、お招きさせていただいた。あまり不用意なことを言うと、口

がきけなくなるかもしれないから、気をつけてくれよ」

明らかな脅しだった。また全力で蹴られるのはごめんだったが、さすがに聞かなければならないことが

あった。

「なんで僕たちを拉致したんだ……？」

雨笠先輩も、必死で頭を縦に振って、

「そ、そうよ、槇島君、あなたいったい何考えてるの！？こんなことしてただで済むとでも思っている

の？重大な犯罪よ？何の恨みがあってこんなことするの！？」

宮田も言葉を続ける。

「そうだそうだ。俺らに何かしたら、警察だって黙っちゃいないだろ！？解放しろよ！」

槇島の口元が、わずかに歪みかけた時、僕は声を振り絞った。

「加賀美先輩のことか！？」

槇島が、合図をかけようとした振りあげられた手が、ゆっくりと下ろされる。

「やっぱり、加賀美先輩のことで……僕たちを拉致したのか？」

槇島は答えず、クックと声を出す。

「加賀美先輩の行方を知っている人がいた、っていうのも嘘だったんだな……？それを餌にして、僕た

ちを拉致させたんだ」

槇島は大きく笑い声を出す。だが、すぐにそれをおさめて、こちらを見据える。

「やはり察しがいいな、笹森くん。君のことは嫌いじゃない。だが、こちらも色々と事情があってね。

仕方がなかったんだ」

「何を……」

「おい」

槇島が声をかける。僕に、ではない。僕の後ろの方にいた、白服の若い女だ。

「例の女のほうはどうなっている？」

「はい、確保できています」

「そうか」

槇島は興味無さそうに言った。それから、僕たちを改めて見渡した。

「実を言うと、加賀美香苗の行方を知っている人物、というのはね、嘘じゃなかったんだ。だけど、そ

の彼の命令なんだから、仕方ないだろう？」

どういうことか、一瞬解らなかったが、すぐに理解した。その人物と言うのは、波動論教の幹部か何か

だ。そして、加賀美先輩の行方を知っている……

「つまり、やっぱり加賀美先輩と波動論教には、関わりがあった、っていうことか……」

槇島は頷く。

「ああ、そうだ。きみたちも気付いていたようだな」

「偶然だった。でも、ビラに書かれていたことは、先輩の最後の話と、あまりにも似ていた」

「なるほど。まあそういうこともあるだろうな」

「お前らは、加賀美先輩に何を……」

「ふむ。すまない。それを答えるには、多少話がややこしくなる。時間が無いんだ」

「……え？」

「おい、例のものだ」

槇島が言うと、白服の男が一人、槇島の隣に歩み寄り、小さなアタッシュケースを差し出す。槇島は、

それを受け取って、ふたを空ける。

「おい、何をするつもりだよ」

宮田が叫ぶ。槇島は、気にも留めずにケースから何かを取り出す。

「おい、とっとと俺たちを解放しろよ、こんなことしてただで済むと……」

宮田の言葉は、そこで途切れた。僕も、たぶん雨笠先輩も、絶句していた。それは、黄色い液体の入っ

た注射器だった。

「ちょ……ちょっと待て……」

宮田の叫びを遮って、槇島は強い口調で、けれどやっぱりどうでもよさそうに言う。

「君たちには、ここで死んでもらう」

今度こそ、僕ら三人は何も言えなくなった。……死ぬ？僕たちが？ここで？

「残念だけど、そういう命令なんだ」

槇島は、まず雨笠先輩に近づく。彼女は、ビクリと大きく肩を震わせる。

「冗談でしょ……槇島君、ちょ、ちょっと、やめてよ……」

雨笠先輩は暴れようとする。だが、きつく椅子に固定されたその体は、動くことが無い。雨笠先輩の腕

に、注射器が近づく。

「やめて！やめてよ、お願い、やめて、なんで私たちが死ななきゃ、いや、やめて！っ……」

雨笠先輩のシャツの袖が廻られ、その静脈に注射器の針が通る。

「おい、やめろ、やめろよ、何すんだよ、ふざけんなよ、どうしてこんな、ふざけろ、何すんだよ、や

めろっておい！」

宮田の叫びを気にも留めず、槇島は雨笠先輩の腕に注射を続ける。そして、黄色い薬品は、全て雨笠先

輩の腕の中に吸い込まれていった。雨笠先輩は涙を流していた。目をむいて、茫然としている。僕も、

宮田も、もはや何も言えないまま、雨笠先輩の方を見つめていた。

「さあ、次はきみの番だよ、宮田くん」

宮田の肩がビクリ、とする。見れば槇島は、ケースの中から二本目の注射器を取り出していた。――逃

げられない。

宮田は、ひきつった笑いを浮かべて、目に涙を浮かべていた。目玉は大きく見開かれて、ハハ、ハ、と

笑いなのか息なのかわからない音を漏らした。注射器が、宮田の腕に突き立てられる。

「……嘘、だろ……？」

宮田の言葉に、槇島は、何も言わずに注射を完了する。それから、ケースから最後の注射器を取り出し

、僕を見て言う。

「さあ、笹森くん、きみの番だ」

僕は抵抗なんて出来なかった。どうせ何をしたところで、無意味だった。黄色い注射が、僕の腕の中に

吸い込まれていく。注射は完了し、槇島は僕の腕から針を抜く。そして、白服の男女に号令を出した。

「さあ、例の部屋に運んでおけ」

「はい」

六人の男女は号令のように返事をし、それぞれ二人ずつで僕たちの体を運び始める。椅子のひもを切ら

れ、ぐるぐる巻きのロープは巻きついたまま、僕たちの体はまたもや宙に揺られて、どこかに運ばれて

いった。頭がぼうっとしていた。薬のせいだろうか。あれは何の薬だったんだろうか。名前を知ったと

ころで無意味だ。僕はそんな薬の名前、何も知らない。

いつの間にか僕の体は、先ほどの部屋に比べると、随分小さな部屋に移されていた。ビルの小倉庫みた

いな小部屋だ。鉄の扉がバタンと閉められ、僕は一人になる。外で、ガチャンと鍵の閉まる音が聞こえ

た。そして、部屋の外で、何かが投げ込まれるような音、また鉄の扉が閉まる音と、鍵をかけられる音

が二回ずつ聞こえた。宮田と、雨笠先輩も、一人ずつの部屋に移されたらしい、と、考えるが、次の瞬

間にはどうでもよくなっていた。どうせ、僕らは死ぬのだ。

何もない小さな部屋の中に、部屋の奥の窓から差し込む光が落ちている。ガラス張りの窓の外に、丸い

月が昇っている。それは青白く僕の視界を照らして、なんだか幻想的な光景だった。最後の光景として

は、案外悪くないかもしれない。そう。僕は死ぬのだ。あの得体のしれない薬品を注射されたから。も

うすぐ、苦しみのたうちまわってから、毒が全身に回り、死んでいくのだ。

――死ぬ？本当に？僕が？今？ここで？

突然に、さっきの槇島の言葉がフラッシュバックする。

『例の女のほうはどうなっている？』

――例の、女？誰のことだ？加賀美香苗か？いや、違う。加賀美咲江か？……それとも、三角さゆき、

のことなのか？

突然、凄まじい恐怖が襲ってくる。僕がここで死んだとしてももう仕方ない。だけど、さゆきが殺され

るかもしれない。さゆきが……さゆきが殺される？そんな、そんなことあっていいはずがない。だって

、僕は彼女を信じ抜き、愛し抜くことを決めたんだ。彼女を守らなくちゃ。彼女が殺されるなんて、そ

んなの許すわけにはいかないんだ。僕が守らなくちゃ、だってそうじゃなきゃ誰が彼女を守ってくれる

んだ？彼女に会いに行かなくちゃ。さゆきに会いに行かなくちゃ。そうしないと、波動論教が、僕のせ

いで、彼女が殺されるなんて、そんな、そんなこと許されるはずがない。僕が守らなくちゃ。彼女を守

らなくちゃ。でも、僕はもうすぐに死んでしまって、それじゃさゆきが守れなくて、どうすれば、どう

すればいい。

――死にたくない。彼女を守らなきゃいけない。死にたくない。死にたくないよ。

そして、僕の意識は、闇の中に落ちていった。