📘 G.N.S.[4-1] 思考する箱[後]

奥の部屋に入ると、僕が助けた少女は、ベッドの中からぼんやりとこちらを見ていた。部屋の中は暗く

、窓から射す星の光が彼女の顔を照らしている。かすかに聞こえる息遣いは断続的に、少し苦しそうに

、響いている。だけど、こちらを見た少女は、その苦しさを隠すみたいに笑顔を浮かべた。それでも、

とても辛そうな顔だった。僕は少女に近寄りながら言う。

「大丈夫？」

そんなはずはないとわかっていても、そんな声をかけざるを得ない自分が歯がゆかった。

「あ……はい……大丈夫です」

そういう少女の声は、どう見ても大丈夫なんかじゃない。だけど、それでも自分を保っていなくてはい

けないのだろう。気丈に振る舞わなくては、自分が潰れてしまう、そんな痛みと戦っているんだ。だか

ら、僕はせめてその痛みを忘れさせてあげなくちゃいけないのだろう。それでも……本当に全て大丈夫

であればいいのに、と思った。

「五十嵐さんが、外に連絡を取ろうとしてる。そのうち救助が来るんじゃないかな」

僕がそう言うと、彼女は笑った。

「本当に救助なんて来るんですか？……この街の外は無事なんですか？」

「それは……わからないよ」

言葉に詰まってしまう。そうだ。救助なんて来るのかどうか、わかりはしない。電気水道ガスと、ライ

フラインは全部断たれ、携帯の通信も全くつながらない。据え置きの電話だって全然繋がらないらしい

。もしも波動論教が言ってた通りなら、あるいは世界全てが……いや、そんな風に考えていても仕方な

い。彼女は弱気になっているんだ。そして僕も。

「どうなるかはわからない。だけど、最後まで希望を捨てちゃダメだよ。僕らはまだ生きているんだ」

そう言うと、少女はあどけなく笑う。

「正直に言うんですね。絶対助かるから、って言えばいいのに」

「うん……」

だけど、嘘はつけなかった。絶対に助かる保証なんてあるはずがない。不用意なことを言っても、かえ

って傷つけるような気がしてしまったのだ。僕には、何も断言できない。

「でも……嘘を吐かれるよりはよっぽどマシですよ。そのほうが絶対いいもん」

「え？」

間抜けな声を返すと、少女は、微笑んで言う。

「あなたの名前はなんて言うんですか？」

「笹森……修一」

「修一さん、かあ。その声、覚えてます。意識が朦朧としてた私を背負って、ずっと呼びかけていてく

れた……修一さんのおかげで、私、何とか死なないで済んだんですよね……本当にありがとう」

「あ、うん……どういたしまして」

目の前の女の子は、苦しそうな顔を精一杯明るくしてそんなことを言う。ちょっと照れてしまって、頬

をかいてしまう。

「私は、後藤早苗って言います。１４歳、中学２年です。修一さんは？」

「僕は２０歳。大学３年だよ……後藤さん、そんなに話しても大丈夫？」

「平気ですよ。五十嵐さんが手当てしてくれたから……修一さんが、助けてくれたから」

「そっか。なら良いんだけど、うん」

「あ、それと……後藤さん、って言い方やだな」

「え？どうして？」

「だってだって、私の苗字、あんまり可愛くないじゃないですか？」

「そんなことないと思うけどなあ。普通じゃない？」

「私はいやなんです。だからその……早苗、って呼んでください」

「ああ、うん……早苗さん」

「さんつけなくてもいいですよー」

「じゃあ……早苗……ちゃん？」

「……まあいいですけど」

彼女はふふっと笑い声を上げる。この年頃の少女は、よくわからないな、なんて思った。

「あ、座っていいかな」

「どうぞどうぞ」

了解してくれたので、ベッドの近くの床に腰かける。すかさず後藤早苗も、僕の方を振り向こうとした

が、足が動かせないので体に痛みが走ったのか、一瞬ひきつった顔をした。すかさず手振りで制止する

。

「ダメだよ早苗ちゃん。体動かさないようにしなきゃ」

「うう、でも……」

彼女は何故か残念そうな顔をしていたが、こんなことで体を壊してどうするというのか。

「ダメったらダメ」

「……わかりましたー」

僕が強く言うと、彼女は渋々と言った様子で、体を天井に向け直した。一応わかってくれたみたいだ。

衣擦れの音。少し間をおいて、彼女が声をかけてくる。

「修一さんは、恋人とかいるんですか？」

「へ？……ああ、まあ、いるけど」

唐突な質問に、ちょっと間抜けな声が出る。後藤早苗はクスリと笑う。

「やっぱりそうですよね。大学生だし……優しそうだし」

「ええ？そんなことないって……」

「でも、私を必死で助けてくれた」

「非常時だしね……」

「それでもいいじゃないですか。大事な時に、大事なことを出来ればいいじゃないですか」

「うーん、そう言ってもらえると、まあ……」

「恋人はどんな人なんですか？聞かせてくださいよ」

「うん……彼女は……三角さゆきは……僕の初めての恋人で……出来るなら、最後の恋人になってもい

いって思ってる」

「うわ、結婚とかするんですか？」

「え……あ、いや、そういうわけじゃ……ただ、それくらい好きな人っていうか……なんか恥ずかしい

こと言っちゃたかな」

「はは、ホント」

「う……」

顔がちょっぴり熱くなる。中学生相手に何をしてるんだ僕は。

「でも、それくらいはっきり好きだって言えるのは、むしろ凄いんじゃないですか」

「そうかな……そうだと良いけどね」

「うらやましいです。どんな出会いしたんです？」

「そうだなあ……あれは、僕が大学に入ってすぐ、どこだったかのサークルに勧誘されて、居酒屋に連

れていかれて……」

僕は、さゆきとの出会いのこと、どうやって仲良くなっていったか、つらつらと語った。公園で吐いて

酔いつぶれていたところを助けられたこと……お礼のためにってかこつけて、何度も会って、二人で遊

びに行ったこと。さゆきに告白されて、僕の方も二つ返事でＯＫして、付き合い始めたこと……二人で

海に行き、山に行き、街中をぶらついたり、買い物したり、映画を見に行ったり、僕の部屋で借りてき

たドラマを見たり、なんでも思い出せた。彼女との記憶は、いつも喜びに満ちていた。どれだけ僕が彼

女を愛しているか、なんて、不覚にも思ってしまったのだ。

後藤早苗は言った。

「うらやましいなあ、その恋人さん。そんなに愛してもらえるなんて、凄く嬉しいだろうな……」

「のろけちゃったかな、ごめん」

「そんなこといいですよ。凄く好きなんだなあって、感心しちゃいました」

「うん……でも、今は、さゆきはどうしてるんだろうなあ……」

自分で言った言葉で、ハッとする。そうだ。この街は大災害に見舞われたんだ。さゆきは今、どこにい

て、どうしているんだろう。もしも……いや、そんなこと考えたくはない。だけど……心配で仕方なく

なった。

そんな気持ちを察してか、後藤早苗はちょっとばつの悪そうな声色になった。

「あ……すみません。恋人さんがどうしてるかわからないんですね」

「いや……謝らなくてもいいよ。そんなこと言われたら、まるで彼女がどうかしてしまったみたいじゃ

ないか」

「そうですね、ごめんなさい」

「まあでも、心配だよ……君にも、好きな人とか、友達とか、いるだろ。みんな、無事であればいいん

だけど」

友達と言う言葉を放ちながら、内心ギクリとしていた。その友達を見捨ててきた男が何を言っているの

か。そんな気持ちを覚られないよう、声色を保つのに苦心した。

そんな僕の言葉に、後藤早苗は少し沈んだ様子になった。

「友達、ですか……私、別にそういうのはないかなあ……」

「え？」

その言葉に少し驚いた。思わず聞き返す。

「早苗ちゃん、案外友達いないって言うの？」

年上の大学生と流暢に話している女の子が、友達の一人もいないとは思えなかったが、何か事情でもあ

るのだろうか。

「いや、友達とか……それっぽく見える人ならたぶん、いっぱいいると思います。でも……本当に友達

と言えるのか、わからないなあ……」

「おいおい、仮にも友達なら、そんな風に言っちゃダメだよ。仲良くしてくれるんだろ？」

僕が諌めようとすると、後藤早苗は自嘲的な笑みをこぼした。

「みんな、上辺だけの付き合いですよ。信じられないとか、そんなレベルじゃない。だって、彼女たち

、私の友達をいじめてたんですよ？」

「……いじめ？」

「そうです。私には、結構前から仲の良かった友達がいたんです。親友って言ってもいいかな。クラス

のみんなとも、それなりに仲良くしてたはずなんですよ。でも、突然彼女はいじめの標的になった。無

視したり、持物を隠したり、捨てちゃったり、嫌がらせされ続けて……」

後藤早苗の声は、気丈なまま保たれていたが、その声色は哀しげな陰を帯びていた。

「後でわかった話なんですけど、いじめをしてたグループの女の子が好きだった男子が、私の親友のこ

と好きだったって……それがわかって、人の男を横取りしたんだ、って……自業自得だって、その子私

の前で言ってたんですよ」

「……それは、ちょっと酷いな」

「そうですよ。そんなの、逆恨みとか八つ当たりもいいところじゃないですか。自分が選ばれなかった

からってそんなことするような人なんて、それこそ自業自得もいいところじゃないですか。そんな子た

ちを友達なんて呼べますか？私は、絶対に許せない」

「うん……」

「でも、本当に許せなかったのは自分自身です。親友がいじめに遭っているのに、私は何も出来なかっ

た。自分もいじめの標的になってしまうのが怖くて……あの子のこと避けてしまうようになった。あの

子は気にしないでいいよって言ってくれたけど……辛くて苦しくて、誰かに助けてもらいたかったはず

だって……私は知っていたのに……」

後藤早苗は、顔に手をやりながら、必死で言葉を紡いでいた。泣いているのかと思ったが、そうではな

さそうだ。だけど、辛いことは確かのようだった。

「結局その子、学校に来なくなって……しばらくして、転校していっちゃいましたよ。今思い出しても

凄く嫌だ……あの子の机の上に、花瓶が乗っかってたのを見た時は……ホント……」

「そっか……君も、辛かったんだね」

「はは、私の辛さなんて、あの子のに比べたら全然……」

辛そうな後藤早苗を見て、僕は黙ってはいられなかった。この気丈な女の子の心を救いたかった。そん

なの無理かもしれないけど、何かを伝えなきゃいけないと思った。少しずつ言葉を選んで、僕は声を出

した。

「僕には何とも言えない。その子を助けるべきだったとか、立ち向かうべきだったとか、それとも、諦

めて仕方なかったと思うべきとか……そんなの言えた義理じゃないよな。でも、一つだけ確かなことが

あるよ。その出来事を忘れてはいけないってこと……間違ってると思うことを、簡単に正せないからっ

て、うやむやにしたり、忘れようとしたらいけないんじゃないかな。辛くても、それと向き合って、ず

っと抱えていかなきゃいけないこともある。そうして生きて、誰かに自分の思いを伝えていくんだ。そ

うすれば、少しでも世界を良い方向に変えていけるかもしれない。それを諦めたらダメだよ。だから、

僕たちは、生きなくちゃいけないんだ」

ちょっとくさいかもしれないけど、何故か淀みなく言葉は溢れだした。こんな世界の終わりに、震えて

る小さな少女を前に、その心を励ますために、恥ずかしいとかなんとか気にしてどうなるっていうんだ

。体面とか気にせずに放った言葉は、なんだか悪い気分ではなかった。

ほんの少しのしじまが訪れ、やがて後藤早苗は笑いだした。

「修一さん……ありがとう、励ましてくれて。大丈夫ですよ。私、こんなことで潰れたりしませんよ。

きっと……忘れない。その子のことも……お父さん、お母さんのことも……だから、まだ死ねませんっ

て」

どこか乾いた笑い声。でも、それは彼女が必死に生きようとしているだけのことだ。僕が何も言わなく

ても、いや、言わなかったからこそ、彼女はわかってたんだろう。あの家の中で助かったのが自分だけ

だったということも、すぐにわかってしまったのだ。僕にも両親がいる。友達もいた。恋人も……それ

ら全てが、失われてしまったのだとしたら……心細くてたまらないだろう。彼女の不安は、僕の不安で

もあった。だけど、今は１人きりではない。まだ生きていられる。だから、まだ死ぬわけにはいかない

。それだけは確かなことだ。人は、生きていられる限り、必死でそれを全うしようと頑張るべきだと…

…少しでも進んでいけるように頑張るべきだと、頭の中で誰かの声が響いたような気がした。

「早苗ちゃん……」

なんとなく呼びかけて、気付く。この名前は、あの人の名前に似ている。加賀美香苗……僕に色々なこ

とを、大切な思い出をくれた人……そうだ。僕の人生は、あの人に大きな影響を受けたんだ。先輩は言

っていた。

「修一君……人はね、生きている限り、それを最大限楽しんだり、悲しんだり、喜んだり、怒ったり…

…そうやって精一杯生きていくべきだと思うよ。ゆったりした時間を過ごすのが大切な時もあるけど…

…死んだように生きていたら、自分に意味が見出せなくなっちゃうよ。今はまだわからないかもしれな

いけど……いつか試される時が来ると思うんだ。その時に、自分は精一杯やったって思えるほうがいい

じゃない？……なーんて、ちょっと説教臭かったかな。私ももう３年だし、進路のこととか考えると、

色々あったりしちゃってね……これから先の未来に、何を見出して生きていくべきなのか、なーんてね

」

先輩はおどけた感じで言っていたし、僕もそんなに真面目に受け取らず、笑って流していたように思う

。先輩が失踪してからは、先輩のことをあまり思い出さないようにしようとしていた。だけど、先輩の

話してくれた色々なことが、今の僕を作っているのは事実なんだ。それがなければ、後藤早苗にも僕は

何も言えなかったかもしれない。僕は無意識に先輩に関する思い出を避けていたような気がする。辛い

記憶でしかないと思っていたんだろう。でも、それは確かにもう過去のことだったかもしれないけど、

拒絶するようなことではなかったんだ。先輩の最後の話が事実であろうと、そうでなかろうと……もっ

と、先輩の記憶を受け入れていても良かったんだろう。胸の奥に渦巻いていた様々なモヤモヤも、誰に

も言えないまま抱え込んでなくても良かったのかもしれない。

――相変わらず、自分の弱さを痛感することばかりだ。

「笑ってるんですか？」

「え？」

「それとも……泣いてる？」

後藤早苗に指摘されて、自分が酷く惨めな表情をしていることに気付いた。だけど、心の中は少し清々

しい気持ちになっていた。

「どっちでもないよ、早苗ちゃん」

僕は、今度こそ気兼ねなく笑った。気丈に振る舞い、必死で生きようとしている彼女に、何か伝えられ

るかもしれない。今だけは、それが正しいことであることのように思えた。

「話をしよう。僕の人生を変えてくれた人との出会い。高校の時の、大切な先輩の話を……」

 

それから僕は、自分でも信じられないくらい饒舌に喋っていたと思う。それは、さゆきの話をしていた

時と同じくらいかと思えるほどに。後藤早苗は、笑いながらいろんな話を聞いてくれた。いつしか僕は

しゃべり疲れて、気がつけば後藤早苗は眠っていて、僕もまたいつの間にか眠りに落ちていった。滅ん

だ街も、秋の夜の肌寒い空気も、全て忘れて泥のように眠った。

 

夢は見なかった。いや、もしかしたら何か見たかもしれない。思い出したかもしれない。だけど、部屋

に射す微かな光で目を覚ましたころには、全て忘れていた。

ゆっくりと目を開けて、体育座りのような格好で壁にもたれて眠っていた自分の姿が見える。変な体勢

で眠っていたため、肩や腰が痛い。起き上がって、伸びをすると、異常なくらい気持ちよく感じた。そ

の代わり、後から体に疲労感も感じた。小さな寝室の窓からは、弱い光が射しこみ、窓際のベッドです

やすやと眠る少女の顔を照らしている。

後藤早苗を起こさないように、静かにドアを開けて部屋の外に出る。相変わらず、廊下の天井はボロボ

ロに崩れていて、どんよりと曇ったような昼の空が見えていた。

そう、一夜眠り目が覚めても、相変わらずこの街は滅んだままだ。夢であれば良かったなんて気持ちも

湧いてきたが、起きぬけの頭では複雑に感情を駆け廻らせることも困難だった。あれこれ考えるのは面

倒くさい。目の前の現実に対処しなくちゃ、とそう思った。

廊下を少し抜けて、広間に出る。

「おはよう、修一くん」

声をかけてきたのは、田辺老人だった。昨日と同じように、椅子に座って、崩れた壁の間から外の様子

を眺めている。

「おはようございます、田辺さん」

ええおはよう、と返して、田辺健造は笑いかけてきた。

「あの少女はどうですか」

「早苗ちゃんなら、まだ眠ってますよ。別状はなさそうです」

「そうですか。それは良かった」

「曇ってますね。今何時くらいなんだろう……」

「いまは午前９時くらいですよ」

田辺健造は自分の腕時計を掲げて、優しげに言った。もう９時かと思ったが、昨日は波動論教に監禁さ

れたり、逃げ出して支倉隼人と出会ったり、後藤早苗や他の人たちの救助をしたりと、異様に長い夜を

過ごしたのだから仕方ないかもしれない。

「五十嵐さんはどうしたんです？」

「彼女もあれから戻ってきましたよ。一旦眠って、今度は朝から食料を探しに行ってくれています」

「食料を？」

そういえば、昨日の夕方から何も食べていない自分に気づく。考え始めると、妙にお腹が減ってきたよ

うな気がする。

「五十嵐さん、大変ですね……僕も手伝いに行った方がいいかな」

五十嵐さんの働きぶりに、自分が役立たずのようで居住まいが悪くなって、外に向かおうとした。だけ

ど、田辺健造は手で制した。

「どうやらその必要はなさそうですよ」

田辺健造の視線の先を見つめると、大きな段ボール箱を抱えてくる五十嵐晴美の姿があった。

 

三人で、田辺健造の使っていたテーブルを囲んでいる。テーブルは食卓となり、乾パンや缶詰肉、缶入

りの水がごちそうとして並んでいる。遅い朝食だった。僕は食事をとりながら、五十嵐晴美に尋ねる。

「通信手段は見つかったんですか？」

五十嵐晴美も、食べながら答える。

「無事だったテレビは見つけたけど、やっぱり電源が入らないみたいだったね。携帯のワンセグも全然

ダメ。緊急時用のラジオも見つけたけど、ノイズばっかりだったわ」

五十嵐晴美は、懐から小さなラジオを取り出し、食卓となったテーブルの脇に置いた。

「テレビが見れないってことは、電波塔もダメになってるってことかな……」

僕は、ラジオを手に取り、いじってみた。電源を入れて、適当に周波数帯を上下させてみる。ザザー、

というノイズばかりしか聞こえない。

「それにしたって、少しくらい何か映ってもいいんじゃないかしら？現状はあまりにも異常だわ。この

災害が仮に地震だとして――まあこれほどの大地震なんてなかったはずだけど――電波の送信すらまと

もに出来なくなるって、どういうこと？この街の一帯に限らず、大災害に見舞われたっていうのかしら

。でも、それにしたって救助のヘリなんかも見えやしないし……」

五十嵐晴美が疑問を並べ立てている。ラジオは一向に口をきかない。

「この世界の全てが――」

僕は無意識に口に出してしまっていた。しまった、と思った時にはもう遅い。五十嵐晴美も、田辺健造

も、少し訝しそうにこちらを眺めてきた。

「あ……いや、そういった世界が終わるとかっていう予言も、ありましたね……まさか、それが本当だ

とは思いたくないけど……」

「そういうことはあまり言わないほうがいいですよ。修一く……」

田辺健造が言葉を出した途中に、手元でいじっていたラジオから突然声が聞こえた。ぎょっとして、三

人とも耳を澄ませてみる。

「……こちらは……のラジオ局に…………今……救助……ダメだ…………街は……全滅……し……」

ノイズ混じりの声の中、聞き覚えのある地名が語られる。それは、僕たちのいる場所の県外の都市の名

称だった。どうやら、この電波を放送している者は、その都市にいるらしい。そして、聞き苦しい音声

を注意深く聞いていると、その都市もまた壊滅したというような旨の言葉が語られている……

「県外の…………も…………の方も……だった……日本中……いや……もしも……が終わり……」

冷や汗が流れ落ちる。このラジオの情報が正しければ、県外の遥か遠くまで、壊滅的状況が続いている

と言っているように思える……下手をすれば、日本中全てが。僕らは、顔を見合わせる。ラジオは、す

ぐにまたザザーとノイズを垂れ流して、それきり喋らなくなってしまった。

五十嵐晴美は片手で頭を抱えるみたいにテーブルにもたれかかった。

「どういうこと？本当に、世界の終わりでも訪れてしまったって言うの？何故？昨日まではこんなんじ

ゃなかったのに……何の前触れもなかった……のに」

「五十嵐さん……」

田辺健造がなだめるように声をかける。五十嵐晴美は、何とか笑顔を浮かべて振り向いたが、それはも

う明らかに苦笑いにしかなっていなかった。

いよいよもって動悸が早まっていく。やはり波動論教の言っていた『世界の終わり』は事実だったんじ

ゃないだろうか……そんな気がしてならない。根拠なんてないけれど、不安は強く、疑念は色濃くなる

。

五十嵐晴美が大きく息を吐き出して、自分の頬を両手で叩いた。

「思い悩んでいても仕方ないわ。救助が来ないとしても、私たちは生きてる限り生き延びなくちゃ。こ

れを食べ終わったら、もう一度街を散策しましょう。修一君？」

僕は頷いた。

「……そうですね。今はそうするしか……」

今は、とにかく動くしかないと思った。街を回ったところで、今更何を見つけられるのかわからない。

それでも、このまま何もしないでいるのはあまりにも恐ろしいことのように思えた。余計なことを考え

る時間なんて無いほうがいいのかもしれない。

「田辺さんは、この家で後藤さんを見ていてもらえますか？彼女が起きたら、食料の残りを食べさせて

あげてください」

五十嵐晴美は、段ボール箱の中に入っていた、なけなしの食料を指さして言った。大きい箱の割に、中

身はそこまで詰まっていなかったのだ。女性が一人で抱えてこられたくらいなのだから。

「わかりました。ぼくも足にヒビさえ入ってなければもっとお役に立ちたかったのですが……」

残念そうに田辺健造は言う。だけど、街の探索だけが重要なことじゃないはずだと思う。

「仕方ないですよ。早苗ちゃんは、誰かがついていてあげないとまずい状態なんですから。歩き回るの

は僕らに任せておいてください」

「ええ、大変なことでしょうが、どうかお願いします……」

田辺健造は頭を下げる。僕と五十嵐晴美は何も言わずに頷いた。

それから僕らは手早く食料を平らげた。出発する前に、奥の部屋に入り、後藤早苗の顔を見ておく。彼

女はすやすやと穏やかな顔で眠っている。今のところは病状も心配いらなさそうに見える。僕は小さく

行ってくるよ、と挨拶して、家を出た。

 

とりあえず新しい食料や医薬品を手に入れなければ、明日の我が身さえ保てる保証がない。デコボコに

隆起し、ひび割れ、瓦礫の山に埋もれ、複雑な段差となった街の地面を歩いていく。僕は、気になって

五十嵐晴美に訊ねてみたいことがあった。僕の前を行く彼女に声をかけてみる。

「五十嵐さんは……なんでそんなに頑張れるんですか？」

彼女は一瞬動きを止めたが、気にしないようにそのまま進行しながら、声を出す。

「なんでも何も……困っている人がいたら助けたくなる。当たり前のことでしょう」

「ええ……だけど、まるで自分を削るみたいに働くのは……いえ、凄いことだと思っているんです。僕

は五十嵐さんに言われなくちゃ動けなかっただろうから……」

五十嵐晴美は少しだけ振り返り、哀しげな眼で一瞥をくれた。それから、そっけない態度で歩みを続け

た。その後ろをなんとなくついていく。腰の高さほどの段差を越え、瓦礫の森を歩いていると、彼女は

ぽつりと声を漏らした。

「……本当のことを言えば……」

「え？」

「別に私は、困ってる人がいるから助ける、なんて善良な考えを持っているわけじゃないのよ……」

僕の前を歩きながら、彼女は話し続ける。

「本当は、他人の命なんてどうでもいいと思ってるかもしれないわね。だからこれは、単なる贖罪のよ

うなものでしかない。昔……私は、ある災害に見舞われて、夫を亡くしたのよ。彼は……助けを求めて

いた。だけど私は怖くなって……他の人の助けを呼びに行った。戻ってきた時、彼は冷たくなっていた

わ……」

彼女は自らの過去を告白していた。それは、教会で懺悔の言葉を吐くような、深い後悔に満ちた語調だ

った。

「あれ以来、いつも悪夢を見るようになった。何故助けてくれなかったのか、と……あれ以来、私は自

分を変えようとしていた。誰か困っている人と出会えば、自分に出来る限りの手助けをしてきたわ。そ

うやって誰かを救っていれば、過去の自分の罪を償えるような気がしていたのね。そんなの誰かのため

じゃない。自分のためでしかないわ……私は浅ましい人間に過ぎないのよ……」

「でも……」

五十嵐晴美の告白を聞いても、僕は彼女のことを浅ましいとは思えなかった。

「……あなたが自分のために行ったことであっても、実際に救われている人がいる。それで十分なんじ

ゃないですか？困っている人を見て放っておけないなんて人だって、放っておけない自分の心を満たす

ために助けているわけでしょう？」

五十嵐晴美は、哀しみを隠した眼差しでこちらを振り向いた。その顔は決して、自分のためだけに生き

ているような人間じゃない。彼女自身が否定しても、確かな優しさを持っていると僕は思った。

「結局、みんな主観でしか物事を見れませんよ。だけど、あなたは行動している。その行動で、助けて

もらったと感じ、嬉しいと感じる人がいるんです。田辺さんも、早苗ちゃんも、みんなあなたに救われ

たんですよ。それでいいじゃないですか。自分を許してあげたってきっと……」

僕は何とか彼女の心を報わせようと言葉を紡いでいた。だけど、五十嵐晴美は薄く笑った。

「そんなに単純には生きれないわよ。大丈夫。別に今更励ましなんていらないの。あなたの言っている

こともわかる。気遣ってくれてるのも……だけど、それでも私は私を許さない。それでいいと思ってる

わ……それでも私は、生きていくから」

彼女は道の先の方を向いて、わずかに吹き込む風が髪を揺らすのに任せていた。空はいまだどんよりと

暗く、太陽の温もりは薄く、秋風が少し冷たく肌を突き刺している。視界には崩れた建物の群れが見え

るばかりだ。しばらく荒涼とした世界に身を任せていると、ふと彼女が道の先を指さして言った。

「さ……そろそろ別れて街を探索しましょう。二人連れでもあまり意味はないし。昼過ぎに田辺さんの

家に戻りましょ」

「……わかりました。じゃあ、また後で……」

僕が彼女に言うべき言葉なんて、結局見つからずじまいだった。彼女は自分を許さない。それが彼女の

生き方であり、自らの夫に報いいることだったんだろう。だけどそれは悲しいことに思えてならなかっ

た。何故、彼女が罪を感じなければいけなかっただろう。みんな、様々な罪を抱え生きている。後藤早

苗もそうだし、僕だってそうだ……誰もが後悔なんてせずに生きていければいいのに……何故上手くい

かないことばかりなのだろう。だけど……それでも生きていかなくちゃいけないんだ。

 

それから僕らは道を違え、別々に街の探索を進めた。昨夜あれだけ見かけた、道に転がって呻いてるけ

が人や亡骸が、今日は全然見えなかった。それはいったい何故なのだろう。不思議には思ったが、どこ

かで五十嵐晴美みたいな人間がいて、避難を促したり、埋葬するために運び出しているのかもしれない

と思った。だけど、それにしたってあまりにも街は静かすぎるように思えてならなかった。考えても仕

方ないので、とにかく食料や役に立つものを見つけようとする。住宅街を横切り、商店街を探す。スー

パーマーケットの残骸でもあれば、食べられるものもたくさん見つかると思うのだが、デコボコの残骸

となった街では、いまいち方向感覚が掴めず、難航していた。田辺健造の家にも戻らなきゃいけない。

頭の中でマッピングを続けながら、何とか街を探索する。

瓦礫の山が積み重なって、小高い丘のようになっている建物の跡に登ってみる。手で体を持ち上げたり

しながら、段差を上っていく。一番高い所に着くと、周りの景色が良く見渡せた。右側の壁の影から景

色を覗き込む。数々の建物の残骸が見え、その中央に、亀裂が入り、ところどころ隆起し、荒い砂利道

と化したかつての道路が見える。

ふと、道路の向こうに何か揺らめくものが見えたような気がした。目を細めて覗き込む。確かにそれは

動いていた。白い何かが道路の先で蠢いている。しかも、それは少しずつ近づいてきているようでもあ

った。いったいなんだと言うのか。胸がざわめき、その様子を見続ける。そして、それが何だったのか

わかってくると、突如として恐怖に支配される。

――波動論教だ。

真っ白い服に全身を包んだ、異様な風貌は、忘れもしない。しかも、一人や二人ではない。数十人にも

及ぶ白い服の男女が、列をなして行進しているのだ。彼らの地面を踏みしめる足音が少し少し聞こえて

くる。それがとても恐ろしい。彼らがここで何をしているのか……僕を、捕らえに来たのか？壁の陰に

隠れて、乱れた呼吸を整える。落ちつけ。これからどうすればいい。どうすれば――

目を閉じて考えているうちに、背後から誰かの悲鳴と罵声が聞こえてきた。

……え？どういうことだ？気になって、壁の陰から少し顔を出し、様子を見てみる。

白い衣に身を包んでいる男女の中、赤い衣に身を包んだ人間が、一人いた。彼は地面に寝転がっていた

。いや、違う……その頭蓋は、砕けていた。赤い衣に見えたのは、血で染まった白い衣だったのだ。

波動論教団員が、殺されている。見れば、道路に面した建物の陰、裏路地から、無数の一般市民と思し

き男女が駆けだしてきていた。老若男女問わず、無数の市民が駆けよって、手に持ったパイプや鉄棒で

波動論教の団員を攻撃している。白い衣の上から鉄の棒を突きさし、四肢や頭を粉砕し、倒れた者に止

めをさしていく。波動論教の団員も抵抗し、手に持ったナイフで市民を突き刺したりして、攻撃してい

た。鮮血が飛び交い、地面が血の海と化していく。

目の前の光景が信じられなかった。何故、市民と波動論教が殺し合っているんだ？しかも、先に攻撃を

仕掛けたのは市民の方だった。何故一般市民がこうも残虐に波動論教の団員を殺している？わけがわか

らない。洗脳されている波動論教はおろか、市民たちの方も、何かに操られているみたいに、徒党を組

んで、人間性を失ったように残虐な攻撃を行っている。こんなことがありうるだろうか。わからない…

…ただ一つわかることと言えば、この状況はあまりにも危険で、恐ろしいものだと言うことだ。

帰らなきゃ……一刻も早く、あの家に戻って、危険を知らせなきゃ……突き動かされるような気持で、

僕は踵を返し、走り出した。

 

足場の悪い道を駆け抜ける。一刻も早く戻りたかった。伝えなくちゃ。大変なんだ。このままじゃ……

このままじゃどうなる？わからない。だけど、とても大変なことが起こっている。あの優しい人たちを

そんなことに巻き込んじゃいけない。だから……とにかく伝えて、出来れば逃げる……逃げるってどこ

に？僕らの逃げ場なんてどこにある？わからないよ、そんなこと。考えるのも面倒くさい。とにかく戻

るんだ……

頭の中であの家の三人の顔が思い浮かぶ。いろんな思考が流れていたが、走り続けるうち、次第に頭の

中が空になっていく。頭の中の地図も浮かばない。だけど、気がつけば、田辺健造の家が目の前にあっ

た。僕は戻ってこれたのだ。

ああ、早く危機を知らせなくちゃ。息切れする体を突き動かし、崩れた玄関の敷居をまたぎ、家の中、

廊下を歩き、天井のある広間にはいる。

何か言おうとして開いた口が、そのまま開きっぱなしで声が出なくなった。

五十嵐晴美が、床に突っ伏して赤い液体をたれ流していた。

違う。五十嵐晴美が、死んでいた。

こめかみから鮮血があふれ、流れ落ち、広間の床を血の海と化していた。そして、その前に立つ男は、

右手に拳銃を握っていた。白いスーツを着込んだ、恰幅のいい中年の男。周りには、白い服を着込んだ

十数人の男女。

手遅れだった、と気づく。全身から冷たい汗が流れ出す。体が震え、息が苦しくなる。目の焦点が合わ

なくなっていく。嘘だ、こんなの……本当に死んでしまったんですか？さっきまで呼吸し、一緒に食事

をとり、言葉を交わしていた、その人が。五十嵐さんが、何故死んだ。

黙って突っ立っている僕に、スーツの男が話しかけてくる。

「お前が笹森修一かァ。探すのに苦労したわ」

そう言って男は、足元の五十嵐晴美を……五十嵐晴美だったもの、を蹴る。

「ここに来るまでいろんな人に訊ねたんだぜェ。お前が逃げ出したおかげで、ホラ、罪もない人がこの

ざまだわ」

男が彼女の体を、その血の流れ出す頭を蹴る。彼女は転がり、その眼が見開かれたまま固まった無残な

顔がこちらを向く。

「やめろ……」

思わず声が出る。自分でもわかるくらい震えた声が。それでも、目の前の男は意にも解さない様子で、

五十嵐晴美の体を蹴飛ばす。

「なんか言ったかい？聞こえんかったなァ。ま、偶然この女がお前のこと知ってたおかげで、ここまで

こぎつけたわ。おかげさんで大預言者様の手をわずらわすこともなくて良かったよかった」

言いながら五十嵐晴美の体を踏みつける。彼女はもう動かない。彼女は死んだのだ。誰のせいで。僕の

せいで。そして、波動論教のせいで。

「やめろ……やめろよおっ！」

思わず男に飛びかかる。あまりにも許せなかった。こんなの人間のすることじゃない。人を虫けらのよ

うに殺した上に、死者を冒涜している。どうしても目の前の男に拳を叩きこまなければ気が済まない衝

動に駆られ、突っ込んでいく。

しかしそれは、両側から回り込んできた白服の男たちに遮られた。一瞬のうちに両腕を掴みとられ、両

足を引きずられ、鳩尾に深く蹴りが食い込む。物凄い吐き気がこみ上げる。内臓が口から飛び出しそう

な感覚。気合で何とかこらえて、顔を上げる。

すると目の前に黒い塊が見える。僕の額に拳銃が突きつけられていたのだ。

両手両足を波動論教の団員に掴みとられ、跪いて見上げる先、拳銃を構えたスーツの男がにたりと笑う

。

「お前ら、もういいわ。放してやんな」

男が合図をすると、床に体を叩きつけられる。顎がフローリングの床に打ちつけられて、口の中が切れ

た感触がした。それから、波動論教の団員たちは僕の体から離れていく。痛む体を何とか起こして、床

に座り込んだまま男を見上げる格好になった。変わらず銃は突きつけられていて、立つことも出来ない

。口からは血が滲みでてくる。

「自己紹介くらいしとこうか。俺ァ遠藤明雄。わかってると思うけど、波動論教のお偉いさんだよ。お

前が逃げ出したってんで、あの槇島草太とか言うガキの尻拭いさせられてるってわけなんだわ。折角大

預言者様と大幹部様がお越しになられたっつーのに、お前のせいで台無しだわ。この責任、どうとって

くれるのか・な！？」

横顔を思いっきり蹴り飛ばされる。体が倒れ、上体が床にこすれる。体に痛みが広がり、息が苦しくな

った。何とか頭を抱えて上体を起こすが、遠藤明雄は冷徹な顔でこちらを見下ろしていた。その眼を見

て、僕は諦めにも似た気持ちを抱いていた。ああ、僕はここで死ぬのだ。きっとこの男に殺されるのだ

。そう直感した。そして遠藤は言った。

「まあ、想定外と言えばそうだったわけよ。我々のセラピーを受けてまともな自我を保っていられる奴

なんて相当珍しいからなァ。お前は良く頑張ったよ。でも、邪魔なんだわ。自我を壊して我々の仲間に

引き込めるならよし、そうでなくても処分すればいいだけ。加賀美香苗を排除するためにはお前らの意

識を壊す必要があったわけだからな。それがまさか、自分の力で逃げ出すなんてなァ」

「……加賀美先輩を排除するため？」

疑問に思い、口にする。遠藤明雄はその言葉を聞いてにやりと笑う。ははあん、といやらしいため息を

吐き、ニヤニヤ笑いながらこちらを見下ろす。

「お前らはやっぱ気付いてなかったんだ？お前らの存在が加賀美香苗というシステムを作り上げている

ってことを」

「は……？何を言って……」

「つまりな、加賀美香苗はお前らの中にしか存在してなかったんだよ。利用されてたんだよ、お前ら全

部な。お前らは加賀美香苗の存在を維持する歯車に過ぎなかったっていうわけだ。わかんねェかなァ？

わかんねェかァ」

「なんだよ、それ……」

理解不能な言葉に茫然としていると、遠藤明雄は笑みを打ち消してまた冷徹に僕を見下ろす。

「ま、いいや。とにかくお前らには消えてもらわにゃいかんのよ。お前が自我を保っていられるのなら

、俺はお前を殺すしかないわけだ。それが波動論教のやるべきことよ。悪いが、消えてもらうぜ」

遠藤明雄が銃の引き金に指をかける。ああ、もうダメなのか。わけのわからないことだらけのまま、僕

はここで殺されてしまうのだ。恐怖が湧いてくる。自分という存在が失われる。今まで生きてきた大切

な時間。僕の人生を少しずつ変えてくれたものたち。加賀美先輩。雨笠先輩。いろんなものを分かち合

えた大切な友達。宮田健次。誰よりも大切な愛する人。三角さゆき。全部……全部お別れなのか。怖い

。やっぱり怖いよ。それでも、もう抗うことなんて出来やしない……

覚悟を決めて死を受け入れようとしたその時、遠藤明雄の背後で、両手でしっかりとスコップを握った

老人が、その両手を大きく振りおろした。

しかしその一撃はあっさりとかわされた。遠藤明雄は体をひねってスコップを避け、振り下ろされたス

コップの先端は、フローリングの床に突き刺さった。遠藤明雄は一瞬硬直していたが、すぐに目を大き

く見開き、背後の老人に掴みかかる。

目の前で田辺健造が遠藤明雄に胸倉を掴まれ、何度も何度も、顔面に痛烈な拳を食らい続けている。そ

れを止めようとした僕の体は再び波動論教の団員達に取り押さえられ、何もすることができない。遠藤

明雄は、自分に攻撃を仕掛けてきた老人に対し、激高し、言葉にならないような大きな叫び声をあげな

がら、全身に拳や蹴りを叩きこむ。田辺健造の顔が血に染まり、いびつに変形していく。僕は見ている

ことしか出来ない。気がつけば視界が歪んでいた。自分の目から何かが滴り落ちる。必死で手足を動か

そうとするのに、何も出来ない。なんで――なんでこんなに無力で……目の前で苦しんでる人も助けら

れなくて……どうして、こんな。

田辺健造と目が合う。彼は、こちらの顔を見て、そのぐちゃぐちゃに歪んだ顔で無理やり笑みを浮かべ

、微かな声で言った。

「修一君……お逃げなさい……」

そう言って、彼はぐったりと体の力を抜いた。遠藤明雄はふー、ふー、と荒い息をこぼしながら、田辺

健造の胸倉から手を離した。老人の体が床に転がる。

「はあ、はあぁ、俺を殺そうとするなんてふざけた真似をしやがったからこうなんだ。ざまあねェな。

クソ爺が」

乱れた息を整えて、遠藤明雄はこちらを一瞥する。そして、田辺健造の体を思い切り踏みつけ、その頭

を拳銃で撃ち抜いた。

大きな炸裂音。銃口から弾ける火花。目の前で、田辺健造の頭が、風に飛ばされた花弁のように砕け散

った。

「う……ああああああああああああああああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁっ」

僕は叫んでいた。自分でも自分のしていることが良くわからなくなるくらい、声にならない声を上げる

。目からはボトボトと何かのしずくが飛び散る。口から垂れる錆びの匂いが気持ち悪い。耳がおかしく

なりそうなくらい大きい音。獣が雄たけびを上げているようにして、肺に満ちた空気を全て吐きだす。

それはすぐに途切れる。呼吸が出来ず、物凄い苦しみが襲う。頭の中が一瞬真っ白になり、体が酸素を

求め、大きく息を吸い込む。しかし、あまりに大量の空気を吸い込み、呼吸が乱れる。大きな咳が何度

も何度も出て、また大きく息を吸い込み、呼吸が苦しくなる。両手両足を抑えられたまま頭は下を向き

、目からは大量の涙が、口からは血の混じった涎が垂れていた。

――僕は、いったい何をしているんだ――

顔の前に黒く光る金属が突きつけられ、顎を無理やり持ち上げられる。硝煙の匂いが鼻につく。見上げ

た先には血走った獣のような男の顔。男は目の前に銃を突きつけ、僕を見下す。その顔を僕はしっかり

と見据えた。

「なんだァ、その顔は……」

遠藤明雄が銃の引き金に指をかけ、もう一度僕の顔に銃口を合わせ直す。

「お前はこれから死ぬんだ。わかってねェのか、おい」

何も答えずにただ遠藤明雄の顔を見上げた。これから自分を殺すことになる男の顔を、しっかりとその

眼に焼きつけていた。遠藤明雄は血走った眼を見開き、奥歯をギリリと食いしばり、僕の横面を殴りつ

ける。口の中がさらに切れて、血が流れる。それでも僕は、遠藤明雄の顔を見据えた。獣のような男が

、苛立ったような顔を見せる。

「ふざけんなよてめェ、これから死ぬんだぞ？俺はお前を殺すってんだろ？なんでそんな顔してやがん

だ、おい」

そんな顔、と言われても自分ではどんな顔かは分からなかった。どんな顔なのだろう。必死に死の恐怖

を隠し、刃向うように装った情けない面でしかないのだと思う。僕はただ、最後まで自分を見失わずに

いようと……そう思ったのだ。こんな同じ人間とも思い難いような傲岸な男の思い通りに、怯え、悶え

苦しんでも……それでも、最後の瞬間まで、僕の心は僕自身のものであるべきだ。他の誰にも明け渡す

ことは出来ない。誰の思い通りにもなってやるつもりはない。僕は覚悟を決めた。ここで殺されたとし

ても、僕は僕であり続けよう。それが、今僕に出来る最大限の抵抗だったのだ。

「俺は波動論教の中でも汚れ役の仕事を押し付けられてきたんだよ……ほとんどヤクザもんもいいとこ

ろだ。いろんな奴をバラす羽目にもなったさ。時々いるんだけどよ、おめェみたいな悟りきったような

目をした奴だってなァ、これ一発で等しくあの世行きなんだよ。意地を張ったところで無意味だろォが

。泣き叫んで命乞いでもしてみたほうがよっぽど可愛げがあるってもんだ。なァ、そうしねェのか」

僕は何も答えなかった。ただ、目の前で喋り続ける男の目を射抜くように見つめた。遠藤明雄は、チッ

と舌打ちをして、拳銃を構え直す。

「おめェみたいなのが一番嫌いなタイプだよ。本当ならその顔をぶち壊しにするくらい苦しめてやりた

いがな、あまり時間をとられるわけにはいかねェんだ。もうお終いだよ。お前は死ね」

そして遠藤明雄は拳銃を僕の頭に突きつけ、その引き金にかけた指に力を込める。

ああ、僕という存在が終わる。だけど、最後まで僕は僕でいられた。こんな死にざまに納得は出来ない

けど、覚悟は決められた。それだけでも救いになるかな……そんな気がする。そういえば、加賀美先輩

が言っていた……いつのことだっけ。あのテレビを見ていた時か。『誰にも支配されてはいけない。最

後まで、自分を信じることを忘れないで』そんなことを言ってたっけ。今なら、その言葉の意味もなん

となくわかる気がしますよ、加賀美先輩――

ふと、家の天井が壊れたその隙間、曇り空の彼方に、何か動くものが見えたような気がした。それが何

なのか、もう確かめる術もない。

耳元で銃声が響いた。大きな大きな炸裂音。その音とともに、僕の頭も砕け散る。

――そう思っていた。

一瞬閉じていた目を開ける。目の前に合った拳銃が、左斜め前方で、下を向いて硝煙を吹き出している

。それを持つ遠藤明雄の右腕は、あらぬ方向に曲がっていた。肘の関節が、動かないはずの方向に反り

曲がっている。おそらく、その場にいた誰もが呆然とした顔をしていたと思う。僕も、波動論教の団員

たちも、遠藤明雄自身も、何が起きたのかわからなかったのだろう。

「な……なんじゃこりゃあ……」

遠藤明雄が、折れ曲がった右腕を支えようと、左手で触れる。だが、その右腕は力なくぷらりと下に垂

れるだけだった。拳銃は床に落ち、ゴトンと音をたてた。その時、体に衝撃を感じる。ゴツンと鈍い感

触が伝わる。だがそれは僕自身の体にではないようだった。急に左腕を取り押さえる力が弱まるのを感

じ、振り向くと、僕を押さえていた波動論教の団員達の一人が、頭から血を噴き出して倒れていくのが

見えた。それと同時に、何人もの人間の足音が、家の中に踏み込んでくる。

それは、ラフな服装をした若い男や、スーツを着込んだ中年の男だったり、あるいは着飾った女だった

りした。どう見てもただの市民でしかない十数人の男女が、突如家の中に踏み込んできた。

「な……なんだァお前らは……」

遠藤明雄が困惑の声を上げる。市民たちは何も答えず、手に持ったパイプやスコップやモップや包丁と

いった武器を使い、困惑する波動論教の団員たちに襲いかかった。

それは、殺戮だった。ただの市民でしかないはずの彼らが、何のためらいもなく、波動論教の団員達を

次々と死体に変えていった。飛び散る鮮血と、苦しげな嗚咽。倒れ伏した波動論教団員に対し、市民は

その喉を掻き切って止めを刺していった。波動論教は、僕を拘束することも忘れて抵抗したが、無駄だ

った。市民は、抵抗に遭ってもものともしなかった。

教団員が、市民の女性を突き倒す。したたかに床に後頭部を打ちつけた彼女は、目を見開いたまま頭か

ら血を流す。死んだのだ。だが、他の市民がすぐさま、死んだ女性の上に馬乗りになった教団員を殴り

殺した。何の感慨もなく……

ものの一分もしないうちに、波動論教の白い服は血の赤に染まり、十体以上の物言わぬ血のだるまが量

産されていく。僕は部屋の隅に転がり、その様子を見ていることしかできなかった。市民たちの様子は

明らかに異常だった。僕が外の街で見た、波動論教に攻撃していた市民たちと同じ……正気を失ってい

るかのように目はうつろで、無感情だ。しかし、正確無比に波動論教の団員たちを手際よく殺していく

。それは、やはり何かに支配されているかのように……

「何なんだよてめェらは、なんだってんだよ……」

遠藤明雄が困惑しながら叫んでいる。だが、それは仮初の虚勢に満ちた、情けない姿だった。彼らは、

自分が何故殺されるかわかっていないようだ。いくら悪しき働きをしている波動論教といえども、人が

こんなに躊躇なく殺されていく何て……全く理解が出来ない。異常だ。こんなのあり得ない。

「そうか……てめェらが、大預言者様たちの言ってた、外宇宙知性体……宇宙意思に従う俺たちを殺し

に来たってのかっ……よっ……」

その時気配がして、上を向くと、崩れた屋根の隙間から、若い男が飛び降りてくる。そして、目の前に

佇む遠藤明雄の首を、後ろから両腕で強く締め付けた。さっき彼の右腕を折ったのも、屋根から飛び降

りてきた市民の仕業だったことに今更気付く。

「やめ……や……ろ……は……な…………」

遠藤明雄が、自分の首を締め付ける男の腕に、自分の指を絡ませて必死に抵抗する。じたばたと手足を

もがいているが、締め付ける力は弱まらないようで、次第に声も出せず、白目をむいて、口から泡を吹

き出した。そして、暴れていた手足ががくりと垂れて、のびてしまった。

市民はさらに力を込め、遠藤明雄の首をゴキンと折った。

気がつけば、波動論教の団員は誰一人として生き残っていなかった。周りには、団員達と市民たちの死

体の山。気がつけば僕は、十数人の市民たちに取り囲まれていた。彼らの目は虚ろで、僕の方を向きつ

つも、どこか遠い別のところを見ているようでもあった。無感情なその顔を見ているうちに、怖くなっ

た。遠藤明雄は、彼らが外宇宙知性体と言っていた。彼らは、どう見ても人間だ。だが、誰かに操られ

ているとしたら……人間以外の、知性ある何かに操られているのであれば……そう考えた方が釈然とは

するが、もしそうだとすれば、彼らは僕をどうしようというのか……

一人の若い男が近づいてくる。しゃがみ込む僕の鼻先に、ピン、と血に塗れたナイフを突き付ける。あ

あ、結局僕は殺されてしまうのだろうか……どんなに覚悟していても抑えきれない動揺を何とか押し隠

し、様子を見る。宇宙の闇を映したような虚ろな目が、僕の姿を見定めるように捉える。

しばらく見られた後、男はおもむろにナイフを下ろして、踵を返して歩き始める。僕を見ていた他の市

民たちも、号令をかけられたかのように一斉に立ち去ろうとする。僕はどうやら見逃してもらえるよう

だった。

「ちょ……ちょっと待って」

そんなつもりはなかったのだが、僕はつい彼らを呼びとめていた。こんな危険な集団に何を呼びかけよ

うと言うのか、自分でもわからなかった。だけど、彼らが僕の敵だとも思いきれなかった。

「お前たちはいったい何なんだ？なんで波動論教を殺して回ってるんだ？」

僕にナイフを突き付けた若い男だけが振り向き、僕を見る。

「本当に誰かに操られているのか？だったら、それは――」

要領を得ない僕の質問に対し、男はおもむろに口を開く。

「君は彼らの仲間ではない。そう判断された。それで十分だ。余計な詮索をしてもためにはならない」

「……それは……誰が判断したんだ……？……お前たちじゃない、それを操る誰かが？」

若い男は表情を変えなかったが、何かを思案するような間を開け、また口を開く。

「……わたしたちはジオシンメトライザー……その忠実なる僕であり、彼らに愛された子供たち……君

は何も案ずるべきではない。君もまた、彼らの愛する子供の一人なのだ。地球の未来は、彼らが……わ

たしたちが管理する」

そう言って男は再び踵を返し、歩み去ろうとする。

「なんだよ、ジオシンメトライザーって……お前らいったい何なんだよ……あんなに人を殺して……波

動論教と何が違うんだよっ……」

男の背中に声をかけるが、もはや聞く耳を見たないかのように、足早に去っていった。

僕は死体の山と血の海の最中で立ち尽くしていた。もはや動くこともない、かつて人だったものたちの

残骸……静けさと鉄錆のような異臭が脳の奥に入り込んだみたいで、とても気持ちが悪かった。

ジオシンメトライザー。確かに、市民たちはその正体不明の存在に操られている。その存在と意識を同

化させているような物言いだった。だけど、彼らが……そして僕が、ジオシンメトライザーの子供、と

言うのは、どういう意味だろう。波動論教が外宇宙知性体と呼んだその存在……その、子供……

考えてもわからなかった。頭を振るって、別のことに意識を張り巡らせようとする。とりあえず僕は助

かったらしい。だけど、五十嵐晴美と田辺健造は、死んでしまった。僕のために……物凄い罪悪感に襲

われる。僕が彼らに関わらなければ、こんなことにはならなかったのに……何故、こんなことになって

しまったのか。あらためて考えるほど、胸の奥が焼きつくようで、目の奥が熱くなっていく。

頬を両手で叩いて意識を切り替える。自分を責めたところで、彼らの命は戻ってはこない。今はもっと

大事なことがあった。死んでしまった人たちには悪いけど、まずは生きている人間のこと……そうだ、

後藤早苗は、まだ命を奪われていないかもしれないじゃないか。彼女を守らなくちゃ……今は、他のこ

とを考えている場合じゃないんだ。必死で自分に言い聞かせて、自分の心を潰さないようにしようとす

る。

 

血に塗れた広間を出て、廊下の扉をそっと開ける。

「早苗ちゃん……？」

呼びかけて、ベッドに近づく。だけど、反応はなかった。恐ろしい予感を覚えながら、息をのんで近づ

く。

彼女は息をしていた。だけど、その呼吸はあまりにも荒く、顔が熱を出したように赤く、汗をかいてい

た。苦しそうに腹部を上下させる様は、彼女の容体が急変したことを示していた。

「早苗ちゃん？大丈夫？いや……早苗ちゃん、しっかりして！」

呼びかけて、手を握る。だがその手はするりと力なく落ちた。衰弱して力を込めることも出来ないのだ

ろうか。実際に彼女の怪我は、相当酷いものだった。体が弱り、五十嵐晴美が言っていた通りのまずい

ことになってしまったのだ。

僕にはどうすることも出来なかった。医療の心得はもちろんないし、応急処置すらどうすればいいのか

わからない。僕は、また目の前で死に向かう人々を見殺しにするしかできないと言うのか。

悔しかった。僕は一人で逃げてきた。宮田を見殺しにし、雨笠先輩を見殺しにし、さゆきを守ることも

出来ず、五十嵐晴美を殺させてしまい、田辺健造を殺させてしまい……そしてまた一人、守ることも出

来ずに見ていることしかできないのか。なんで、こんなに無力なのだろう。守りたいと思う人たちを守

ることも出来ずに……

気がつけば僕は泣いていた。目から熱いしずくがこぼれて、後藤早苗の手に落ちた。僕はその手を握り

、震えて泣いた。もう終わってしまうかもしれない世界の中で――何をすることも出来なくて――

「修一さん……」

かすれた声が耳元で響く。少女の声。顔をあげて見ると、後藤早苗が朦朧とした視線でこちらを眺めて

いた。呼吸は乱れたまま、その手も体も震えているまま、少女は声を出そうとする。

「来てくれたんですね……はは……嬉しいな……」

「早苗ちゃん……」

「わたし、もうダメですよね……」

少女は目に涙を浮かべて笑う。そんなことはない。そんなことはないよ、と言いたかった。だけど、言

葉が喉の奥から出てこなかった。どうしてもその一言が言えなかった。

「なんだか、大きな音が聞こえました……五十嵐さんや田辺さんが……どこか遠くへ行ってしまったよ

うな……凄く悲しい夢を見ました」

僕は何も言えず、ただ涙だけが目から零れ落ちた。俯いて彼女の右手を握る。熱かった手が、少しずつ

熱を失っていく。まるで彼女の命が零れ落ちていくように……

「修一さん、泣いてるんですか……？」

彼女の手を握っている僕の手の上に、彼女のもう片方の手が絡まる。優しく包むその手は、弱々しく震

えたままだった。その感触に心が悶え、さらに涙があふれて止まらなかった。僕は彼女の手を抱きかか

えて、すがりついた。

「ごめん……ごめん、早苗ちゃん……本当に……ごめん……」

懺悔の言葉は、虚しく響くばかりだったけれど、それでも言わずにはいられなかった。何を謝っている

のかもわからない。だけど、謝らなければいけないような気がして、ただ出鱈目な言葉を口走っていた

。彼女は、辛そうな顔で、それでも優しく微笑んだ。

「修一さんが気にしなくてもいいんです……修一さんは精一杯私を助けてくれたじゃないですか。だっ

たら後悔なんて……する必要無いです」

後藤早苗の左手がほどかれ、僕の頬を優しく撫でた。びっくりして彼女の顔と向き合う。辛そうな笑み

を更にゆがめて、涙を流していた。――彼女の方が、辛いはずなのに――

「でも、私は、後悔してます……助けられなかった、あの子のこと……不思議、ですよね。もう、私は

終わってしまうのに……最期になって思い出すのは、あの時のことばっかり……」

声は途切れ途切れに、苦しそうな顔で、その眼はもう何も映すこともないように虚ろになっていく。

「今この時も、ずっと心の中であの子のことを思い出してる……ねえ、修一さん……修一さんは……こ

んな風に、後悔したりしないで生きてください……あなたは、あなたの大事なものを最後まで守って…

…生きてください……」

そう言って、彼女の手から力が抜けおちる。

「早苗ちゃん？」

握り返す力はゼロになって、その手は冷たく垂れ下がって……目を閉ざした彼女の顔は、涙に濡れて苦

しそうだったけど、どこか穏やかな顔で……もうそのまま眉ひとつ動かすこともなくて……

命の炎は、消えてしまった。もう彼女はここにはいない。遠い彼方へ……行ってしまったのだ。

嗚咽が喉の奥から漏れる。涙が洪水のように目から滴り落ちる。もう声も出せない。彼女の小さく冷た

い手を握りながら、ただ獣のように、僕は唸り続けた。

 

気がつけば僕は部屋の外にいた。廊下に座り込んで、壊れた天井の隙間から見える薄暗いままの空を見

上げる。もう昼を回ったのだろうか。少しずつ日は陰っていく。厚いもやの彼方から届く光が、だんだ

ん弱まっていく。秋の空気はひんやりと冷たく体を刺す。風の音がひゅうひゅうと耳の近くで鳴り続け

ている。

みんな死んでしまった。五十嵐晴美、田辺健造、後藤早苗。崩壊した街で出会った、優しい人々……守

るべきだった人々。一夜の出会い。僕の心を繋ぎとめてくれた人たち。それももういない。

これから僕はどうするべきだろう。街の人はみんなジオシンメトライザーとか言う存在に操られている

。さゆきと出会うための手掛かりは、一つたりとて存在しない。この街から出たところで行くところも

ないし、どうせみんな崩壊している。僕はこれからどうすればいい。

気がつけば僕はおもむろに立ち上がり、血に塗れ死体の山となった、広間の中央に歩み寄っていた。

足元には拳銃がある。遠藤明雄が遺したものだ。僕はそれを拾い上げて、その重量を確かめる。

いつだったか映画で見たように、マガジンを外して弾丸の残量を見る。まだ半分以上弾薬は残っていた

。マガジンを戻し、改めてスライドを引く。両手で拳銃を持ち、前方の壁に向けて、肩で照準を合わせ

る。ゆっくりと引き金にかけた指に力を込めると、轟音が耳元で響いて、壁に穴が開いた。反動で肩に

衝撃が来て、バランスを崩しそうになるのを何とかこらえる。銃口から漏れる硝煙の臭いが鼻についた

が、ちゃんと使えることはわかった。

引き金から指を離し、安全装置を作動させ、握りしめる。

拳銃を持っただけで何ができるとも思えない。素人の銃撃がそうそう狙い撃てるようなものじゃないこ

とも知っている。だけど、せめてこれくらいでも持っていれば、なけなしの勇気をふるい起せるような

気がした。

後藤早苗の言葉が胸をよぎる。大事なものを守って生きて下さいと……少女は言った。

僕の大事なもの。誰よりも大事なひと。三角さゆき。彼女の存在は何ものにも代えられない。彼女を守

るためなら、僕はいくらでも戦ってやる。

だけど、彼女が今の僕を見たら、なんて思うだろう。宮田健次と雨笠千代子……彼らも僕にとってとて

も大事な人たちなのだ。僕がそれを見捨てて、自分だけが助けられたとしても、彼女はきっと喜びはし

ないだろう。

そう、大事な友達と先輩を見捨てて逃げるなんて、そんなの最低だ。さゆきだってきっと愛想を尽かす

だろう。いや、それでも彼女なら受け入れてくれるだろうか。だけど、僕は僕を許せない。ここから生

き延びても、後悔だけが残ってしまうだろう。こんな大事なところでずっと後悔し続けて生きたって…

…きっと誰も幸せにはなれなくなる。

考えなくても、やるべきことなんてとっくに決まっていた。自分がどうしたいか、どうするべきだと思

うのか。とっくにわかっていたんだ。

目を閉じて覚悟を決める。そうだよ。ここでやらなくちゃいけないんだ。どんなに恐ろしくても、危険

な場所であっても――逃げたらいけない。今からでも、彼らを助けに行くんだ。

心の中でさゆきに謝る。ごめん。今は君の元へたどり着くことは出来ない。だけど、きっと探しに行く

。僕の大事な友達と、先輩と一緒に……きっと会いに行くよ。だから、今は許してくれ。

 

僕は拳銃を持ち、歩きだす。崩壊した街の中、頭の中のおぼろげな記憶を無理やり引き出して、あの場

所へ戻っていく。波動論教に連れ込まれたビル。宮田と雨笠先輩が捕まったままの、あの場所へ。