Victo-Epeso’s diary

THE 科学究極 個人徹萼 [CherinosBorges Tell‘A‘Bout] ノーベルノークスクラム賞狙い 右上Profileより特記事項アリ〼

思念[時間考-相対論の誤謬]

時間の流れとは、物質の運動がもたらす作用にすぎない。

相対性理論は、光速度がどのような観測者にとっても同一でしかありえないと示唆した。
しかしながら、それはとても御幣を生むような説明であると言える。

時間の流れというものが観測者によって同一ではないという前提を元にしているから、
絶対的な基準を求めることができず、イメージがつかみにくくなっているに過ぎない。

絶対的な基準と言うものを作って考えてみればいいのだ。
光速度cは不変である。これをまず前提として、観測者Aの光子bに対する速度を求め、流れる時間の偏差を求める。
その上で、我々は光子bと観測者Aとの間における時空を、俯瞰するように眺める事が出来るとする。

ここで我々自身のことを絶対観測者と呼ぶ。
絶対観測者は、あらゆる運動速度が0であり、また、宇宙の全ての情報を瞬時にして把握できるものとする。

観測者Aが光子bに対して70%の速度で同方向に運動しているとする。
このとき我々が、Aから見たbの相対的な速さを想像すると、光速度cの30%になるはずである。
ところが、相対性理論は、「そうではない。光速度はどんなものから見ても光速度なのだ」と説明する。
しかし絶対観測者から見た実際の運動の速さの差は、まさに30%にしかならないのである。

Aがbを観測するとき、30%の速さが100%に見えるというのは、A自身の時間の流れが遅れているからである。
本来30%にしか見えないはずのものが、A自身の認識の遅れにより、主観的に100%に見える。それだけのことである。
絶対的な視点により、宇宙を客観的に見た場合、光速度は「系によって可変に認識される」ものと言う事になる。

問題はその時間偏差が、宇宙内の主観的存在には、どうあがいても把握できないということだ。
絶対的視点を持って自身の状態を、運動量を正しく認識できる存在はあり得ないだろう。
故に、アインシュタインは時空と言う概念を打ち出し、観測者と空間状態をそのものとして結びつけたのだろう。

だが待ってほしい。
相対論以前の人間は、3次元空間内の事象を時系列を持って想起するとき、頭の中で4次元時空をイメージしていたはずだ。
空間状態によって可変ではない、絶対的なタイムラインをイメージしていたはずだ。

相対論後の科学は、可変なタイムラインを持つだけの、4次元時空で思考停止してはいないだろうか?
その4次元時空に、絶対的タイムラインをもう一つ追加して考えてみればいい。

宇宙の始まりの時をビッグバンとするならば、その始まりの時、原点においては、
時間軸のむらと言うものは存在しなかったのではないか。物質が生まれ、時空が歪んだことで、流れる時間の差が発生する。
もしもその時点から、歪んだ時間軸をも含めて、全体の時空を俯瞰することのできるタイムラインを敷いて考えてみたら……
そう、宇宙には「現在」と言う名の一瞬だけが存在し続けることがわかるだろう。
宇宙内部の主観的存在からすれば、時間は常に不平等のようにも思えるかもしれないが。