📘 G.N.S.[2-2] 二つの真実

「……くん……しゅーくん」

僕を呼ぶ声が何処からか響いていた。若い女の子の声だった。まるで薄い壁を通して聞こえてきたよう

なくぐもった感覚が僕の心を揺さぶっていた――この声はいったい、誰のものだっただろう。そこには

懐かしさに似た、どこか暖かいぬくもりが感じられる。もしかしたら、と思った。突然、先輩の顔が浮

かんだ――加賀美先輩だ。僕はその良く見知った顔に、安堵感を覚えた。先輩は顔を近づけて微笑んで

いる。一瞬の後、聞きたい事が山ほどあることを思い出した。ねえ先輩、あなたは一体何処に行ってし

まったんですか……先輩は薄く目を閉じて、後ろを振り返って向こう側に歩き出した。待って、行かな

いで――その肩に手をかけて引き止める。そして振り向いた彼女は、その顔は、僕の知っている先輩、

加賀美香苗じゃなかった――加賀美咲江――あの合コンで出会った、彼女の妹だった。心臓が急に高鳴

る音がした。

「修くん、起きてよー！」

「え……？」

突然体が揺さぶられた。虚ろな夢は一瞬の内に霧散して、瞼が開き、眩しい太陽の光が目覚めたばかり

の瞳を刺激した。電車の中だった。乗客はまばらで、かなりがらんとしている。ガタンゴトン、と揺れ

る車体が、窓の外に見える田舎らしい田園風景の中を走っていた。

「やっと起きた」

隣の席に座る彼女は、僕のことをさっきから起こそうとしていたらしい。三角さゆき――僕の恋人だっ

た。

「ほら、もう向こう着いちゃうよ」

「あ、うん、悪い」

急速に脳が覚醒し始める。今日は土曜日、僕は彼女と二人、県内の海まで電車に乗って行こうとしてい

たんだ。先週の日曜は宮田の合コンに付き合って相手してやれなかったから、その埋め合わせで――

それにしたって、電車の中でつい眠ってしまい、あんな夢を見るとは不覚だった。折角のデートの最中

に、合コンで知り合った他の女の子の夢を見るなんて。電車から降りて、駅から十分ほど歩いて海岸に

つくまでの間、つい気まずい感じがして上手く喋れなかった。でもさゆきはあんまり気にしてない様子

で、いつも通り明るく話しかけてきてくれた。

「わー、いい風っ！」

「潮くさいなあ」

「そんなこと言わないでよ、いい匂いじゃん。ムード壊すなあ、もう」

「ごめんごめん」

秋の海岸沿いは泳いでる人も大分少なくなり、静かな波の音がよく響いていた。僕たちも今日は泳いだ

りせず、ただなんとなく広大な海を感じながら砂浜の上を歩いていった。少しだけ歩きつかれて僕らは

堤防のほうに戻って腰をおろした。しばしの沈黙の瞬間。砂と海の間から吹き抜ける風は、さゆきのサ

ラサラした髪をはためかせ、突き抜けていった。木々は揺れ、揺さぶられた木の葉たちが涼やかな自然

の音楽を奏でる。

さゆきは何の気なしに口を開いた。

「海って不思議だね」

「ん？何が」

さゆきは海を見つめたまま言葉を放つ。

「私たちの遠いご先祖様って海からやってきたんだよね。あの、遠い波の底からずっと」

「ああ」

「この前読んだ本に書いてあったんだけど、海を揺らしてる波は、人間の中にもずっと受け継がれてる

んだって。血液って言う海水に、心臓って言う名の月が潮を起こして、波を起こして、それで私たちは

生きてるんだって」

「心臓が波を？確かにそうかもしれないなあ」

「うん。それで、人間ってのもつまり、海の一部が凝縮して固体になった姿なんだって。だから本当は

その海の中にいた頃の記憶が体の奥に眠ってる。海は人で、人は海で、地球そのものの意識が人間の中

にあって、人類はそれを忘れてつい自然を汚しちゃうんだって」

突飛な話だった。海が、地球が、人間の中に眠っている。まるで、あの時の先輩の言葉みたいだ――な

んとなく、そんな事を思い出した。

「もしそれが本当なら、その記憶を人間が思い出せれば、争いも無くて環境を汚したりもしないですむ

んだろうけど……上手くはいかないよね」

「まあ、そんな簡単に通じ合えるなら苦労は無いもんな」

「そうだよね、馬鹿みたい、あはは……」

海の向こうに、白い波が訪れては寄せ返す。単純な繰り返しが、波動そのものを表現しているかのよう

だった。しばらくそれを見ながら呆けていると、さゆきはこちらをまじまじと見て口を開いた。

「ねえ、修くん最近元気ないよね」ぶしつけな質問だった。

「そんな事無いよ」

「そうかな……今週ずっと考え事ばっかしてるみたいだったから、何か悩みあるのかなあ、って。もし

かして先週の日曜に何かあったの？」

「ないない、別に平気だって」

本当はその通りだと言いたかった。あの日以降、夜もぐっすりと眠れない日が続いていた。でも、合コ

ンに言ったなんて彼女に言う事も憚られたし、それに僕の悩みは他の誰かに言ってもわけが分からない

と思われるだろう事も認識していた。

「ん……だったらいいけど。何かあったら力になるからね？」

「ありがと、ホント大丈夫だから……」

素直に僕を支えてくれようとしている彼女の言葉を聞き、僕は自分の置かれた状況について、早く決着

をつけなければいけないと思った。あまり心配させるわけにはいかない。

その夜、自宅で電話をかけた。

「え、あの子の電話番号？そりゃ知ってるけど、こりゃまたどうして」

「訳は後で話すよ。ちょっと話しておきたいことがあって」

「うーん、まあいいけど、浮気とかすんなよ」

「バーカ」

宮田はあっさりと承諾してくれた。後はどうやって切り出すか、だけど、中々いい言葉が思いつかなく

て、携帯を持ちながら悩んでしまった。すると、その手に持っていた電話に着信があった。その番号は

、今僕が宮田から聞きだした番号そのものだった。

「もしもし、どうしたの加賀美さん」

「どうも、こんばんわ」

「今、僕もそっちに電話かけようと思ってたけど」

「あ、そうなんですか、あはは。奇遇ですね」

「うん。それで……」

「あの……実は、こないだの事でちょっと話聞きたくて……もしよければ、明日私の家の方まで来て欲

しいんですけど」

「いいの？」

「ええ……こないだは何かうやむやになっちゃったけど、やっぱりあなたの話が気になって」

「違うかもしれないけど、それでもいいなら」

「ええ、分かってます。それじゃあ、明日……」

「うん」

ちょうどいいタイミングでかかってきたものだった。ともかく取っ掛かりは出来た。先週の合コンの時

には、彼女の言葉で頭が真っ白になって、あの後何を話して別れていったのかうやむやになってしまっ

た。明日はちゃんと話し合う事を決意し、布団に入った。その夜は久しぶりにぐっすり眠った。

翌日、日曜日、駅で待ち合わせして彼女の家に行った。加賀美さんの家は閑静な住宅街の中に埋没した

何の変哲も無い二階建ての一軒家だった。

「どうぞ上がってください」

「じゃあ、お邪魔します」

加賀美さんについて玄関を抜け、リビングに入ってゆく。そこにはおっとりとした中年女性がテレビを

見ながらソファでくつろいでいた。

「お母さん、ただいま」

「あら、咲江……どうしたの、そちらの人は？」

「どうも初めまして」

僕は自分の名を名乗り、彼女の母に挨拶した。歳相応に萎びつつあるとはいえどこか気品を感じさせる

その顔は、やはり先輩に似ている感じがした。

「まあ、どうもどうも……咲江の彼氏さんですか？もうそんな歳になったのねえ」

「違う違うよお母さん、彼氏じゃあないわ。この人はお姉ちゃんの知り合いなんだって」

「え……香苗の？」

その言葉を聴いた彼女の母親は、唐突に陰りのある表情をした。

「そう……だからちょっと話を聞きたくて家に呼んだの。分かるでしょ？」

「そう、そういうことね……分かったわ。じゃあ気が済むまで話してちょうだい」

「うん」

「ごめんなさいね……私からは話すことはありませんので……」

それだけ言うと彼女の母親はキッチンの奥の方に引っ込んでしまった。

「行きましょ」

加賀美さんは僕の袖を引っ張り二階へと促した。どうもおかしな雰囲気だった。彼女の母親は何故急に

態度を変えたのか……ある程度は予想もつくが、ああまで剣呑な空気は少し応える。やや居たたまれな

い気持ちで階段を上る。加賀美さんは二階の奥の部屋に僕を招きいれた。

「ここが私の部屋です」

室内はこざっぱりとした印象で、自室の管理が行き届いている事が理解できた。ところどころにブルー

の品物が見えるのは彼女の趣味かもしれない。全体的に明るくて感じの良い部屋だった。

「あ、そうだ。アルバムがあるんです。私と姉の写真が入ってるやつ」

彼女は本棚の上のほうから大きなアルバムを引っ張り出して、僕に見せた。

「ちょっと見てみましょうか」

パラパラとページをめくる。幼少期からの写真がずらりと並んでいる。家の中で歩く姿の写真、外では

しゃぎまわって遊ぶ写真、幼稚園のお遊戯会での写真。小学校での運動会の写真……小さい頃の写真は

分からなかったが、大きくなるにつれてその二人の顔立ちは僕が知っている二人の顔立ちに近くなって

ゆく。そして、気づいた。

「君たちって相当仲が良かったんだね」

「え、そうですね……はは、二人で写ってる写真ばっかりだ」

「君たちはホントよく似てる。それにしても先輩にもこんな無邪気な頃があったんだな」

「……やっぱり同じ人だと思いますか？」

加賀美さんはつぶやく。僕は何も答えなかった。

「私たちは自分で言うのもなんだけど、本当に仲の良い姉妹でした。お姉ちゃんが行くところにはいっ

つも後からついてって、二人でめいっぱい遊んでました。あの……８年前の日までは」

「……彼女はどうやって死んだんだって？」

「交通事故です。車に轢かれそうになった誰かを庇って、その身代わりになったらしいんです……その

誰かってのは分からないままでしたけど、あの日お姉ちゃんは死んだ。どうして死んでしまったのか分

からなかった。理屈では分かっていても感情の上ではどうしても納得できなかった……でも、お姉ちゃ

んは本当に死んでしまったんだって」

加賀美さんの声はやや荒ぶれた。呼吸をおき、再び話し始める。

「それでも時間がたって、私ももう忘れかけていた……でも、あなたが現れた。あなたはお姉ちゃんの

ことを知っていた……私の顔も見分けた……そのあなたは、８年前に死んだはずのお姉ちゃんと４年前

に会ってるって言う……一体どうして？分からない……どういうことなの？あなたの言う先輩は、本当

に私のお姉ちゃんなの？だとすれば、どうして生きていて、どうしてまた失踪したって言うの？」

彼女の眼は僕をまっすぐに射抜いていた。納得するまで聞きだすつもり、といった感じだった。僕はた

め息をついて、話し始めた。

「……咲江さん、もう茶番は止めよう。本当のことは君が知ってる通りだよ」

「……」彼女は表情を崩さないまま息を止めた。

「僕は加賀美香苗を知っている。君とまるで似通った顔だ。加賀美先輩からは妹がいることも聞いてい

る。そしてそれが加賀美咲江、君だった。僕は先輩の写真を取らせてもらったこともある。今でもそれ

はこっそり持っている。間違いなく君のお姉さんだよ。同じ名前、同じ顔、同じ家族、まさかこれが丸

っきりの別人なわけはない。だとすれば、何故その行方に食い違いが出るのか……誰かが嘘をついてる

からだ。そして僕は嘘をついてはいない。先輩と会っている他の友達だっている。ならば、君のほうが

嘘をついているとしか思えない」

「……」

「じゃあ何故そんな嘘をついたか。僕の考えでは、君は多分僕にブラフをかけようとしたんだ。先輩が

８年前に死んだと嘘をついて、僕を動揺させ、４年前に彼女が失踪した理由を聞き出そうとした。今君

が再びそうしようとしたように」

「……」

「君は前から宮田と知り合ってたんだろう？いま僕の周りで先輩の事を知ってるのは宮田だけだ。宮田

と君は、先輩の失踪した理由を僕が何か知ってると思ったんだ。そして、合コンなんて舞台をセッティ

ングし、偶然を装って僕に近づいた。そしてさっき言ったブラフで僕から失踪の理由を聞き出そうとし

た。そんなところだろう？残念だけど、僕は先輩が失踪した理由なんて知らない。確かに先輩とは色々

な話をしたけど、彼女が消えた理由なんて僕は知らないんだ。むしろ僕自身教えて欲しいくらいだよ。

こんな風に僕を揺さぶるなんて無意味なんだ。だから、本当のことを言ってくれよ」

加賀美さんは俯き、しゅんとした様子で言った。

「……ごめんなさい、今あなたが言ったとおりです」

彼女はあっさりと認めた。その悲しげな顔を見ると、僕はもう怒りもこみ上げては来なかった。

「宮田さんとは大学で、本当にたまたま知り合ったんです。お姉ちゃんの話をすると、よく言ってたん

です。あまり考えたくは無いけど、アイツは何か知ってる、何か隠してるみたいなんだ、って」

「そうか……」

僕はまるっきり否定する事も出来なかった。先輩が消えた理由なんて知らない。だけど、彼女が失踪の

直前に言っていた言葉……あんな事を誰に話すことが出来るだろう。隠し事をしていると言う宮田の勘

はまるっきり外れてはいなかった。あいつはそんなことを腹の底に抱えていたのか……なんだか申し訳

ない気持ちになる。

「でも、この計画を持ちかけたのは私なんです。宮田さんは何にも悪くない……ただあなたを揺さぶろ

うとしたのは私で……ごめんなさい。おねえちゃんの行方を知る手がかりがつかめる可能性が少しでも

あるなら、それにかけてみたかったんです」

「ああ」僕はうめき声のように言った。「……仕方ないよ、君たちは本当に仲のいい姉妹だったんだろ

？僕が同じ立場だったら同じ事をしてたかもしれない」

「本当にすみませんでした……やっぱりお姉ちゃんの行方なんて知らなかったんですよね……」

「いや……気にしないで。お姉さんの行方を知りたいのは僕も同じだから」

彼女はまた明るい表情を少しだけ取り戻して、

「分かりました。そうですよね……あなたもお姉ちゃんの行方を知りたい仲間ですもんね」

「仲間って……ちょっと変な言い方だな」

僕はついクスリと笑ってしまった。彼女はなんだかんだで憎めない性格を持っているのかもしれない。

「ねえ、ちょっと見せたいものがあるんです。来てくれますか？」

「うん」

彼女は自室を出て、家の二階部分の、階段から見て手前のほうにあったドアを開けた。

「これがお姉ちゃんの部屋です。４年前に失踪した時から手をつけてないんです」

「そうか……先輩の部屋に上がる日が来るとは思わなかった」

先輩の部屋は妹の部屋と同じく綺麗に整理されていた。ただ部屋のカラーはピンク色のものが多く、中

のいい妹と、似通っていつつ対称的でもあった。部屋には手がつけられていないと言っていたが、埃も

無く綺麗なままの部屋を見ると、先輩のの家族は、先輩が何時帰ってきてもいいように掃除を欠かして

いないのかと想像できた。

「それで、見せたいものって？」

「ああ、ごめんなさい。ちょっと部屋を見てもらいたかっただけなんです。何か思い出すこととかは…

…」

「そうだなあ」僕は部屋を見渡した。でも、これが先輩の行方と結びつくようなものは特に見当たらな

かった。「……ごめん、ちょっと分からないや」

「いいんです。本当に見せたいものがもう一つだけあるので」

「え？」

「付いて来てください」

彼女は階段を下りてゆき、玄関で靴を履いた。

「お母さーん、ちょっと出てくるねー」

僕も彼女に従い、外に出る。彼女は住宅街を横切るように足を進めていく。

「何処に行くつもりなの？」

「着けば全て分かります……これはちょっと自分の目で見て欲しいから」

「んー……分かったよ」

彼女は10分ちょっとの間歩み続け、僕はその後ろにつき従っていった。そして、そこに着いた。そこは

住宅街の脇の方にぽつんと存在していた、異色の空間だった。無数に並び立った綺麗に切られた石、線

香と花の匂い……墓地だ。

最初は誰の墓参りなのかと思ったが、そもそも彼女は供える花も持っていない。訝しんで着いていくと

、彼女は一つの墓石の前でしゃがみこんだ。彼女はぽつりぽつりと言い始める。

「ごめんなさい。私まだ嘘をついてました……あなたの私の行動の理由を推測した時、私はあなたの言

ったとおりだと認めました。でも、本当は全てがあなたの推測どおりだったわけじゃないんです」

「それって……どういう……こ……と……」

僕は墓石に刻まれた名前を見た。見てしまった。そこには、信じられないことが書いてあった。

「８年前にお姉ちゃんが死んだと言う嘘をついた。そうあなたは言ったけど……本当は嘘なんかついて

なかったんです」

加賀美家之墓。そしてその下に書かれている名前。香苗――加賀美香苗。享年、14歳――

「８年前に死んだのも、４年前に消えたのも、どちらも嘘じゃなかった。お姉ちゃんは８年前に本当に

死んだ。でも、その後も何故か存在していた。死んだはずなのに、私たちの家で生活していた。そして

――４年前に消えてしまった。」

加賀美さんはゆっくりと立ち上がりながら話し続ける。

「死んだはずの存在だった。私たちの家で生き続けていたのは誰？あなたや宮田さんに高校で出会った

のは一体誰？一つだけ分かる事がある――加賀美香苗は８年前に死に、４年生き続け、４年前に消えた

。そんな存在があるはず無い」

ぽかんと口を開けたまま目の前の光景をただ見ていた。加賀美さんは振り返り、こう言った。

「加賀美香苗は――私のお姉ちゃんは、世界の敵、です」