📘 G.N.S.[4-1] 思考する箱[前]

遠い記憶の中で、電子生命の『僕』と古竜が会話している。

「地球が滅びた時の話……？一体いつ、地球が滅びたと言うんです？このエクスプローラー船が旅立つ

まで、そんな記録はどこにもなかったはずです。旅立ってからは地球の状態を確認する術もない。なの

に地球が滅びたって、いったいどういうことなんです？」

僕は突拍子もない古竜の言葉に、疑問を呈した。古竜は表情を変えずに答える。

「それは、２１世紀前半の話だよ」

『僕』は、ますます古竜の言うことがわからなくなった。

「２１世紀？そのころに地球が滅びたと？それなら、地球人類は宇宙に進出する前に滅びたということ

ですか？だったら何故、スターシティが出来て、ネットポリスがあって、電子生命の僕たちがいて、エ

クスプローラー船がこんな宇宙の彼方に進出したと言うんです？おかしいじゃないですか。そんなのあ

り得ない」

「そうだろう。だけどね、地球が滅びた場合の世界と、地球が滅びなかった場合の世界が、それぞれ両

立しているとしたら？」

場合の世界、可能性の両立。それは、古い映像記録や物語によく出てくるアイデアだった。だけど、そ

れはいつしか時代遅れと断じられるアイデアでもあった。

「古臭い古代量子論の考え方ですか？どんなに可能性を主張したところで、僕たちの世界は、現実は、

一本のラインを引いたようにしか流れていかない。現実の世界は僕たちにとっていつもたった一つだけ

だ。それが事実じゃないですか」

古竜はゆっくりと首を振る。

「そうじゃないのだよ。量子論などではない。それは、地球人類がいまだ到達していない、宇宙の絶対

的な真理によるものなのだ」

「……それはいったい……」

「宇宙における絶対価値。精神の優位性を決め、無数の意味ある現実を生み出す、普遍的真理。その存

在……それが……――パラドボックスだ」

 

未来の記憶を思い返しながら、僕は走る。目の前には、瓦礫の山と変わった街並みがある。完璧に崩れ

た建物や、中腹でひしゃげ折れて、階下の部分が崩れたような建物もある。残骸の中で小さな火災を起

こしている建物もあったし、壊れた水道管から水が漏れている建物もあった。そして、人々がいた。建

物の下敷きになってしまった人々や、負傷して、瓦礫の前でうなだれている人々や、必死で家族の名前

を呼びながら瓦礫の中を捜索する人々。ちょっと前まであんなに平和だった街並みが、悪夢のような風

景に様変わりしてしまっている。秋の夜空は冷たい空気で僕らを刺し、どうしようもない心細さを感じ

た。

街の中を歩く。ふと、目の前で倒れている人がいた。目立った外傷はないが、とても辛そうに呻いてい

る。思わず抱きかかえて、「大丈夫ですか？」と問いかける。３０手前位の男性は、苦しそうに笑顔を

作った。

「ああ、大丈夫……だよ」

「いったい何が起こったんです？この街にいったい何が……」

僕は思わず疑問をぶつけてしまっていた。あまりにも理不尽に思える状況に、耐えきれなかった。波動

論教の、槇島草太の言っていた、世界の終わりが本当に来てしまったとでもいうのか。あまりにも突然

すぎて……わけがわからなかったのだ。

「何が起こったのか、よくわからない……ただ、世界がぶれたような感じがして、いきなり家がボロボ

ロに崩れていた……その崩壊に巻き込まれて、体を打ったんだ」

男性は力無い口調で答えてくれていた。

「本当に、何が起こったのだろう。大地震？そんなちゃちなものじゃない。まるで、今まで当たり前に

過ごしていた平和な世界の方こそ嘘だったかのように、夢だったかのように……そう、いきなり夢から

覚めるみたいに……世界が入れ替わってしまったんだ」

男性はそこまで話すと、突然口に手を当ててせき込んでしまう。そこには、赤い血がべっとりと付いて

いた。

「だ、大丈夫ですか、あの」

僕がおろおろする間にも男性は苦しそうにせき込んで、血をまき散らす。

「そうだ、救急車を……」

僕は思いついて、携帯電話を取り出そうとする。だけど、いつもポケットに入ってるはずの携帯電話は

どこにもなかった。ああ、波動論教に捕まった時に、取り上げられてしまったのか。まずい。どうすれ

ばいい。男性は苦しそうに呻いている。このままでは死んでしまうかもしれない。

「携帯電話……電話は持ってますか！？」

僕が問うと、何とか男性は自分の着ているスーツの内側を指し示す。僕は失礼して、その内ポケットを

探り、男性の携帯電話を拝借した。カバーを開き、至急、救急電話に繋げようとする。番号を打ち込み

、電話を耳に当てる。だが、実際には、残酷なメッセージが流れるのみだった。この電話は圏外のため

、通話はできません、と……一旦発信を切って、画面を見つめる。都市の中なのに、携帯の表示は圏外

のままだった。つまり……電話会社すらも、この災厄で朽ち果ててしまった……そういうことなのだろ

うか？だとすれば、誰に助けを求めればいい。

腕の中で、男性が苦しそうに肩で呼吸をしている。僕はどうすればいいのかわからなかった。助けなく

ちゃ……目の前で人が死のうとしている。僕は立ち上がって、叫んだ。

「誰かっ……誰か、助けてください！人が死んでしまうかもしれないんですっ！」

僕は街をかけまわり、助けを呼ぶ。だけど、その声には誰も耳を貸さない。

「誰かっ……助けて……誰か、お願いです、助けてくださいっ……」

叫んで、助けを呼び続ける。だけど、みんな必死だった。周りには、負傷して、誰かを助ける余裕なん

てないような人たちや……近しい人を助けるため、精一杯な人たちばかりで……自分自身、死に至ろう

としている人たちばかりで……

「誰か……お願いだから……」

叫んでも、その声が届くことはなかった。世界が終ろうとしている。大きな災厄の前に、僕は何をする

ことも出来なかった。僕は……あまりにも無力だった。

駆けずり回っても助けは来なかった。男性の元へ戻ってみる。スーツを着た会社員風の、まだ若い……

前途はいくらでもあったであろうこの男性は……死んでいた。呼びかけても返事はなく、脈をとっても

、心臓の音を聞いても、何も応えてはくれなかった。薄く目を見開いたまま動きを止めたその体を前に

、僕はひざまずき、誰かに許しを請いたい気持ちでいっぱいだった。

「なんで……なんでこんな……っ」

僕は地面を叩き、自分の無力さを呪った。だけど、そんなことをしても、失われた命は……戻ってこな

いのだ。僕は男性の目を閉ざし、せめてもの黙祷をささげた。

それから僕は、崩壊した街、終わりに向かう世界の中、ふらふらと力なく漂うしかできなかったのだっ

た。

 

裏通りを歩く。綺麗に舗装されていたはずのアスファルトはひび割れてボコボコと段差を作っている。

背の高い建物たちが階の途中で崩れて、その頭が大きく傾いている。途中、倒れて血を流している人た

ちを何度も目撃する。みんな、死んでいた。彼らにも家族や恋人や大切な友達がいただろう。守りたい

人たちが居ただろう。だけど、失われてしまった。どこまで行っても街は壊れている。本当にみんな、

失われてしまったのか。本当に、世界の終わりが来てしまうというのか。波動論教の言っていたことは

正しかったのか。だけど、外宇宙知性体ってなんだ？そんなものがあったとして、どうやって地上をこ

んな風に滅茶苦茶にしたっていうんだ？わからない……加賀美先輩が彼らとどんな関係を持っていたん

だ。

でも……そんな疑問ももはやどうでもいい。

世界が本当に終わってしまうなら……どうすればいい。宮田は……雨笠先輩はどうなっただろう。波動

論教の奴らの手で、壊されてしまったのだろうか。だけど、僕に何をすることができるだろう。無力だ

。あまりにも無力だ。誰ひとり助けることも出来ないし、世界の終わりを止めることも出来ない。僕な

んかに何も出来やしないんだ。だったら、せめて誰よりも大切な人のそばで最期を迎えるくらいしか望

めない。

さゆき……さゆきに会いたい。君は今どこにいる？どこにいるんだ？

 

裏通りから幅の広い道に出たところで、騒音が聞こえてくる。ブロロロロ、と騒音と排ガスをまき散ら

し、一台のバイクが、デコボコの道路を器用に突っ走ってくる。ヘッドライトが僕を照らす。まぶしい

光が目に刺さって、思わず腕で視界を遮る。騒音は、間近で止まった。僕の眼前でバイクが停車し、夜

の闇と同化しそうなくらい黒いジャケットに身を包んだ運転手が、黒いヘルメットを脱いで、顔を見せ

る。

「君が、笹森修一君か」

開口一番、僕の名前を呼んだのは、少年のような顔をしたやや長めの髪の優男だった。痩せてるが長い

四肢を持った青年のようだが、驚くほどあどけないで僕に微笑みかける。彼はいったい誰だ？何故、僕

の名前を知っている？そんなの、答えは決まってるんじゃないか？

「波動論教……か……？」

何とか言葉を絞り出して訊ねる。そうだ。こんな状況で僕を訪ねてくる見知らぬ男なんて、それ以外に

考えられない。だけど、そうであったとしたら……僕はいったいどうなってしまうだろうか。心の中で

、違う答えが返ってくるのを祈っていた。しかし男は、そんな僕の心を見透かしたように微笑むばかり

だった。僕が後ずさりして男を睨むと、男は表情を砕いて子供のように笑顔を浮かべた。

「そう。そうだよ。僕は波動論教だ。波動論教の大預言者。名前は支倉隼人と言う」

僕が後ずさって逃げようと構えると、支倉隼人はバイクにまたがったまま声をかける。

「三角さゆきに会いに行くのかい？」

戦慄が走った。この男は……いや、波動論教は、彼女のことを知っている……？だとすれば、さゆきは

……そう思うと、支倉隼人はこちらの心を読んだように首を横に振った。

「波動論教は君の恋人を捕らえてはいないさ。彼女の存在も調べ上げちゃいない」

支倉隼人は、優しげな顔のままそんなことを言った。そして、声の出ない僕に変わるように、言葉をつ

づけた。

「だったら何故僕が君の恋人を知っているのかっていうんだろう。言っただろ？僕は、波動論教の大預

言者。そして、絶対的な知覚能力を持つ……」

「絶対知覚……？」

僕が息を飲んでいるうちに、支倉隼人はしゃべり始める。

「そう。僕は波動論教の大預言者。今から僕は、君が捕まっていたあの波動論教のビルに向かうところ

だったんだよ。だけど、僕は知っていた。君がビルから脱走を図って、今この場所を歩いているという

ことをね。だから会いに来たんだ」

「何故わかったんだ……電話も通じない、のに……」

「だから、絶対知覚さ。そうだ。僕にはわかるんだよ。信じられないかもしれないけど、それが事実だ

。現在と過去に連なる宇宙のありとあらゆる情報にアクセスし、無限大の情報を得る力……だから僕は

大預言者と呼ばれている」

「……そんなの……」

「先週の水曜日、君は恋人と出かけたみたいだね。街中の公園か……そうか、二人が出会った思い出の

場所だったんだね」

「なっ」

言葉を詰まらせた。悪寒が走る。目の前の優男が、何か恐ろしいものに感じられてくる。

「それからレストランで食事。たわいもない会話をして去った。子供に変なイタズラをされた。それか

ら……そうか、その時僕たち波動論教を知ったんだな」

何故、この男はそんなことを知っているんだ？さも、今初めて知ったかのような素振りで。過去の事実

を、知覚している？

「面白いアイデアじゃないか。水ください。温めでお願いします」

それは、さゆきと出会った時の、あの思い出の台詞だった。

「……なっ、なんでそんなこと……知ってるんだ」

震えながら問いかける。そうだ。その台詞は、僕とさゆきの二人の思い出だ。誰かに話したことはない

はずだし、あの公園でも周りで聞き耳を立てている人なんていなかったはずだ。何故、この男はそれを

知っていると言うんだ。

「言っただろう？絶対知覚だよ。もっと遡ろうか。先週の火曜には、君の友達と先輩とで喫茶店で会議

していたみたいだね。その二日前に、加賀美咲江と会って色々話をしたんだね。その前日にも、君は恋

人と一緒に海まで行った。眠っていたのを起こしてもらったんだね。海が凝縮して人間になった、か。

なるほど面白いことを言う人じゃないか」

目の前の男の言葉は全て当たっていた。僕が初めて波動論教に接触したのは、さゆきと一緒に街を歩い

た時だし、実際に波動論教に目をつけられたのは、槇島草太に会った日のことだろう。きっと槇島が僕

らの情報を流したに違いない。それ以外に、波動論教が僕らをつけ狙う理由などないはずだ。だが、目

の前の男は、その時点より遡って僕の行動を逐一把握している……しかも、他人が知り得ないはずのこ

とまでも知って……

「ごめん。あんまり趣味の良いやり方じゃなかったな。だけど、信じてもらえたと思う。僕は、過去に

遡ってあらゆる情報を知覚できる。光速度限界によるタイムラグがほとんど生じない圏内なら、遠く離

れた場所でも、何が起こってるか大体わかる。自分との関わりの薄い世界であれば、それなりに集中す

る必要はあるけどね。でも、これはそんなに特別なことじゃないんだ。君だって見てるんじゃないか？

過去の宇宙の記憶を」

「僕の、前世……」

支倉隼人は頷く。

「僕の力は、それを拡張し、コントロール出来るようにしただけさ」

「本当に、絶対的な知覚能力を持っているのか」

認めたくはなかったが、本当にそんな力があるということを受け入れざるを得なかった。目の前の、子

どものようにあどけなく笑っている男が、そんな力を持っているということを。

支倉隼人は、やや視線を斜めに落として、突然やや陰のある表情を作る。

「そうだ。波動論教のセラピーが、前世への目覚めを強いるのは、この能力を開発するためでもあった

。宇宙の全ての情報にアクセスし、世界を、全てを掌握することのできる力を。だけど実際には、僕以

外にこんな力を持っている人間なんていないんだ。みんな自我を崩壊させてしまった。だけど、波動論

教の幹部たちはそれでもいいと思っている。新しい自我を植え付けて、自分たちの手駒に出来ればどっ

ちみち損はない……そんな風に彼らは思っている」

その口ぶりに、少し怒りがわいてしまう。

「お前は違うとでもいうのか。同じ波動論教の人間のくせに」

支倉は寂しげにふっと笑う。

「その通りだよ。僕も同罪だ。自我を崩壊させれば、精神としての主軸が失われて、目覚めたはずの前

世の記憶すら失ってしまう。それじゃ無意味だ。僕たちは間違っていたんだ」

「……僕を捕らえに来たんじゃないのか」

疑問が口をついて出る。波動論教は、逃げ出した僕を捕らえようとしているはずじゃないのか。だけど

、目の前の男は、そんな素振りを見せずに話を続けていたのだ。よくわからない男だ。僕の言に、支倉

は口元だけで笑みを浮かべ、答える。

「僕は君を捕らえない。僕は君に興味があった。だから、例のビルに向かう前に会って話をしたいと思

っていたんだ」

「僕に興味を？」

ますます目の前の男が何を考えているのか分からなくなった。支倉は笑う。

「君は何か違うものを持っているんだよ。なんというか……僕自身に近しいものを感じた。そして実際

、君は前世の記憶を見て、それでもなお自我を保って、しまいにはこうやって波動論教の手から逃げて

きた。それで十分だ。君の精神に、興味があったんだ。なあ、君の一番新しい前世は、どんな世界だっ

た？」

「……どういうことだ」

「例えば、それが過去の記憶だけじゃないとしたら」

「……未来の、記憶……？」

そうだ。僕は見たのだ。遥か未来の、前世の記憶を。何故、未来の記憶が自分の中にあると言うんだ。

目の前の男はそれを知っているのか？疑問が堰を切って出てくる。

「そうだよ、なんで未来の記憶があるんだ？槇島が言っていた通りなら、宇宙の過去の情報しかアクセ

スすることはできないはずだ。なのに、なんで未来のことまでも僕は知ってしまったんだ？」

「やはり君は未来の記憶を見たのか」

支倉は言う。僕は頷く。

「そうか。だったら、楽園を見なかったか？僕たちの宇宙の、上位にあるような世界。そこでは、宇宙

が無限に、波が寄せては返すように生まれては消えていったはずだ」

なんとなく思い出す。そうだ……クロスホエン、エクスタシア……記憶の彼方で、ほんの僅かに見えた

世界……あれは何だったのだろう。どうして宇宙の上に世界が存在しうるんだ？森羅万象は宇宙の中に

しか存在しえないのではないか？

「君の言いたいことはわかるよ。でも、とにかく宇宙の上に、情報を集積し、生まれた宇宙の情報と交

信する……そういう世界があると思えばいい。その世界の下で、宇宙は無限に繰り返し、巡っているん

だよ。そこに至っては、過去も未来も等価なんだ。宇宙が生まれては滅んでいく程度の、とてつもなく

長いはずの時間すら、無意味になってしまうほどにね」

「……意味がよくわからない」

「まあ、それはそういうものだと思ってくれればいい。それより、未来の記憶を持ってしまったのであ

れば……宇宙の中で最も重要なものの存在を、知っているか？」

「それは……」

頭の中で古竜の言葉が蘇る。宇宙における絶対価値。それは、いったいどんなものだっただろう。

「思考する箱……」

支倉隼人が呟いたその言葉を聞いた途端、胸がざわめいた。思考する箱？どこかでそんな言葉を聞いた

ような気がする。だけど、どこで聞いただろう。思考する箱とは、いったい何のことだ？疑問に思って

いる間に、支倉隼人が話を続ける。

「槇島草太は面白いことを言っていただろう？宇宙が一つ繋がりの精神であり、情報のストリームが世

界を構成しているのだと。さらに、彼はもっと面白いことを言っていたよ。それはこんなことだ。宇宙

は情報のストリームで出来ている。だが、その情報のストリームが局所的に集中すると、それは気圧の

差で風が渦を巻くみたいに、その内部にポケットのような部分が生まれる。つまりそれは、情報特異点

だ。情報のストリームが生み出す圧力により、情報特異点の中には、外部の様々な情報が蓄積する。宇

宙の中のあらゆるものは、他のあらゆるものの影響を受けながら存在している。その影響が、歪みが、

情報特異点の中に蓄積していく。そしてそれは、宇宙の全てがそれぞれの情報特異点の中に記録される

と言うことだ。それでいながら、それぞれの情報特異点は、少しずつ違う内的世界を構築していくんだ

。その情報特異点は、小さいところでは物質素粒子として、大きいものではブラックホールとして……

そして、情報のストリームが集中する、人間の思考の中にも存在するんだ。その特異点を持つことによ

って、一つ一つの精神の尊厳、優位性が保たれる。誰とも違う、自分自身の世界を持つことができる。

それは思考する箱。それは宇宙の中にパラドックスを引き起こす力。ゆえに、パラドボックスと言う」

「パラドボックス……」

僕はその言葉を知っていた。それは、あの古竜が言っていた、宇宙の中で最も重要なことだった。記憶

の中で、古竜は確かに言っていた。パラドボックスとは、自分の精神、自分の存在を規定する力なのだ

。だからこそそれは何ものにも代えがたい、最も崇敬すべき存在なのだと……

「やはり君は、パラドボックスを知っていたみたいだね。面白いじゃないか。未来の記憶がそれを見せ

たんだろう？」

「そうだ……銀河先史文明の末裔が言っていた」

僕が答えると、支倉隼人は不思議そうな顔をした。

「銀河先史文明？なんだいそれ」

「知らないのか？」

僕が問うと。支倉隼人は頷いた。

「僕は全てを知っているわけじゃないよ。自分の知ろうとしたことしか知ることはできない。手掛かり

の無いものを完全に知ることは出来ない。僕も所詮は、人間さ。知っていることは……人間の中に、何

か重要な力が眠っているということだ。それが、自分だけの宇宙を作りだす力……パラドボックスだっ

てことだよ」

それを聞いて、僕は気付く。昔、それと同じような言葉を聞いたことがある。どうして気付かなかった

のか。それは、彼女の最後の言葉だった。

「……加賀美先輩は言っていた……宇宙の全てが人間の無意識の中に刻まれていると。自分の宇宙を自

分の中に持っていると……結局、先輩の言っていたことは、全部真実だったっていうのか」

「そうだね。だからこそ彼女は、波動論教にとっても重大な存在になり得たわけだ」

ハッとする。そう言えば、波動論教は加賀美先輩を敵だと言っていた。外宇宙知性体と関わりがあるだ

の何だのと。

「お前たちと加賀美先輩はいったいどういう関係なんだ……？加賀美先輩は、まだ生きて存在している

のか！？」

僕が問い詰めると、支倉隼人は顔を横にはずし、どこか遠いところを見ているような眼をした。その横

顔は、妙に寂しげでもあった。そんな目をしながら、彼はゆっくりと語り始める。

「……ちょっと話をしようか。昔話だ。そう、僕の持つ力についてだ。結局僕は、パラドボックスから

情報を引き出しているにすぎないんだろう。だけど、その力を得るまでには、それなりにきっかけがあ

ったんだよ」

目の前の男が何を話したがっているのか、よくわからなかった。その話は加賀美先輩と関係があるのだ

ろうか。だけど、支倉隼人は有無を言わさないような空気で、それでいて妙に優しげな声で語り始めた

。僕はとりあえず話を聞く。

「僕が今より幼かった頃、僕は心臓疾患を患っていたんだ。命にかかわる重大なものでね、随分苦しめ

られたものだ。結局、家族が多大な借金を負ってでも、海外で心臓移植を行うことになった。何とかド

ナーも見つかって、手術は成功して、僕は何とか一命をとりとめた。誰か他の人間の心臓が自分の中で

、自分の命を保ってくれるんだ。感謝したよ。名前も顔も知らないその人のことを考え、感謝し、冥福

を祈っていた。だけど、話はそれだけで終わらなかった。君も聞いたことがないかい？心臓を移植され

た人間が、移植元の人間の記憶に触れることがあると」

僕は頷く。

「確かに、そういう話はたまに見かける。テレビなんかでやっている話だ。だけど、それが本当だった

とでも？」

「その通りだよ。移植元の人間の記憶が僕の意識の中に流れ込んでくるんだ。どんな家庭に生まれ、ど

んな環境で育っていたのか……僕に心臓をくれた人の記憶を、僕は思い出すようになっていたんだ。し

ばらく後で、何とかその人のことを調べてみた。全て僕の中の記憶に一致していたよ。名前も、顔も、

彼がどんなふうに事故に巻き込まれて脳死状態になったかも……全てだ。僕はとても不思議だった。人

間の意識は、その精神は、脳の中に存在するはずだ。だけど、心臓を移植されたことで、僕の中に他の

人の記憶が流れ込む……僕はその原因について色々考えた。自分を試そうとした。結果として、人間の

意識は人間の脳の中にだけ存在するものではないとわかったんだ」

「肉体が意識を持っていると？」

「それは半分くらい正解だ。肉体は、宇宙の全ての現象に影響されながら構築される。肉体自体を構成

する物質にも、宇宙情報記憶が眠っているとは言える……だが、僕をこの力に目覚めさせたのは、もっ

と大きな現象だ。心臓とは、人間の肉体を構成する要素の中でも屈指の重大さを持っている。心臓が肉

体に血液を送りださなければ、人は生きていけない。脳ですら、多少損傷しても生命活動が維持できる

ことはある。だけど、心臓が機能しなくなったら生きていけない。そして、心臓とは、人間という存在

の中で、常に血液を波打たせ循環させるという、一番大きな波動現象を担っていると言える。波動論教

の講義では、人間もまた波動によって構成されている存在だと言っていただろう？心臓が、人間の波動

存在としての性質を定義する一端を担ってるんだよ。そしてそれは、槇島草太の言うところの、情報の

タグのようなものでもある。それは、人がそれぞれ違うものとして持っている、自分に関連付けられる

情報のタグ。固有の周波数や、波形のようなものと言ってもいい。僕は、もともと持っていた自分の意

識に加えて、新しい心臓を得ることによって、宇宙の情報ストリームから得られる情報のタグの種類が

増えたんだ。本当はもっと複雑なんだろうが、簡単にいえばそういうことだよ。他者の心臓と言う手掛

かりを得ることで、一つ繋ぎの宇宙の中から、自分以外の人間の持っていた情報を得ることができるよ

うになった……僕はいつからかそういうことを考えるようになった。そして、その力を自分自身の意思

で、もっと拡張していけるのだと言うことも……わかってしまったのさ」

「……それで、絶対知覚っていうのか」

「そういうことだ。僕は自分の能力を開発しつくした。自分の意思によって、得られる情報のタグの幅

を増やすことが出来るようになっていった。この力は特別なものだから、悪用しようと思えばいろんな

ことが出来たよ。でも僕は、自分の力を有効に使いたかったんだ。そのうち、僕は波動論教と出会った

。自分の考えた理屈と、どこか共感しうるものがあったんだ。そして、僕は波動論教に拾われた。彼ら

の手伝いをする中で、僕らの考えをいろんな人に知ってもらい、僕と同じ力を他の人にも目覚めさせた

いと思った。善意のつもりだったんだ。それからいろんなことをやらされた。あまり綺麗じゃないこと

でも、世の中のために仕方ないと思っていた。家族の借金の返済もあったから、多大な金を生み出す波

動論教の仕事を断るわけにもいかなかった。それでも、胸の中は疑問でいっぱいになっていった。僕は

間違ってるんじゃないかって。新たな信者を違法に誘致し、薬や催眠で人格を破壊する……政財界に脅

迫や裏取引でコネを作り、その規模をどんどん肥大化させていく。こんなこと、許されるのだろうか…

…それでも、自分は間違っていないと必死に言い聞かせた。ある女性に出会うまでは」

「ある女性……？」

「空の彼方に意識を飛ばせているうちに、僕は出会ったんだ。それはとても綺麗な魂そのものだった。

彼女らに出会ったことで、僕は眼を覚まさせられたよ。そうだ。今の波動論教は暴走している。この世

界は今……見ての通り、滅びに瀕している」

支倉隼人はあたりを見回して言う。暗い夜空の下、瓦礫の山と変わってしまった街をだ。支倉は、強い

口調で言葉を続ける。

「そうだ。何故、この世界は滅んでしまった？この世界を滅ぼしたのは、外宇宙知性体か？それとも、

波動論教か？」

「なんだって？」思わず聞き返す。「……波動論教が、世界を滅ぼした？」

支倉隼人は首を横に振る。

「僕にも、それはまだわからない。この宇宙の彼方から干渉してくる何らかの力が存在するのは確かだ

。だけど、その正体は……わからないんだよ。あまりにも複雑な力が絡み過ぎているんだ。だけど、世

界は確実に変わってしまった。滅んでしまった世界の中で、これから僕らはどうすればいいのか。せめ

て僕は、自分の責任を果たさなくちゃいけないと思っている。君はどうする？」

まっすぐな視線で射抜かれる。支倉隼人は、いったい何をしようとしているのだろうか。波動論教の幹

部のくせに、まるで波動論教にあだなすつもりのような口ぶりだったし、その瞳はあまりにまっすぐだ

った。そして、その眼が見つめる先の僕は……いったい何をすればいいと言うんだ。

答えられないまま黙ってると、支倉隼人は再びヘルメットをかぶりながら言った。

「君は、きっとあの波動論教のビルに戻ってくると思うよ」

「なんだよ、それ……意味がわからないよ。僕がどうするって？どうすればいいって？それは、お前の

予言なのか？」

わけがわからなくなって言葉を返すと、支倉隼人はメットを開けて言った。

「違う。予言じゃないよ。ただ、なんとなくそんな気がするんだ。僕と君は、なんとなく似ているよう

な気がしたんだよ。だから、いろんなことを伝えておきたかったんだ。そうすることで……」

「そうすることで、なんだよ」

そう問うと、支倉は言葉をふさいで、顔をそらした。

「いや、なんでもない。最後に一つ言っておく」

支倉はバイクにまたがったまま、再びこちらを射抜く瞳で見据えてきた。

「君は、未来の記憶を持っているかもしれない。それは、確かな記憶だよ。だけど、それでも、僕らの

未来はいまだ不確定なんだ。それを覚えておくと良い」

そう言って支倉隼人はメットを戻し、バイクのエンジンをかけ、暗い夜空の下のデコボコな道路を、騒

音とともに走り去っていった。

「なんだよ、それ……」

支倉隼人は風のように現れ、風のように去っていった。数々の理不尽な言葉ばかりを残して……僕は、

ただただ混乱させられるばかりだった。結局、加賀美先輩の行方も、何故世界が滅びたのかも、外宇宙

知性体とは何なのかも、それらのことと『思考する箱』に何の関係があるのかも……全てわからないま

まだ。彼は、僕が波動論教のビルに戻るだろうと言っていたが、僕一人があそこに戻ることで、何が出

来るというんだ？僕ごときの力じゃ、誰を救うことも出来やしない。誰かを救いたくても……出来やし

ないんだ……

 

滅茶苦茶になった街は、全く違う世界と化していた。僕の家がどこにあるのか、さゆきが今どこにいる

のか、そもそも僕が今どこにいるのかすらあやふやだった。それでも、たださゆきを求めて、僕は街の

残骸をさまよった。それしか出来なかった。さゆきの家はどちらの方だろう。わからない。そもそも、

さゆきはどこに住んでいたのだろうか？恋人じゃないか。知っているはず……なのに、頭に浮かんでこ

ない。どうしてだろう。頭が混乱している。どうしてだろう……

人の声が聞こえる。いくつかの声が慌ただしい様子で何かを叫んでいる。何だろう。何を言ってるんだ

ろう。まあいいか。僕にはもう関係なんてないんだ……

誰かに呼びかける声が聞こえる。ちょっと、待って、待ちなさい。聞いてるの――誰の声だろう。うる

さいな。静かにしてよ。僕には関係ないんだ……

目の前に中年の女性が現れる。そして、僕の両肩をその手で掴んで、大声を出した。

「ねえ、待ちなさいって！あなた大丈夫？怪我してないでしょ？だったらあなたも手伝いなさい！」

「え？」

間抜けな声が漏れた。ああ、そうか。この人は、ずっと僕に呼びかけてたんだ。でも、どうして……思

っているうちに、肩をガクガクと揺さぶられる。

「ぼうっとしてないで。この大災害でみんな大変なことになってるのよ。あなたも救助するのに手を貸

して！」

「助ける……救助する……僕が？」

「何言ってるの。そう言ってるじゃないの」

中年女性は両手でペシッと僕の頬を叩く。

「崩れた家の中を見回って。助けを求めてる人がいたら、なんとしてでも助けるの。いい？一刻を争う

ような人ばかりなのよ。しっかりしなさい！」

「あ、はい……」

生返事をすると、今度は背中を思いっきり叩かれた。

「じゃあ頼んだよ。しっかりね」

そう言って女性は駆けていった。その腕や脚は服は、汗と泥にまみれていた。彼女は、この災害に巻き

込まれた者たちを救助して回っているのだろう。活発そうに動き回って、時折何かを叫んで、他の動け

る人たちと一緒に、瓦礫の山を掘り返したり、怪我をした人を運んだりしている。

……いけない、このままじゃ。

そうだ。みんな頑張ってる。助け合おうとしている。誰かを生かし、生きようとしている。こんな世界

の終わりのような災害を迎えても……ならば、僕も何かをしなくちゃいけないじゃないか。誰かを助け

られるかわからないけど……何もしないよりは少しはマシかもしれない……

 

僕は、崩れた街を巡って、救助が必要な人を探して回った。崩れた家屋の下に下敷きになったり、挟ま

れて動けなくなった人を見つけようとする。僕には碌に手当てすら出来ないけど……せめて、何か出来

ることだけでも頑張らなければいけない……そう思った。

何人か、建物の中に取り残された人の肩を担ぎ、外の道に出て寝かせていく。他の動ける人を大声で呼

び、救急箱を持っている人たちに手当てを任せる。普段使わない筋力を使って、体が疲労していく。だ

けど、立ち止まっているわけにはいかなかった。何もしないでいると、すぐにネガティブな感情に支配

される。悪い未来の想像図を振り払うみたいに、ただ必死で街の中を駆けずり回った。

 

元は住宅街だったであろう街の、二階建の一軒家を調べる。一階と二階の間の部分から大きく亀裂が入

り、一階部分は完全に潰れてしまっている。むき出しの壁の中のコンクリートがボロボロに崩れ、二階

部分もその屋根は酷い衝撃にさらされたみたいにそげ落ち、家を支える鉄の梁がむき出しになったまま

折れ曲がり、かろうじて半分くらいだけは元のように残っていた。屋根が抜けて、扉が外に倒れている

、かつて玄関だったであろう場所から、家の残骸の中に足を踏み入れる。

「誰か、誰か逃げ遅れてはいませんか！？」

大声を出しながら、救助を必要としている人を探して回る。今までいくつもの家屋を捜索してきたが、

そのほとんどで、救助を必要としている人は見つからなかった。もうすでに、死んでしまった人の屍が

家屋の下敷きに残るばかりで、まだ生きている人の方が稀だったのだ。それでも、生きている人だって

いる。僕らの街が崩壊してしまったとしても、少しでも多くの人を助けなければ……人がいなければ、

街を復旧させることだって出来ない。そんなことが可能なのかどうかは、わからないけど……目の前で

みすみす人を死なせてしまうなんて、そんな自分は許せなかった。だから、必死で叫んで、人を探す。

「誰か、誰かいませんかー！」

「う……あ」

ビクリと体が堅くなる。自分の叫び声で一瞬聞こえなくなりそうだったが、今、確かに、どこからか人

の声が聞こえた。

「大丈夫ですか！？どこにいるんですか！？」

「こ、こ、こ……」

かすかに聞こえる幼い声は、すぐ近くの、家の壁と支柱が倒れた山の下から響いていた。

「しっかりしてください！今、助けます！」

僕は何とか、瓦礫の山をどかそうとする。重たいコンクリートの詰まった壁を力一杯に押しのけて、上

に乗っている瓦礫を遠のける。急いでその作業を続けると、大きな柱の下敷きになって、下半身を挟ま

れている少女の姿がようやく見える。

「う、あ……」

「頑張って、今助けるから！」

僕は大きな柱をどかそうとする。だけど、それは少し上に動く程度で、何かに引っかかってるみたいで

、中々どかすことは出来ない。

「誰かあー！！手伝ってください！人が挟まれてます！」

柱を持つ手に力を込めながら、精一杯叫ぶ。柱は少しだけ持ちあがる。だけど、僕一人じゃ柱を支えな

がら少女の体を引きずり出すことは出来なかった。自分にもう少し体力があれば、何とか出来たのだろ

うか。そもそも、誰かを救うためにこんなに必死になったことなんて、たぶん今までなかった。どうし

てこんなことをしてるんだろう。汗と煤と汚れにまみれて、なんで僕は頑張ってるんだろう。今まで、

こんなことなかったのに。でも、目に映るこれが現実だ。テレビの中でしか起こらないことなんかじゃ

ないんだ。いつだって世界が変わってしまう可能性くらいあったのかもしれない。その原因が何かなん

て関係ない。都会に暮らして、大人っぽくなろうって気取って生活してみたところで、何も変わらない

。僕は弱いままなんだ。だけど、それでも僕は、目の前で人が死んでいくのが……許せなかったんだ。

それだけで十分だ……

ふいに柱が、ぐいと持ちあがる。

「大丈夫？頑張って」

見れば、隣であの中年女性が、僕の隣で柱を持ちあげている。普通にしていればそれなりに気品もあっ

ただろうその顔を、煤と汗に汚して、頑張っている。たぶん、それは僕も同じだ……僕は、一人じゃな

いんだ。

「あ、ありがとうございますっ……」

女性はふっと笑う。

「そんなのどうだっていいから、あの女の子を引っ張り出して。頑張って支えるから。ほら、１、２、

３っ」

グイッと柱が持ち上がり、僕は急いで、下敷きになった少女の体を引っ張り出した。腕を支えて、足を

引きずらせてでも、とにかく渾身の力で、抱きかかえる。その足が完全に抜けるのと、柱が音を立てて

落ちてくるのは、ほぼ同時だった。中年の女性は、へたり込んで肩で息をしている。

「間一髪ね……」

中年女性が振り返って笑う。僕も笑みを返す。

「そうですね。でも、助けられた」

僕の腕の中にいる少女を見る。息はしているが、酷くぐったりとしている。寝巻に包まれた体も、随分

と冷えている。

「大変だ、どこかに寝かせないと……」

僕が言うと、中年女性も少女の体を触り、状態を見る。

「随分衰弱してる……そうね、心当たりがあるわ。ついてきて。えーと」

「笹森修一です」

「そう。私は五十嵐晴美。修一君、彼女を背負ってこれる？」

「大丈夫、だと思います」

僕は少女を背中に抱え直す。中学生くらいの少女の体重とはいっても、さすがに軽くはなかったが、そ

れでも振り落としたりしないように、しっかりと抱えて立ち上がった。

 

「しっかり、しっかり、もうちょっとだから」

「あ……う」

後ろに抱える少女に呼びかけながら、歩みを進める。先導されてたどり着いたのは、他と比べれば割合

崩れていない民家だ。二階の屋根は吹き飛んでるし、玄関先の廊下は外から見えている。だけど、奥の

方はちゃんと部屋が残っているようだった。吹きさらしの玄関を抜けて、屋根のある広間に出ると、一

人の老人が椅子に腰かけていた。右足には包帯が巻かれていて、骨折したのを治療するためか、添え木

のようなものが固定されている。

「その奥の部屋ですよ」

老人が言うと、五十嵐晴美が先導して、廊下の先の部屋の扉を開けた。少女を背負って歩いたのはせい

ぜい百数十メートルと言ったところなのだろうが、僕の体力は限界だった。何とか部屋の中に入り、綺

麗に整っているベッドに少女をおろした。座り込むと、五十嵐晴美が救急箱を持ってきて、少女の足元

の傷の手当てを始める。彼女は僕に部屋を出ていってくれと言った。重い体を引きずって部屋を出る。

彼女は、背後から僕にこう言った。

「御苦労さま。もう休んだ方がいいわよ」

「……わかりました」

本当はまだ誰か助けなければいけない人がいるのだろうが、僕自身ももう限界が近かった。足を引きず

るみたいに重い足取りで、何とか広い居間まで歩く。そこには、例の老人がいる。７０前後位に見える

、白髪の男性だ。

「こんばんは……」

挨拶すると、老人はにこりと笑ったようだった。

「ええ、こんばんは」

老人は、座っている椅子の傍らのテーブルの上にあるスタンドライトを操作した。カチカチと音がする

が、電気はつかない。

「電気が死んでるんですか」

「そうですね。水道も、ガスも止まってるみたいですね」

僕が聞くと、老人は淡々と言った。いや、少し悲しそうな顔にも見えた。だけどすぐさま、感情を振り

払ったみたいににっこりと笑った。

「こんな暗い中で、沢山の人を助けてくれてありがとう。感謝します」

「え、いや、別に僕は……」

面と向かってそんなこと言われても、ちょっと困ってしまう。仕方ないので笑ってごまかした。老人が

言った通り、あたりは暗く、電気も死んでいる。だけど、気がつけば、星の光だけは妙に眩しく照らし

てくれている。不気味なくらい星の光が夜空に映えて、暗くても何とか状況はわかるようだった。目も

暗さに慣れて、何とかしっかり見えている。だけど、それはむしろ不気味な気分だった。夜空の星々が

、この地球に迫ってきたみたいに……都会の淀んだ空気が突然に入れ替わってしまったみたいに……不

思議な光景だった。居間の隅から見える、抜け落ちた天井の先の夜空を見つめて、つい物思いにふけっ

てしまっていた。いけない、と思って、老人の方を見る。

「えっと……あ、僕は笹森修一って言います」

「そうですか。ぼくは、田辺健造と言います」

どうもよろしくお願いしますと、頭を下げてきたので、僕もつい頭に手をやって、照れたみたいに頭を

下げた。

「この家は田辺さんの？」

「ええ、そうです。妻に先立たれてからは広すぎる家でした」

「あ、すみません……」

悪いことを聞いてしまったかと思い、詫びる。だが、田辺健造は気にしてない風に言った。

「いいんです。突然家が崩れ落ちて……壊れてしまった時は、妻との思い出も壊されたみたいで悲しか

ったけれど……幸いなことに、他の誰かを助けるために使うことが出来ました。あの少女を必死で運ん

できたきみは……立派なものでしたよ」

そんなことを言われたのは初めてだったかもしれない。面と向かって立派だなんて。生きていれば、失

敗したり間違えたりすることばかりで、恥をかくことばかりだったというのに。つい、舞い上がってし

まいそうになる。

「いや、そんなことないです……それなら、五十嵐さんの方が立派ですよ」

「あの女性ですね。あの人も良い方だ。崩れた天井の下敷きになったぼくを助けてくれました」

「あ、じゃあその足の手当てもあの人が？」

「ええ。優しく手当てしてくれました」

五十嵐晴美のことを考える。あんなふうに、ボロボロに汚れてでも、必死で何かをしようとしている。

自分に出来ることを、精一杯やろうとしている。

「あの人はすごいです。いきなり街がこんな風に変わってしまって……ぼんやりとしていた僕を叱咤し

てくれて……みんなを助けて回って……凄いですよ。僕はあの人に動かされたにすぎない。立派なのは

あの人の方だ」

「それでも、きみも立派にやっていましたよ。それは、誰に突き動かされた結果であろうが、きみ自身

が選択し、選びとった結果です」

「……そうでしょうか」

「そうですよ」

僕は少し考え込んだ。僕は、何かを選びとったのだろうか。周りに突き動かされただけだったはずなの

に……いつの間にか、必死になっていた。そうだ。誰かに動かされたとしても、何もしないままよりは

、きっとマシだっただろう。少しは自分自身の行動に、満足出来る結果になったかもしれない。

……でも。そう、記憶が蘇る。僕の親友である……宮田健次……大切な先輩だったはずの……雨笠千代

子……僕は、誰かを見捨ててここにいるのだ。それを忘れるために、目の前のことに必死になったのか

もしれない。僕の行動が間違っていたとは思えない。それで誰かを救えたなら。だけど、代わりに何か

を犠牲にしている。それは、絶対に正しいとは思えなかった。

波動論教は、いったい何をしたのだろう。今度は支倉隼人の顔が思い浮かぶ。彼は、波動論教が世界を

滅ぼしたかもしれないと言っていた。だとすれば、いったいどんな手段を用いて？だが、同時に彼は、

宇宙のどこかから干渉してくる力が存在するとも言っていた……そう言えば、加賀美先輩……あの時見

た、世界中が見た、メッセンジャーの一件も……宇宙からのメッセージかもしれないなんて、雨笠先輩

も言っていたような気がする……外宇宙知性体……

夜空に煌く満面の星たちが追い迫ってくるみたいで、なんだか少し怖くなった。

「なんでこの街は……いや、もしかしたら世界の全てが……こんな風になってしまったんでしょうね」

僕が言うと、田辺健造も、困ったような顔になった。

「何故なのでしょうね。地震でもないし、台風でもない。何故世界はこんな風に変わってしまったので

しょうね。まるで、今までのことが夢だったみたいに。ぼくたちが生きていく未来の可能性が、突然に

閉ざされてしまったみたいに……」

「……可能性が？」

「だけど、どんな運命だとしても、それを閉ざしてはいけません。きみみたいな若い人たちが、何とか

世界を復興させなくては……死んでいくのは、老人だけで十分です。ぼくの子供も、孫たちも……今も

元気に生きていればいいのですが……」

そう言う田辺健造の顔は、少し辛そうだった。僕は何も言うことができず、押し黙るしかなかった。夜

空を見上げ、崩れてしまったこの世界の未来を思う。この先、僕らはいったいどうなってしまうのか…

…ネガティブな思いばかりが浮かぶ。不安は止められなかった。けど、必死でそれらに押しつぶされな

いように気を張る。そうだ。どんなに絶望的に思えても、自分の心で未来を閉ざしてしまっては、いけ

ない。

色々考えてると、背後のドアが開き、五十嵐晴美が出てきた。少女を手当てするのは終わり、とりあえ

ずは大丈夫だろう、と言った。

「足はたぶん複雑骨折してるわ。他の外傷も、手当てはしたけど万全じゃない。内側の怪我も心配だし

……少し体が弱ってる。早く病院で手当てできなければ、まずいことになるかもしれない。街の外に連

絡を取らなくちゃ……ラジオや通信手段を探してみるつもりよ」

「じゃあ、僕も……」

言いかけるが、五十嵐晴美は頭を振った。

「あなたはまだ疲れてるでしょ？一応、彼女を見ていてくれない？容体が悪くなったら、周りの人を呼

んで、何とかしてあげて。まあたぶんしばらくは大丈夫だろうし、彼女を寝かしつけたら、あなたも眠

って構わないから」

「五十嵐さんも疲れてるんじゃ？」

「大丈夫。もうちょっと頑張ってから眠るわ。彼女を頼んだからね」

「……はい」

五十嵐晴美は、家を出ようとする。その後ろ姿に、頑張って、と田辺健造が声をかけた。振り返り、あ

りがとうございます、と強く返事をしてから、五十嵐晴美は駆けていった。