📘 G.N.S.[3-1] 揺らぐ世界

加賀美さんと一緒に彼女の家に戻ると、宮田が居た。宮田は玄関を開けるなり、リビングから顔を出し

て呟いた。

「……おかえり」

「ただいま、宮田さん」加賀美さんは返事をした。

僕が口を開く前に、もう一人見知った顔が宮田の後ろから現れた。彼女はピンクの眼鏡をかけ、パーマ

をかけた金髪を無造作に後ろで束ねていた。丈の短いデニムとシャツを着ただけのシンプルな着こなし

は、彼女のさっぱりとした性格を如実に反映している。

「お帰り、お二人さん」

「雨笠先輩、どうしてここに」

言葉にはしたが、その瞬間僕はその理由を無意識に理解していた。その事を彼女も悟ったらしく、言っ

た。

「……香苗の事、聞いてきた？」

それは質問ではなく、確認だった。

「……はい」

雨笠千代子は、僕の高校時代の先輩だった。そして、加賀美先輩との同級生でもある。僕と宮田は、加

賀美先輩を通じて彼女と知り合った。何度か空の部室で顔をあわせ、そして一緒に遊び歩いたりした。

彼女が高校を卒業してからは、たまに連絡を取り合う程度で疎遠になっていたが、宮田以外で、僕の周

りで加賀美先輩の事を知る唯一の人物だった。

「雨笠先輩は、咲江さんとも親しかったんですか」

雨笠先輩と宮田はリビングに向かい、手振りで僕らを導いた。

「咲江ちゃんとは、まあ香苗を通じてね……とりあえず、座って」

リビングのテーブルには、加賀美さんの母親が座っていた。隣には宮田も早々に席に付いている。これ

から何をするのかは想像がついたが、話の中身はまるで想像がつかなかった。少し眩暈がしそうになっ

たが、目頭を押さえ、席に着いた。咲江さんも隣に座る。雨笠先輩もその隣に。これで、５人が向かい

合うことになった。

ぴりぴりとした空気が流れているようだった。これから話すことが、まるでタブーを口にしなければい

けないことのように、加賀美母子も、宮田も、そして僕も、緊張を隠せないようだった。

「とりあえず」最初に口を開いたのは雨笠先輩だった。「笹森修一くん」名前を呼ばれた。

「はい」つい生返事をしてしまう。

「あなたは、４年前に加賀美香苗と出会った。そうよね？」

「……はい」

「宮田健次くん。あなたも」

「はい」

「そう。そして私はその１年前に。私たちと香苗は同じ高校で出会っている……でも、みんな聞いての

通り、加賀美香苗は私たちが出会う４年前に、既にこの世を去っていた……それは、あの墓石を見れば

分かると思うけど」

「あの、あれは本当に、本物の……」

「本物です！」僕が口を開いた途端、加賀美さんのお母さんは物凄い剣幕で声を出した。

「あんなことを……誰が冗談やでたらめで娘の墓を立てたりしますか……？私がどれだけ苦しんだか…

…実の娘が死んで……葬式を終えて……火葬も終えて……墓まで立てて……確かにあそこには遺骨が埋

められたはずなんです。なのに……香苗は何事も無かったかのように帰ってきた。確かに香苗は死んだ

はずで、私たちもそれをやっと受け入れたときに……」彼女はあらぶる息を抑え、目を両手でふさぎな

がら話し続けた。「……近所のご家庭に聞いても、誰に聞いても、香苗が死んだ事なんて無かった事に

なっていました。確かに香苗は生きている……元気な顔で、何事も無かったように笑ってる……だけど

、私はあの子の死に顔も見た……あの子の体が、火に包まれて灰になっていくのも……私だけじゃない

、夫だって、咲江だってそれを覚えている……じゃあ、あの娘は一体誰なの？私たちの娘と同じ顔をし

て、同じ声で喋って、娘が歩むはずだった人生を送っている……あの子は誰なの？私たちはこれをどう

受け入れればいいの？同じ家に化け物が住んでいるみたいだった……あの４年間、ずっと気が気じゃな

かった……」

僕は固唾を呑んだ。彼女の話し振りは、嘘や演技で出来るようなものなのだろうか？大体、嘘をついた

ところで何の得になるのだろうか。彼女は間をおいて、また話し始めた。

「誰に香苗の墓を見せたところで、信じてもらえませんでした。同姓同名の別人だろう、だって香苗は

まだ生きている……私は自分が狂ってしまったのかと疑いもしました。ですが、だとしたら何故夫や咲

江までが……？私には分かりません。ただ、あの子が再び私たちの前から消えた時……ほっとしたのが

現実です。化け物が在るべき場所に帰ったのだとすら……思ったこともあります」

切実な告白だった。いくらなんでも、母親が実の娘をこんな風に思うようになるとは、どんな年月を重

ねればそうなるというのか。

「今でも、香苗がまたいつか突然帰ってくるんじゃないかと考えてしまうんです。あの時のように、何

事も無かったような顔で、ひょっこりと」

僕は理解した。

「じゃあ、香苗さんの部屋が奇麗なままなのは……」

「怖いんです！私が間違えているんじゃないかと……本当は……香苗は居なくなってなどいないんじゃ

ないかと……本当は、こんな話もしたくはないんです。あの子が何処に行こうと、今の私たちにはもう

関係ないはずじゃないですか。香苗の事でこれ以上悩まされたくなどないのに……」

「お母さん、それは違うよ」

咲江さんが口を挟んだ。いつになく鋭い口調で。

「お姉ちゃんは、私たちの家族だよ。関係ないなんて言っても過去は断ち切れない」

「私もそう思うわ」雨笠先輩が頷く。

「お姉ちゃんが怖いなら、お姉ちゃんが何処に行ったのか知るべきだと思う。全部の真実を見つければ

、見えないことで怖がる事なんてなくなるはずだもの……だから、私はお姉ちゃんが何処に行ったのか

、それを知りたい。昔の私は何も出来なかったけど……お姉ちゃんに会って本当のことを聞きたいの」

彼女の母は、咲江さんを睨んだ。しかし、その目は鋭さより、弱弱しさばかりが見て取れた。まるで今

にも泣き出しそうだった。

「咲江……だから、その人たちを呼んだのね？どうしてそっとしておいてくれないの？私はもうどうで

もいいの。あなたもいつまでもあの子に囚われないで」

「囚われているのはお母さんの方じゃない。私は、前に進みたいの。だからお姉ちゃんを探したい。今

だからこそ、探すべきだと思ったの」

「そう……わかったわ。でも、私はこれ以上話は出来ないし、協力する事も出来ないわ。勝手にして頂

戴」

彼女の母は、テーブルに手を突いて席を立ち、家の奥に引っ込んでいってしまった。僕らには何もせず

その後姿を見送るしか出来なかった。

咲江さんはおどけて笑った。

「ごめんなさい。母は悪くないんです。ただ、本当に少し……混乱してしまうだけで」

雨笠先輩は首を振った。

「ううん、無理を言って話してもらったのは私たちの方よ。気にしないわ。そうよね、笹森くん、宮田

くん？」

「はあ」僕はこの期に及んで生返事をするしかなかった。

「まあ、俺はどうあっても先輩のこと、捜すつもりですから」

「え？」僕は宮田の言葉を聞き返した。「捜すって、先輩……加賀美先輩を、か？」

「そうだよ」

宮田は強く頷いた。そして、雨笠先輩は、テーブルにひじをついて、身を乗り出してきた。

「私たちが何のために集まったと思ってんの？私と、」

宮田と咲江さんの頭に手をやって、

「宮田くんと、咲江ちゃんは、香苗を捜すために協力し合う事にしたの。笹森くんを呼んだのは他でも

ないわ」

雨笠先輩は手で鉄砲を作り、僕を指差した。

「君も私たちと一緒に香苗を捜す気はあるのか。この捜索隊に勧誘するために呼んだってこと」

 

「雨笠先輩は、いつから咲江さんと連絡とってたんですか」

僕と宮田と雨笠先輩は、駅の近くの居酒屋に寄っていた。咲江さんの家を後にしてからの帰り道で、雨

笠先輩が僕らを誘ったのだ。久しぶりに顔をあわせたのだから、パーッと飲もう……と。

「あたしい？あたしは咲江ちゃんに呼ばれたのよ。あの子が宮田くんと会って、色々話をしたみたいで

さ、同志にならないかってゆう。元々宮田くんが言いだしっぺなんだってえ。にくいね、このっ」

雨笠先輩は宮田の頭を抱えて拳をぐりぐり押し付けた。明らかに悪酔いしている。

「せ、先輩、やめてくださいい……俺は別に……」

「別にどうだっていうの？宮田くん、香苗の事好きだったんでしょ」

今度は肘で宮田を突っついてる。

「え！いや、その……」

「隠さなくたっていいのよぅ。お姉さんには何でもお見通しなのあー」

「いや、それ言ったら修の方が好きだったんじゃないですか、加賀美先輩の事」

「あーら、そういえばそうらったねえー」

先輩の話の矛先が僕の方を向くのを感じた。ちょっと悪寒が走る。

「笹森くん？」

「え、な、なんですか」

先輩は急に真面目な顔になって言った。

「正直、笹森くんが加わってくれると思わなかったわ」

「……そうですか？」

「ああ、うん。実際、笹森くんって香苗の事好きだったでしょ？」

「そうかもしれませんね」否定はしなかった。

「そうでしょうね。それは、宮田くんも、私も同じ。香苗の事が好きだった。だからこそ香苗を捜す事

に意味があるはず。だけど、笹森くんの場合、過去は過去って割り切るタイプだと思ってた。だから、

香苗を捜すのに協力してくれるかどうかは、ちょっと微妙って言うか」

「いや、協力って言っても、そこまで根詰める気は無いって言ったはずですよ」

「それは私たちも同じよ。ただちょっと出来る事がないか話し合うって決めただけだし……私の方は、

来年から会社もあるしね」

「そういえばどこに内定決まったんでしたっけ？」

「一応出版関係目指してたんだけど、結局、家電会社の営業関連になっちゃったわね。夢破れるって奴

かな。だからこそ昔のことに今更手をつけようとしてるのかもって思った。でも、笹森くんは今、恋人

も居るんでしょ？だから余計に意外かなって」

「そうですね……咲江さんと同じなのかも。過去は過去、確かにその通りだけど、僕自身割り切れてな

いようなところがあると思うんです。過去に固執するためではなく、もっと前に進むために何かする…

…宮田だって、先輩だってそうでしょう？今更加賀美先輩に会って、それで何かをもう一度始めようっ

て思ってるわけじゃないはずだ」

雨笠先輩はビールの入ったグラスを指先で持ち上げ、それを見つめた。ちょっと艶のあるさびしげな目

だった。

「……ん、確かにそうね」

宮田も頷く。

「まあ、俺も加賀美先輩の事は好きだった。けどそれが理由で捜したいんじゃないんだよな。なんかも

っとこう……なんというか。咲江ちゃんのこともあるし」

雨笠先輩は宮田に流し目を使い、

「ふーん、咲江ちゃんのため、ねえ」

宮田は酒の入り以上に赤くなって、

「いちいち茶化さないでくださいよ、もう！」

「ま、笹森くんの場合は、なんか負い目のようなものを感じるんだけどね……」

「え？」

「まあ、いいわ、それより――」

宮田が続ける。

「それより、これからどうするか、でしょ。先輩」

「そうねえ。実際どう動いていくかはまだ全然決まってないんだけどね」

確かにその通りだ。何かするとは決めたが、何も出来ないままじゃ意味がない。しかし、僕はもっと先

に考える事があると思った。

「そもそも、加賀美先輩が８年前に死んだってのはどういうことなんでしょうね」

「そうだな。俺もそこは気になる」

「咲江さんは、加賀美先輩が『世界の敵』だって言ってたけど……どういう意味だろう」

「あの子、そんな事言ったの？まあ、確かにこの世界の法則を破っているような存在――という意味で

は、世界の敵って言えるわね」

その言葉で『世界の敵』という言葉には納得できたが、どうしても解せない。

「でも、そんな事あり得るんですか。どう考えてもおかしいですよ。現実に死人が生き返るなんて在る

はずがない」

「そうだよな。死人が生き返るはずはない。でも、誰も死んでも居ないのに墓石なんて立てられるもの

だろうか。俺にはあの親子が嘘を言ってるとは思えない」

「咲江さんやそのお母さんが嘘を言ってないってのは認める。そんなことしたってそこまでメリットが

あるとは思えない。だからこそ、不思議なんだけど」

雨笠先輩は腕を組んで唸った。

「うーん、色々仮説は思いつくけどね」

「え、何ですか、聞かせてくださいよ」

「先輩、どういうことっすか」

「あくまで仮説に過ぎないから、そこんところは覚悟して聞いて欲しいんだけど」

「分かりました」

「じゃあ、とりあえず３つあるんだけど、どうする？」

宮田は人差し指を立てた。

「一番信憑性が高い説」

「わかったわ。じゃあ１つめから話すわね。簡単な話なんだけど、集団ヒステリーって奴よ。加賀美家

の両親と咲江ちゃん、３人は一種の集団ヒステリーにかかっているの。香苗が交通事故にあったって言

うのは本当かもしれない。でも、そのショックによって家族は香苗が死んだと思い込んだ。誰も来やし

ない葬式までして、墓まで立てて。そして、入院でもしていた香苗が帰ってくる。死んだはずの香苗が

蘇ったのだと勘違いして、さらにパニックになった。そういう思い込みを続けているのよ」

「なるほど……それなら確かにありえるかもしれないですね」

「と、いうことは」宮田が言った。「加賀美先輩が失踪したのも、そういう家族の態度に業を煮やした

結果……って考える事もできるか。これなら筋が通る」

「うんうん、そうね。でも、この説だと、何故そんな集団ヒステリーになったのか、いまいち説明がつ

かないわ。家族だったら、香苗が事故にあったことも、助かって入院した事も、知っているはず。事故

のショックでそうなったって言うのはちょっと無理があるし、その程度のことで家族全員が妄想に囚わ

れるは思えない。それと、もし事故が起こってないなら起こってないで、やっぱり原因がないから説明

はつかない」

「それもそうか……」先輩の言うとおりだった。これでは筋が通らない。「それに、そんな風にヒステ

リーで葬式したり、墓を立てたり出来るんでしょうか？あの墓石は同姓同名の別人、っていうのも、年

齢が一緒ってことは偶然にしては出来すぎている」

「そうよね。それに、香苗は全然そんな素振り見せてなかったわよね。もし私だったら、家族がそんな

風に自分のことを見ているなんて……そんなの耐えられそうにもないわね」

「確かに、その通りだ」

「……どちらにせよちょっと無理がありますね」

「うーん……先輩、他にも仮説あるんでしょ？」

「じゃあ言うけど、信憑性は低いわよ」

「それでもいいですからっ」

「うん、仮説２つめ。加賀美香苗は、本当に死んでいた。だったら何故加賀美香苗が存在し続けたか…

…それはズバリ、他の誰かが香苗に入れ替わったのよ！」

「なるほど……って、え？」

「せんぱーい、そりゃありえないっすよ」

「だーかーら、仮説だってば。もしかしたら、香苗の家族は実際にヒステリーを起こしていたのかもし

れない。香苗の死後のショックに付け込んで、赤の他人が香苗と入れ替わったの。もしかしたら顔も何

も本物の香苗とは全然似ても似つかなかったかもしれない。でも、香苗を亡くした家族は、悲しみから

それを受け入れ、本物だと思い込もうとした……」

可能性は０じゃないかもしれない。確かに最愛の家族を亡くした精神状態を省みれば、そんなこともあ

りうるのかもしれない。でも流石に……

「いや、誰かそんな不確実な事するんですか」

そう言わざるを得ない。

「……だよね。強いて言えば、貧乏で娘を養えなかったどこかの家庭が、一か八か加賀美香苗を演じさ

せて送り込んだとか？まあ……ないわね。政府が特殊なプロジェクトのもとに送り込んだクローン人間

とかってのもアリかも」

「それにしたって、周りの人が加賀美先輩の葬式を覚えてないってのは無理があるっすね」

「だから信憑性低いって……じゃ、３つめ。最後の仮説を言うわ。パラレルワールドって知ってるでし

ょ？」

「ああ、よくＳＦとかである……」

「そう。そのパラレルワールド。咲江ちゃんは、香苗が誰かを庇って事故にあったって言ってたでしょ

う？」

「ああ、確かに……」彼女と部屋で話をした時、それらしきことを言っていた覚えがある。「そんな事

言ってましたね」

「香苗が庇ったのはね、咲江ちゃん自身なのよ。いや、仮説だけどね。香苗は事故にあって死んだ。そ

して咲江ちゃんは思ったの。自分のせいで香苗が死んだ。自分のせいで……悲しみにくれ、自分を責め

て……そして、いつしかこう思うようになった。香苗は死んだ……いいや、そんな事はない。香苗は死

んでなんか居ない。姉は生きてる。まだ生きてるんだ……ってね。現実から逃避し、いつしか香苗が生

きてるものだと思い込んだ。そして、その思いこそが……『香苗が死んでいなかった場合』の世界を引

き寄せた……咲江ちゃんの認識が、パラレルワールドを引き寄せ、現実世界を変えてしまったのよ」

「ありえませんよそんなの」流石にこれには少し呆れた。「確かにそういう物語はしばしばあるけど…

…だったら、何故二つの世界は調和しないんですか。そういった話の場合、過去も書き換えられるんじ

ゃないですか？加賀美先輩が死んだのに、死んでない世界。矛盾してますよ」

「そうね……咲江ちゃん自身がそれを望んだ事実がなければ、パラレルワールドが融合する事もなかっ

たから……そんなところかな」

「でも、咲江さんは姉が死んだ事を認めているし、他の家族だってそのはずだ。何で先輩が消えてしま

ったのかもわからないし――」

気づいたら、いつの間にか声を荒げていた。こういう馬鹿げた話は、雨笠先輩お得意のものだ。笑って

聞き流せばそれでいいはずなのに。

「まあ、ただのアイデアだからね」雨笠先輩は、苦笑いしていた。「こじつけるなら、咲江ちゃんが姉

の死を次第に認めていくことで、香苗の存在そのものが薄れ、消えていった――とか。まあ、無理やり

である事は認めるわ」

「そりゃあそうですよ。人の認識云々で現実が変わるはずないじゃないですか」

そこで気づいた。この話は、まるであの時加賀美先輩の言っていた――

「修、なに熱くなってんだよ。ちょっと変だぞ」

「え？別に熱くなってなんかいないよ」

「そうか？」

「ああ……いや、ごめん。雨笠先輩もすいません。別にむきになるようなことじゃないのに」

「別に私は気にしないけど……ただ、今回の話は加賀美さん一家、それ自体に鍵があるのは確かだと思

うわ。その中でも、香苗ととても仲が良かった咲江ちゃんは――」

「先輩、彼女を疑ってるんですか」宮田がわざと素っ気無く言った。

「そういうんじゃないわ。ただの勘。だって香苗が、あんなに自分を慕っていた咲江ちゃんをほったら

かしにして消えるなんて……」雨笠先輩は、一瞬言葉を呑んで、「……とても思えないから」

ふと思い出す。あの空の部室で加賀美先輩と話をしていた時の事。先輩はあまり自分のことを語りたが

らなかったけど、たまに妹について話をする時……とても、優しい目をしていた。

「そうですね……加賀美先輩は……何処に行ったんだろう」

ビールを少し飲んで、グラスを傾ける。不意にフラッシュバックする。先輩の笑顔、優しげな仕草、話

す言葉の力強さ……僕は、彼女を捜して、本当はどうしたいのだろう。過去にけりをつけるなんて、そ

んな大層な事を考えているのだろうか。本当は、もしかしてまだ未練が残っているのだろうか。そして

、彼女の面影を残す咲江さんと、関係を絶たないまま保留しておきたいだけなんじゃなかろうか。そう

考えると、僕は最低の男だ。さゆきはどうなるんだろう。僕のことを信じてくれる恋人に対し、なんと

言えば言いのだろう……不意に、「修くん」と呼ぶ彼女の声が聞こえたような気がした。

「修くん、修くーーん！」それは、耳のすぐそばで聞こえたのだった。

「わっ」

驚いて辺りを見回す。さゆきはどこにもいない。その声を発したのは、明らかに目の前の雨笠先輩だっ

た。

「修くん、ねえ。随分かわいい名前で呼ばれてるじゃん、笹森くん？」

「せ、先輩……宮田、お前そんな事教えたのか」

「ごめんな、修……そんなつもりじゃなかったんだけど」

「笹森くん？酔いつぶれるのは早いんじゃないかなあ？何をボーッとしてるんだか」

「あ、すいません、ちょっと考え事を」

「それって、香苗があなたに言い残した事？」

「え、どうして……」

「やっぱりそういうことね……見てれば分かるよ。あんたが何か抱えてるって事ぐらい。宮田くんも言

ってたでしょ？何か隠しているんじゃないかって」

「あ……」

僕は俯くしか出来なかった。雨笠先輩はともかく、宮田との付き合いは長い。今回、加賀美さんの家に

行く事になったのも、何を隠しているのかと問われたのも、当然の事だった。

誤魔化しきれるわけがなかった。

「私は自分の考えは話したよ。宮田くんも、あんたを裏切るような真似をしてでも、隠していることを

知ろうとした。あんた一人だけ誤魔化し続けるのはずるいよね」

うなだれる様に顔を伏せた。僕だって彼らを裏切るつもりじゃないのに。僕は何をしているんだろう。

「……別に、そんなつもりじゃなかったんだ。先輩の行方も知らないし、何故消えたのかだって分から

ない……なんで先輩は……加賀美先輩は、最後になってあんなこと言ったんだろう、って。それが気に

なって僕は……」

「なあ修、どんな事かは知らないけど、もしかしたら先輩の行方を知る手がかりになるかもしれないん

だ。話せることなら話してくれよ。いつまでも一人で抱え込んでないでさ……俺たち、友達じゃなかっ

たっけ？」

宮田は珍しく真剣な眼差しで、まっすぐに僕を見ていた。

「友達だよ」

僕は応えた。

「４年来の悪友だ」

 

大した話じゃなかった。先輩が最後に僕にした話。それはとんでもなく突拍子もない話だったけど、い

つもふざけているのか真面目なのかよく分からない先輩の話なのだから、まあこんな日もあるのかもし

れない、と思っていた。次の日、先輩と会えなくても、その次の日、先輩が失踪したという噂を聞いて

も、激昂した雨笠先輩が、香苗の行方を知らないか、と掴みかかって聞いてきた時だって、先輩の最後

の話とは何の関係もないはずだって思ってた。だから、それを誰かに話す機会を失い、そのままずっと

誰にも話さずに居た。ただそれだけの話。ただそれだけの話だった。

「香苗がそんなこと言ってたの」

「はい」

「変わった考え方する子だとは思ってたけど、まさかそこまでだったとはね」

「僕もそう思いますよ」

「……まあ、いつもの香苗らしい冗談とも取れるけどね……ねえ、笹森くん、君はどう思うの」

「どうと言われても……正直、あまりこの話したくはなかったですね」

「ま、それが普通かもしれないわね」

「なあ」なにやら考え込んでいた様子の宮田が、口を開いた。「その……加賀美先輩の言ってた事が本

当なら、先輩はこの世から消えてしまったって事なんじゃ」

「本当だったらね」雨笠先輩が頭を振る。

「俺には重力波がどうとかってよく分からないけど……実際どうなんだ」

「まあ、自分が消え去る事を示唆していたとは言えるかもしれないけどねえ」

「僕も重力波がどうこうって話は一応調べたよ。でも、重力波って言うのは相対性理論において提唱さ

れている確証の高い理論なんだけど、実際にはまだ測定はされていないって話だった」

「そうね。ましてやそれを人間が感じ取れるわけはない……普通に考えればね。人間の中に宇宙がある

という考え方も、それなりにありがちではあるけど、実現可能なレベルで内在宇宙を語るのは難しいわ

。人間が自らの思考に反映できるぐらい宇宙と一体になることはまず無理と言ってもいいはずよ。幽体

離脱云々も、物語のアイデアとしてなら使えなくもない程度の話でしょう」

「えっと、つまり」

「信頼性のない超科学の類と変わらない話ってこと」

「先輩、結構語れるんですね」僕は雨笠先輩の饒舌さに舌を巻いた。

「まあ、出版関係目指してたぐらいだしね。色々なことに目を向けてなきゃ」

宮田はぽりぽりと頭をかいた。

「超科学か……オカルト雑誌とかはあまり読まないけどなあ……加賀美先輩はどこでそういうこと知っ

たんだろうな」

「図書館やインターネット……それこそオカルト雑誌の類なんじゃないかな」

「それだわ！」

雨笠先輩は大声で立ち上がった。周りの客がちらちらと僕らの席を見やったが、先輩は気にしないで座

り込んだ。

「どういうことっすか、先輩」

「もしかしたらそういうオカルト関連かも知れないし、独学で学んだ事に影響されたのかもしれない。

でも、そういう事を学んだり、考えたりする事自体が他の誰かの影響とは考えられないかしら」

「えっと……つまりはどういうことです？」

「香苗は、失踪する前年まで、科学研究会っていう小さな同好会に所属していたの。香苗が失踪する直

前にそういう超科学の類に囚われていたのだとしたら……」

「そうか、その同好会のメンバーと何か話でもしていたかもしれない……ってことっすね！？」

ありえない話でもないとは思えた。加賀美先輩はあの時以外、あからさまに超科学じみた事を言ってい

た覚えはあまりない。もしもその超科学的な話が先輩自身のものではなく、他の誰かのアイデアだとす

れば……

「でも、本当に関係あるかどうかは微妙な気がします。何もその同好会のメンバーに影響を受けたとは

限らないし……そこに所属してたのは失踪する前年までって言ってたはずじゃないですか」

「関係がないとも限らないんじゃないか。少しでも手がかりになりそうなら……」

「宮田くんの言うとおりね。それに香苗はその同好会を辞めたんじゃないわ。科学研究会は部員が足り

なくて活動停止になっただけ……元部員の誰かとその後も会ってたりしたかもしれない」

「うーん、どちらにせよ、先輩が最後に話した内容がそれで、失踪を仄めかすようなことも言ってたの

なら、全く無関係とは言い切れないと俺は思うんだけど」

「そうかな」

「そうだろ」

「でも、どうやって探りを入れるんです？」

「確か、私や香苗と同学年の子がその研究会の部員だったはずよ。名前はよく思い出せないけど、私が

家に戻れば、高校のときのアルバムで連絡がとれるかもしれない」

「そっか。じゃあ、そこから当たってみるって事で決まりっすね！」

「うん、じゃあ何か分かったら皆にも連絡する事にするわ」

「ええ、よろしくお願いします、先輩」

それから僕らは加賀美先輩の事を忘れたように談笑し、適当に飲み明かしたところで解散する事になっ

た。宮田はまだそこらをぶらついてから帰ると言い、バスを使って一人先に行ってしまった。雨笠先輩

と僕は二人で最寄の駅に向かって歩き出した。

 

僕らは特に何を喋るでもなく黙々と歩いていたが、先輩の横顔に何か考え事をしているような違和感が

あった。

「先輩、飲みすぎじゃないですか」

「あー、うん、平気よ平気」

先輩は愛想笑いして片手を上げた。でもその作ったような顔はすぐに崩れ、やがて、どこかぼんやりと

したような顔で言葉を紡ぎ始めた――先輩は、考え事をしていたというより、話し始める切欠を待って

いたのだと今更になって気づいた。

「さっきの話だけどさ――」

「さっきの話？」

「そう。香苗が最後に笹森くんにした話のことだけど」

「ああ」

「もしも、なんだけど。もしもあれが本当の話だったら――どうする？」

「えっと……何言ってるんですか。ありえませんよ、そんなの」

「そうかな」

「先輩は、信じてるって言うんですか」

「ありえなくもないんじゃないかな、って思ってるわ」

「そんなの……」

雨笠先輩は、冗談めかして言ってるのかと思って話を切り上げようかとしたけれど、目が合った。彼女

の目は、冗談で言っているようには見えない、真剣な眼差しをしていた。

「確かに重力波は最新の精密機器でも簡単には計測できない、まるでとるに足りないもののようにも思

えるわ。人間がそれを感じ取るなんて不可能かもしれない。でも、その人間だって、元をただせばごく

ごく僅かな素粒子のぶれ……不確かに広がる波動関数の群れによって構築されているのよ。それらの結

合パターンに重力波が横切る事で、何らかの影響を受けている可能性は否定できない。それらが連鎖し

た上に、人間の物質構造も、精神構造も構築されている。精神の構造自体が宇宙そのものと繋がる部分

があるとしたら……」

「ちょっと先輩……やめてくださいよ。もしそうだとしても、精神が宇宙そのものを認識する事なんて

出来ないはずだ」

「そうかな？人の精神も波動関数も、過去に起こった宇宙のあらゆる現象と分けて考える事は出来ない

わ。だとすれば、精神そのものが宇宙そのものと同一である、とも言えるはずよ……宇宙を感じられる

かどうかは、己を知ることができるかどうかの違いくらい簡単な問題かもしれない」

「だから人の中には宇宙があるって言いたいんですか？その宇宙のせいで人が１人まるごと消えてしま

うように？」

「ごめ……そういうことが言いたいんじゃないの。なんかね、どこかで似たような話を聞いた覚えがあ

るの。香苗がどうこうって話じゃなくて、ただちょっと……もしかしたら私たちの知ってる現実という

のが、そんなに強固なものじゃないんじゃないかって」

「現実？現実は現実ですよ。もし先輩の言ってる事が真実だとしても、今ある現実を壊してしまうくら

いなら、そんな真実なんていらない。そうじゃないですか。真実を追い求める事で、いきなり他の大切

な人たちを差し置いて人の存在が消えてしまうなんて、それこそあっちゃいけないはずだ」

「でも……じゃあ現実ってなに？私には、そんなに確固たる現実なんてあるのかどうかは分からない」

「現実……ですか」

「いえ、いいわ。変なこと聞いてごめん……別に、怒らせるつもりはなかったの」

「怒ってなんか……」

口に出しかけたが、僕はまた自分が激昂しかけていることに薄々気が付いていた。だけどそれを認める

わけにはいかなかった。この人は別に悪くない。悪いのは些細な事で激昂している僕自身だ。自分では

割と温和な性格だと思っていたが、今日はよく怒っているような気がする。その原因となったのは、こ

とごとく一人の人物についての話だった――加賀美先輩の話、だった。認めたくはないが、僕は未だ彼

女に心を囚われ続けているのだろう。そのことばかりが脳裏に染み付いて離れなかった。

 

その後、どんな風に会話を交わしたかは覚えてないが、駅について、電車に乗り、雨笠先輩と別れ、気

づいたら自宅のアパートの前まで帰っていた。ポケットの中に手探りで自室の鍵を見つけた時、僕は階

段上、２階の自室のドアの前によく馴染んだ顔が居る事に気づいた――さゆきだった。同時に彼女も僕

を見つけたらしく、微笑んだ顔と目が合った。彼女は小さく伸びをして、手を振った。その仕草がなぜ

か無性に可愛らしく、愛しくさえも感じさせた。

「どうしたの、こんな夜中に」

ぽん、と彼女の頭に手を置いて話しかける。

「なんか会いたくって、来ちゃった」

「馬鹿、危ないだろ。呼べば迎えに来てやったのに」

「あはは……用事あるみたいだったから……ね、ちょっとお酒臭いよ」

「そう？」

「もう、宮田くんたちとまた飲んできたでしょ」

「そんな事ないって。さ、とりあえず上がってけよ」

「うん」

僕は部屋の鍵を開けて彼女を招き入れた。

「あー、また散らかってる。駄目だよ、食べたらちゃんと後片付けしなきゃ」

「今日は早くから出かけてたから……」

「もう、言い訳しないの」

さゆきはバッグを置いて台所周りの片づけを始めた。こうなると奇麗に片付けるまで彼女は止まらない

。僕は荷物を置いて、ハンガーに脱いだ上着をかけて、とりあえずテレビのスイッチをつける。いつも

通りのとりとめもないニュースが流れ始める。僕はそのまま床に座り込み、小さなテーブルの前でぼん

やりとニュースを眺めた。少しすると、いつの間にか片づけを終えたさゆきが隣にちょこんと座り込む

。そして、画面上を流れるニュースを二人で眺める。さゆきは、ニュースの内容に一喜一憂して、いろ

んな表情を見せた。面白いニュースには笑い。哀しいニュースには本当に哀しそうな顔さえ見せた。そ

れはもしかしたら僕が彼女に描いた幻想かもしれなかったが、今はそんな事は関係なかった。僕は無性

に彼女が愛しくなり、肩に手を回して抱き寄せた。

「きゃっ……修くん、ちょっと恥ずかしい」

「……ねえ、何で今日会いにきたの？」

「なんとなくだよ……凄く凄く会いたかったの」

「僕も会いたかった」

さゆきは噴出して笑った。

「何だよ、そんなにおかしい？」

「はははっ、だって修くんそんなこというキャラじゃないもん。本当に酔ってるみたい」

「誰と飲んできたかって聞かないの？」

「ん……んーん、信じてるもん」

「……うん」

彼女は目を閉じ、首をかしげて僕の肩に寄りかかってきた。僕も同じようにして、肩に手を回したまま

彼女に寄りかかった。僕は彼女に告げるべきだろうか、と考えていた。加賀美香苗という女性のこと。

昔、もしかしたら想っていたかも知れない相手。その妹と共に、遠い昔に失踪した彼女を捜す事を決め

たということ。これは恋人に対する裏切りなんだろうか。それとも、ただ本当に過去と決別するために

決着させようとしているのか。いずれにせよ、さゆきを傷つけたくはなかった。過去のしがらみや予測

できない未来のこととか色々あっても、今この瞬間彼女を愛している僕がいること、それだけはきっと

確かな事だった。僕を信じてくれる彼女のことを、僕もただ信じたかった。暖かい吐息が漏れる。彼女

の優しい息遣いと、手に触れる体温。ふと、雨笠先輩に言われたことを思い出した。『現実って、なに

？』あの時は言葉に詰まったけれど、今なら答えられそうな気がした。こんな風に、愛する人とのひと

時や、触れ合う温もり、交わす言葉、それらを大切に思うこと。それだけでいいんじゃないか。それこ

そが守るべき現実なんじゃないか……そんな思いを抱きながら、意識が少し遠のいていった。

ノイズが走った。

耳を駆け抜ける砂嵐の音は、目の前のテレビから流れるものだとすぐに気づいた。まだテレビ放送が終

わるような時間じゃない。一瞬眠りに落ちたかもしれないが、時間はそんなに経っていないはずだった

。壁掛け時計のほうに目をやっても、ものの５分ちょっと経っただけだった。いつもならニュースはま

だ続いてるはずだった。――テレビが壊れたかな、まだ新しいのに。そう思いつつ、隣で静かな寝息を

立てるさゆきを起こさないように、そっとリモコンに手を伸ばした。ざざー、ざ、ざー、と音が揺れ動

く。一瞬の揺らめきの後、そこに人影が映っている事に気が付いた。いや、気のせいかもしれない。そ

う思ってすこし目をこすって見てみると、そこには、そこには――記憶から消える事のない、あまりに

も懐かしい顔が、砂嵐の中から確かな輪郭をとって、映されていく。僕はリモコンを床に落としたまま

硬直した。なぜ。なぜ彼女が。いまやくっきりと映し出されたその人物は、虚ろな表情で俯いた状態か

ら、やがて僕の方にしかと目をむけ、口を動かし始めた。

「皆さん――聞こえますか。私の声が――聞こえますか」

その声は、紛れもなく僕の知る彼女の声そのものだった。

「突然こんな事を伝えられても、何も理解できないかもしれません。でも――聞いてください。大切な

――、そう大切な事です。あなたたちの住む惑星は――そう、地球は、今、存亡の危機を迎えています

。いいえ、これは地球だけではありません。あなたたちの住む銀河系全て――いいえ、この宇宙の全て

が、消えてなくなるかも――知れないのです」

その言葉はテレビから発せられているようでもあり、僕の頭の内側から聞こえているようでもあった。

「私は直接、あなたたちの精神に語りかけています。私の送り込んだ情報はあなたたちの脳の中で言語

やビジョンとして再結線され――私そのものを具現化し――今、感覚に上書きして受容されています」

およそ信じられないようなことだった。もはや彼女が何を言っているのか不明瞭だった。いや、実際に

は理解していた。理解『させられていた』のだった――それは、感情による拒絶や打消しをすり抜けて

、僕の中に入り込んできた。

「聞いてください――もはや、世界の終わりは止められないかもしれません。でも、諦めないでくださ

い。あなたたちは誰の言葉にも支配されてはいけない――あなたたちはもっと自由であるべき存在なの

です。もし、あなたたちの脳裏に、およそ絶対的に思えるような命令が下されようとも――それは、拒

否する事も――出来るはずです。いま――大事なのは、流れに押しつぶされる事ない精神を持つ事――

最後まで、自分を信じることを――忘れないで――自分の存在を――魂の尊厳を――保っ――て――」

やがてその輪郭はぼやけていき、元の砂嵐と同化して、消えていった。額から、汗の雫が滴り落ちる。

テレビはいつの間にか普通に映っていた。リモコンを落としたまま硬直した手が、やっと動く。だが、

その直後、また声が聞こえる。小さな、とても小さな呟き声。それは、僕の耳元で聞こえた呟きだった

。そこで、僕がさゆきの肩に手を回したままだった事に気づく。さゆきは、驚いたように目を見開いて

、硬直していた。

「さゆき？どうしたの？ねえ」

僕はさゆきの肩をゆすってみたが、反応はなかった。それどころか、突然力を失ったようにその場に崩

れ落ちた。僕は驚いて彼女の名を叫んだが、彼女が寝息を立てていることに気づくと、恥ずかしくなっ

て彼女をそっと床に下ろした。布団を引いてさゆきを寝かしてやる。特に別状はない様子で安心した。

それから僕は１人ベランダに立って空を見上げた。さっきの事は、一体なんだったのだろうか。僕自身

が寝ぼけていたのだろうか。まるで夢を見ているみたいだったし、実際その通りだと考える方がつじつ

まが合う。あの時さゆきが驚いたような表情をしていたのも……あのテレビに映った懐かしい顔も……

その声も全て。だけど――寝ぼけたという感覚は無かった。もしも、もしも――全てが現実だとしたら

？あのビジョンは一体なんだったのか。あれが本物だとしたら、何故彼女の姿があんなふうに映ったの

か。彼女の言っていた言葉の意味は一体何なのか。そして、倒れる前のさゆきが呟いた言葉。

「加賀美――香苗……」

何でさゆきが彼女の事を知っているんだ。