Victo-Epeso’s diary

THE 科学究極 個人徹萼 [CherinosBorges Tell‘A‘Bout] ノーベルノークスクラム賞狙い 右上Profileより特記事項アリ〼

Total Break Through - トータルブレイクスルー [reeling earth 1/3]

Total Break Through - トータルブレイクスルー



reeling earth - リーリングアース - リリアス

ノアは……<コア>世界と融合している。全ての精神細胞膜を破り統一された集合精神において、
<コア>世界は全ての中心となった。ゆえに……それ自体に融合したノアは、集合精神の祖となった。



>>basis_0 ノアの望んだ世界
アダムは柔らかい腐葉土を踏みしめて歩き、高く聳える木々の隙間から零れた柔らかい光が彼の体を照
らした。
(これは錯覚に過ぎない。誰がこの陽をイメージした?)
理解している。しかし、この世界の創造主が――<ルーラー>が――何を思ってそれを構築したのか。そ
れを知るにはまだコミュニケーションをとるための時間が要る。だがそれもどうでもいいことだし、そ
のための時間を費やすには計画を後回しにさせることになる。それほどの意味があるのだろうか?
(いや、いずれにせよそれを知ることにはなる。私の思い描いた理想が現実になるとき、それは当然の
帰結として収束されることになる)
生い茂る木々の中、彼は枝葉を掻き分けて獣道を進む。静かなメロディが森の中に反響している。
(この世界の意味だって本当はどこにもない。もっとも、それはあらゆる世界において言えることだろ
うが、彼はそれを知っているのだろうか……)
「知っているさ、アダム」
その言葉を放った彼は、木々が開けた丸太の上に腰掛け、横笛を手にしていた。
「――もっとも、反対の意味だ」
と言い、肩をすくめた。
「久しぶり、ノア」
と声に出し、
「こうして言葉にすることすら無意味だという事を知っている」
と言った彼は目を閉じた。少し間をおいて、
「どうして表に出ようとしない……」
アダムの言葉に目を見開き、顔をしかめ、
「何を望むって言うんだいっ。それが何より無意味だということを君自身も良く知ってるだろ……」
「君は反対の意味だと言った」
彼は引きつった笑顔で、
「ああ、そうだよ。無意味だから無意味、じゃなくて無意味だからこそ意味があるっていうことなんだ
よ。例え無意味であっても無駄じゃない。でも、君の言うそれは何より無意味だと僕自身が理解してい
る。だから全くもって無意味、無駄。僕のことはもう放っておいてくれっ。無駄じゃないんだこの世界
はっ」
足を両腕で抱え込み、顔を閉ざした。
「君が何より世界を知っているから、私は君に頼らざるを得ないと私自身が理解している。だから君を
無駄にはさせない。どうしてもだ」
「知るものか。勝手な事を言うなっ」
顔を隠したまま叫んだ彼に、
「誰もが皆勝手だから、それを消してしまえば誰もが喜び、安寧を得られるだろう。だが、他に誰が実
行できるというんだ?仕方ないだろう、私の犠牲になってもらうしかない。いいね……」
彼はうめき声を上げた。
「黙れ、黙れっ――」
「そんなにこの世界が大事だというのか……」
「大切な僕の最後の居場所。僕はもう失ってしまったんだ、もうそれは終わりにしたいって。だからも
う出て行ってくれっ」
「……よろしい。君の世界は、君の認識の上に成り立っている。それに限らず誰かが認識するからこそ
世界はそこにあり、その多数の認識が絡み合った関係性こそが世界の実体だ。だが、君一人だけが認識
している世界など本当に世界と呼べるのか……そこには何もありはしない。私がこの世界を認識する事
をやめてこの世界の<支配者>(ルーラー)である君を直接引きずり出そうとすれば、一体どうなるだろう
な」
はっとした表情でノアは顔を上げ、その瞳に映りこんだ世界は緑に溢れ、
「や、やめろっ、やめるんだっ……」
「私が君を連れて行く……そうじゃない。君が私を連れて行くという事が、その結果だという事を理解
してもらいたい。分かっているだろ……もう始まっている事を閉ざせはしないのだから」
「うあああああああああっっっ!!!」
次々と崩れて深遠の暗闇に飲まれていく世界が彼の瞳に映りこんだ……いや、彼にしかそれは見えてい
ないのだ。映りこんだのは彼の心に対してだった。
「さあ、連れて行っておくれっ」
アダムはノアの手を取った。二人は暗闇の渦の中に飲み込まれて姿をなくしていった。あるいは、深い
海の中と言ったほうがいいのだろうか。それが暗闇と呼べるのならば、人とは光ではなく、全くの暗闇
の存在だろうか……アダムは思った。しかし、それもまた無意味だ。

>>basis2 黒の小宇宙(コスモ)
全ては閉ざされている。彼らは思った。自分たちは、もはや細胞の間に入り込んだ小さな異物だ。そこ
では光は閉ざされ、全く何も見えぬ暗闇の中。それでもお構いなしに突き進むウイルスのように、自ら
の存在を潜り込ませていく。アダムは望む――それもまたにウイルスに似ているのかも知れない。だが
当然同じ尺度で考えられるわけもないのだろう――実際に、最終的な結果として現れるであろう形は、
ウイルスによるそれとは全く違う性質になるのだから――アダムはまだぶすっとしているノアに話しか
ける。
「ノア、今はまだ終わりが見えない。それは仕方のないこと……いずれ君にも幸福が訪れるのだろう、
だから今は大人しく自分の使命を果たした方が賢明だ」
アダムの言葉に対し、ノアは浮かない顔でそちらを見た。
「幸福だって……」
「うん」
彼は目を細めて、
「じゃあどうして僕はそれを望まないの……」
「君がまだその概念を理解できないから。いずれにせよ何らかの形で終わりが来るのなら、その時には
きっと理解できているだろう」
「馬鹿馬鹿しい」
かぶりを振り、
「誰もが理解できるようになる?そんなわけないよ、誰にだって別々の考え方があって、そのおかげで
世界は動いているんだから、やっぱり僕は僕の考えで、君の考えを受け入れることなんてできないって
思ってるし、大体君は何故それ望むの……」
アダムは冷徹な態度を崩さず、
「おそらく私は未来から来た。未来の意志を受け継いでる存在であり、一つの未来を実現させなくては
いけないと言う事が分かっている、そういう存在。その道を外れれば我々に待っているのは不幸な未来
だと知っているし、実際に未来の人間はその時を幸せだと思っている。私には分かるから。絶対に人々
の魂を幸福へと導く。それは私が私だからこそ課せられた使命」
「馬鹿馬鹿しい」
再びかぶりを振って、
「真面目な顔で戯言もほどほどにしなよ。大体、君の使命なんて、そんなものあるわけないじゃないか
。ここではもう地位も名誉もありはしないだろ。皆平等だ。誰が君に使命を課した?そこには誰もいな
いよ」
アダムは自らの胸に手を置いた。
「それは、どこにだっている。君にも見えているだろ……」
ノアはふん、と鼻を鳴らし、
「成る程君の言い分は分かった。でも、それは目標や目的。自我の中に生まれたエゴに過ぎない。それ
が使命だなんて笑わせる!何故僕がそんなものに巻き込まれなければいけない?自分のための世界すら
壊されて、僕にはもう何もない……ふざけるなっ。幸せなんて人それぞれだ。僕の幸せを返してくれよ
っ。僕はどうしたらいいんだ……答えてくれよ、僕に何があるの……」
「力を持っているものにはそれ相応の使命が課せられる。世界はその対価を私たちに求めているという
ことだ。分かっているだろう?気づかないふりはよせ」
彼のため息が漏れる。しかしそこに空気などあるのか?実態のないこの世界では二人の認識が全てだ、
とアダムは思った。
「暗闇は嫌いだよ。自分の存在すら見えなくなって、どんどん幸せが消えていく。ここでは自分を意識
すれば君の存在だって見えるけど、この暗闇は世界そのものなんだ。こんな暗闇に、誰かに対価を求め
る秩序などあるのか?僕にはまるで分からない。いや、分かりたくない、そう君は解釈するかもね。で
も僕には本当に分からないんだ」
「光がなくて物が見えなくても、そこに物が存在しているのは事実だ。その物自身が自分を認識してい
るから。だからどんな形であっても世界は世界だ。私たちの力は望まれた力。全て世界の因果のために
仕組まれているのだろう。だからこれを正しく行使する。君も同じだ」
「どうしても使命からは逃れられないというんだね……そして僕にはもうそれしか残されていない、と
……それならそれを終わらせる。その後に何が待っているかなんて関係ない。果たすしかないんだろ、
その使命を」
「その通り――では行こうか」
二人は頭上の暗闇にダイヴした。

>>basis_3 アダムの物語
アダムとノアは細胞の壁を押し分けてダイヴを続けていた。ノアはそれに退屈したかのようにアダムに
話しかけた。
「アダム、君の奥さんはどうしたんだっけ……」
彼が無言のまま、
「君と一緒に来たんだろ……」
沈黙が少し続き、
「彼女がどこにいるかは分からない」とアダムが重い口を開くと、
「どうしたんだい……」
とアダムの顔を見据えて、
「彼女には世話になったから、もし会えるのなら例を言っておきたいな。最も、全て無駄になってしま
ったみたいだけど」
彼の反応は鈍い。何か思う所があるのだろうとノアは気づき、それでも、
「彼女を愛してはいなかったのかいっ」
激しく追及した。彼もついにそれに答える気になったのか。
「愛していたさ。彼女はアダムという存在を心から愛してくれた。私もそんな彼女が好きだった。彼女
は、生まれたときから実験室で育ち、孤独だった私を支えてくれたし、私の素体が死んでから、私がニ
ューラルネットプログラムの世界――あの、楽園の中――に移されて存在し続けた時も、常に傍にいて
くれたんだ。彼女が何を思っていたのか、私には分からないが……その時だって幸せは感じていたし、
このままずっと変わることもないと思っていた」
「それが変わってしまったの……」
「彼女だって何も好きで私といたわけではないかもしれない、それぐらいの分別はついていたにせよ、
彼女の人生がどんなものだったか、全く知らなかった。思いつく限りの自由と幸せに満ちた人生を思い
描いていた、しかし彼女も私と同じだったんだ。彼女に対し申し訳ない気持ちが芽生えたが、それは仕
方のないことだ」
「そんなことで変わってしまったと……」
彼は軽く手を振った。
「まさかそんな。同じだと知ってから彼女に依存できないと知ったが、それでも愛していた。だが、あ
の、蛇のようなあいつに知恵の木の実を食らわされてから、それまでと同じようにはなれなくなった」
「蛇……知恵の木の実……そうか、あの事件で君たちは楽園を追放された、そうだったっけ……」
アダムは頷き、
「あれから、誰も気づかなかったが人類はことごとく変質してしまった。言わば、全ての人類が私の子
孫と成り代わってしまったかのように。その時から、今、この世界が築き上げられるのはもう決まって
いたのかもしれない。その事件が起きてから、もう私たちが想いを重ねられる時間はまるで奪われた」
「僕は知らなかったよ……パーソナルクローニングで実世界に戻ってきた君たちは、研究者たちに引き
離されてしまったんだね……確かにあの事件からすればその措置も仕方ない」
「私のクローン体も、もう死んでしまったんだよ。彼女とは離れ離れさ。彼女はあの星に残ったのかも
しれない。私たちのような存在にはならずにね」
「そうかい……彼女は何を思っていたんだろうな」
アダムはゆっくり頭を左右に、
「私と彼女の繋がりは断ち切られた。もはや何も分からない」
ノアはしばらく押し黙っていた。何を言えばいいのだろうか?そんなこと、リリシアの神々にだって分
かるはずもないのだ……そこでノアは一つの考えに思い当たる。
「そういえば……君には彼女の前に、もう一人の妻がいたはずだが」
アダムは一瞬ピクリと体を引きつらせた。
「彼女の名前は何だったっけ……」
リリス
「そうか。彼女は……いや、もうとっくに死んでいるのか……」
「いいや」
「え……」
彼は強く応えた。
「彼女の思念は、……まだ呪縛のように残っているんだ」
ノアにはその言葉の意味は分からなかったが、その意味を聞こうにも、彼は重い沈黙を保ち、質問する
ことすらできなかったのだった。

>>basis_4 モアフィールド
二人は依然として潜行、あるいは浮上を続けていた。この二人にとってその暗闇には上も下もありはし
ないのだった。だが、だからといってここに何の引力も働いていないとは言えない。どの方向に働いて
いるのか、あまりに微弱すぎて分からないのかもしれない。それとも、二人の自意識が強すぎるためな
のか?この状態でも目的の方向を見失わないのは、ノアの力のおかげだった。彼はこの世界――いや、
小宇宙<コスモ>とでも呼ぶべきか――を掌握している存在だった。今となっては通常の物質と切り離さ
れた世界になってしまったため、完全に掌握しているわけではないが、それでも方向ぐらいならわかる
。全く、頼もしいことだ……アダムは今のところ彼の力に頼るしかないと思っている。面倒なことだ。
前に言葉を交わしたときからずいぶん時間がたったように感じられ、ノアは不安になっていた。アダム
は何も言わない。僕の存在に何の意味があるんだ?彼の心が知りたい。それは、彼の言っていた計画に
既に乗せられてしまっているのだろうか、この僕さえも?そんな馬鹿な。心なしか動悸が早まったよう
な気がする。そんなもの必要ないのに。ノアは不安を隠すように、沈黙を破った。
「なあ――アダム」
「……何だ」
顔が熱くなったような気がする。もしかしたら彼が好きなのかもしれない。気持ちが落ち着かない。ノ
アは必死で言葉を紡いだ。
「その――そう、そうだ。何で君は、わざわざそんな行動を起こそうとしているんだい……」
「何が言いたい……」
「何で君はそんな突拍子も無い事を考え付いたんだいっ……おかしいじゃないか、自分の狭い世界の中
でずっと何も考えずにいられるのに、ただ毎日を繰り返すこともできるのに。ただ甘い泥濘を夢見て、
その夢の世界で生きることも出来るのに。それを捨てて、自分のためにもならない事をしようとして」
「自分のためじゃない……そんなことは無い。これは私のためでもある。そして君のためでもあるんだ
。私の計画は、全ての人間のためにあるのだから」
「それにしたって……そんな事をどうやって閃いたんだい……僕には想像できない」
「そうだな――きっかけはあった。自分の頭の中だけで思いついたものではないかもしれない」
「それって、一体なんなの……」
「私は一人で永劫に押し黙っていることなんてできなかった。だから、自分の世界を捨ててこの暗闇に
浮かぶ他者の世界を求めた。様々な世界の模様を見てきたんだよ。そして、ある世界を見つけた。とて
も変わった世界だったよ。その世界の創造主は、精神的な年齢は知らないが、まだ少女に見えた。彼女
はその世界を広げて、一つの大きな街を作り上げていたんだ。私のような旅人をもてなしてくれた。彼
女以外の他の人間たちがその世界に暮らしていた。彼らは皆外部から集められたんだ。いくつかの世界
がくっついて一つになっている世界はいくつか見ていたが、彼女は他の世界を取り込みながら、あくま
で彼女の支配する世界を構築していたんだ。このケースは非常に珍しい」
「そうなのか。僕には良く分からない。最初からほとんど一人でいたから」
「君にも知ってもらうべきだったかもしれない――それで、私はその世界を訪れ、しばらく滞在した。
住み心地の良い世界だったからな。そして彼女に出会った。彼女の名前はモアと言った。私は、彼女が
その世界を支配するもの――<ルーラー>――だと気づいたよ。いろんな世界を巡ることで、強い力の波
長を見分ける事ができたからね。でも、他の人間たちは彼女が<支配者>だとは気づかなかったらしい。
他の人間と同じ振りをしているんだ。皆、自分がその世界に取り込まれたことも知らない。その世界に
生きる自分が当たり前となっているんだ。最も、世界がこの暗闇に落ちた事を知るものなどほとんどい
ないのだが、彼女は気づいている様子だった。そして、外部から他の人間を自動的に拾い上げ、それを
生活させ、その者を緩やかに死に向かわせる。それが世界の制限。死んだ人間たちは、彼女のもとへと
帰っていく。新しい命は<代替物>に変わり、ただ力だけを蓄える」
「なんてこったっ。君がその計画を思いついたのは、彼女の力の源を見てしまったからなんだね……」
「つまりそういうことだ。私は彼女に協力して、自分でもそれを行うべきだと気づいた。しかも、ちま
ちまとしたやり方ではなく、もっと力をっ。この世界を覆すほどの力を手にするのだと」
「そのために――君は行くのか。僕の力を利用して、世界の果てへ」
「そう。案内してくれるんだろ……」
「う――う、僕に選択権は無い。勿論、君の力になるよ」

>>basis_5 世界の果ての邂逅
ノアは気づいていた。この暗闇の密度が少しずつ低くなっている事を。もうすぐ到着だ。この暗闇が晴
れて、光が溢れる世界を見る事ができるのかもしれない。元々、僕らは太陽の光が重なり輝く世界の中
で、苦しくてもずっと喜びを求めて生きてきたはずだ。なのに、何故こんな場所に来てしまったのだろ
うか?いや、場所なんかじゃない。もっと抽象的で秩序の希薄な世界――むしろ、概念のようなもの、
イデアと呼ぶべきもの――なんだろう。それに、僕はいずれにせよ、何よりも暗く深い暗黒が支配する
世界に飛び立つ事を計画していた。いずれにせよ同じことかもしれない。だが、それでも、その計画さ
え、あのアダムの妻が起こしたことが発端だったはずだ。だから、アダムが……アダムさえいなければ
……そんな事を考えても仕方ないことも分かっている。それに、彼を憎みきれない自分にも気づいてい
た。何故だろう。彼には人をひきつける何かがある。言葉でも容姿でもない何かが……彼という人間の
の性質を考えれば当然だろうか。彼は無敵なのだ。
「止まって、アダムっ」
ノアが叫んだとき、アダムはもう先行していた。手遅れだった。アダムは既に暗闇の世界のその果てに
到達していた。その先に何が待っているのか?世界の果ての先に、何があると言うんだ?この世界に住
むものがこの世界を外れて生きていくことができるのか?いくら彼でも、世界を超えた世界にその存在
をかき消されてしまうかもしれない!
「あ――あ――アダムっ、そんなっ……」
ノアは戸惑った。ここでアダムがいなくなれば、確かに僕は解放される。重い使命も何も無い。彼が望
まなければ、僕は自分の自由を満喫できる。
「でも――」
何を考えている?あんな勝手な奴の事を助けるのか?自分の権利すらどぶに捨てて?だが、誰にでも生
きる権利はある……僕が助けられるかもしれない。偽善だ。あいつは決して善人ではない。僕の自由を
奪った奴だ。そんな奴をわざわざ助けるなんて、狂気の沙汰だと分かっているだろう?だが、彼はこの
世界の未来に必要な人間かもしれない。彼はこの世界に大きな変革をもたらすだろう。待て。だからと
いって、それが良いことなのかどうかは分からない。彼の変革した未来の中では、誰もが彼を憎むかも
しれない。言い訳だ。言い訳なんだ。僕は彼を助けたがっている。それは偽善でも使命でもなくて、僕
自身が彼を助けたがっているからなんだ。だったら、自分の心に聞くしかない。助けたいのか?
「僕は――行く」
飛び込んだ。誰の指図ではなく、誰でもない彼の命令などでもなく、自らの意志で。世界の果て。その
先に何も無いかもしれない、外の世界に。
「ワ――」
視界の中に光が溢れた。おかしいな、今までずっと暗闇の中だったのに……外の世界か。もしかして、
太陽面を通過しているのかな。こんなに――こんなに眩しいなんて、それぐらいしか――
「ノア……」
彼の声が聞こえる。でもどこにいるんだ?まるで見えはしない。全てが光に包まれていて――
「落ち着くんだ、ノア。光だけの世界も暗闇も同じことだ」
同じ……暗闇と光が、同じ……
「意識すれば実体が見えてくる。見かけに騙されずに心を研ぎ澄ませるんだ。今まで散々やってきただ
ろう……」
何の存在もつかめないということでは、全くの光も全くの闇と同じ……確かにその通りだ。今まで暗闇
の世界で彼と話しをしてきたのは、見えないものを見てきたからだ。だから、ここでもできる……彼を
もう一度見つめたい……ノアは、意識を集中させた。
「見えたかい……」
「ああ――」
ノアの意識の中にその輪郭が浮かび、
「――見えたよ、アダム」
「グッド」
アダムは短く言った。
「アダム――なんともないの……」
「君は、何が私を揺るがすと言うんだい……」
「だって、果ての先に出てしまったら、その存在を維持できるか分からないし――」
「ここが世界の果て。果ての先など、簡単に突破できるものじゃない」
「なんだよ、僕は君を心配して――」
「ありがたいことだ。正直、君はここに来ないかもしれないと思っていた。でも君はここに来た。勿論
それが君の使命なのだから、当然のことかもしれないが、未知の領域に君は来た。頼もしいことだと私
は思う」
ノアは思った。ああ、彼は助ける必要なんて無かったんだ。ただ協力さえすればいい……似ているよう
だが全く違うんだね。彼は肩をすくめ、
「全く、ありがたいや、僕ですら。ここは一体なんなんだい……」
「だから、世界の果てそのものなのさ」
「そうか、でも、今まで全くの暗闇だったのに、ここは光っている。何故……」
「ここは既に統一された世界なんだ。世界の中に入ってしまったから、元々あらゆる者が持っている意
識の光が見える。いや、世界の中というのは正確ではないな――ここには壁が無い」
「まさか、君の計画が自然に起こっているのかい……いや、何故光だけしかないんだ、この中は……」
「さえぎる物が存在しないから。この中に何かを造る者がいないんだ」
「そんな――じゃあ、この中はなんなんだろう……統一された世界、みたいなものなんだろっ……一体
何が統一されているって言うんだい……」
「<無意識>が統一されているのさ。それぞれの暗闇の細胞が――そうだな、<無意識>に対して<有意識>
、とでも表現するのならね」
「なんてこった。全人類の精神の中で、無意識だけはそれぞれが繋がっているところがあるという……
そういう考え方が確かにあった。人の夢の世界というわけだなっ」
「言葉通りに捉えるべきではないだろうが、概念としては的確な理論だったのかもしれない」
「そうか、無意識が有意識を包み込むようにして統一していたんだ。つまりこれが世界の果ての壁と言
うわけか。通りでおかしいと思っていた。この世界が磨耗しないのは、この壁があったからなのか」
「成る程そういうことか――では、この<無意識>と対話してみようか。ここで出会った<無意識>という
名の精神と」

>>basis_6 <無意識>との対話
「<無意識>と対話って……そんな事ができるのかい……」
「できる」
「どうすれば意識が無いものと対話なんてできるんだよ、おかしいじゃないか……」
「言葉どおりに捉えないことだ。<無意識>は深層意識が眠る場所であり、高い知性が隠されている。そ
して、それを引き出す方法も考えてある」
「それは一体……」
「真空にエネルギーを与えると粒子と反粒子を生み出すことは知っているだろ……<無意識>も同じよう
にできるはずだ。一見何も無い、それでもエネルギーに満ち溢れていると言う点で同じなのだから」
「そう簡単にいくのだろうか……僕にはそんな突拍子も無いことは思いつけない」
「私たちの精神の力をぶつけてみて、刹那の折に対話をする。きっとできるはずだ」
「分かったよ。やればいいんだろ……」
アダムとノアは目を閉じ、手をかざした。彼らの魂そのものの力が放出され、<無意識>の中に舞った。
そこに生まれたひずみを通じて、声が聞こえた。
「何だ……お前たちは……」
これが<無意識>の声。二人は身構えた。その声は、直接心の奥に伝わる声だった。
「私はアダム。こちらはノア。こんにちは<無意識>。聞きたい事がある」
「アダム……ノア……知っている。お前たちは、この世界を生み出すきっかけに少なからず加担してい
る。特に、ノア。お前が<わたし/われわれ/全て>をこんなところに連れてきたのだから」
こんなところ……世界の果ての外の世界か。正確には把握できないが、恐らく故郷を遠くはなれている
のだろうか。
「僕は、いずれ来るかもしれない大変革を見越して、脱出を計画しただけだ。結局のところ、それを逃
れることは不可能だった。その計画のせいでこの世界を引っ張ってきてしまったことは過ちだったかも
しれないけど、全ての責任を負うつもりは無い。それでいいだろ、アダム」
「ああ。君に責任は無いよ。それどころか、その結果はむしろ良い結果を生む可能性も高い」
<無意識>は戸惑っている様子だった。
「だが、<わたし/われわれ/全て>の世界は外れてしまった。それが正しかったと言うのか……」
「全ては必然だった。それだけのことだ。さあ、そんなことはどうでもいい。この世界は今、どんな状
態にあるんだ……」
「<わたし/われわれ/全て>の世界……その状態……」
二人の心に突然嵐が吹き荒れた。その強い風は彼らの意識を吹き飛ばしてしまうかのような強さを持っ
ていたが、すぐにそれは収まり、無害なものだという事が分かった。一度に流れ込む情報を調整できな
かっただけだ。それが収まった後、彼らの心には今までになかった知識が刻み込まれていたのだから。
「ありがとう。知りたいことは分かった」
「――<わたし/われわれ/全て>は、お前たちを憎むべきだ――元のままの世界を良しとするのが当然
なのだから。だが、<わたし/われわれ/全て>はあくまで<無意識>の産物だからか、情報としてお前た
ちの行動を知っているが、そこに高等な感情は発生していない。理由はそれだけなのだろうか……」
「それだけじゃないさ。きっと、我々の正当性に気づいているからに他ならない。全てが偶然と言う名
の必然に従って動いているのだから」
「全てが黄金律として動いていると言うのか。いいだろう。<わたし/われわれ/全て>に、それは確か
められはしないのだから」
「私たちを支持すればいいさ」
「よかろう。お前たちの名前は刻んでおこう。お前の妻や子供たちと共に――せいぜい頑張ることだ―
―」
そして、その声は消えた。心の中で呼びかけても、もはや反応は無い。もう一度<無意識>を呼び出して
も同じことだろう。私たちに語ることはもう何も無い。精神の力を浪費するわけにはいかない。アダム
は自分の力を過信してはいない。
「さて、行こうか、ノア」
「アダム……」
「我々の次の目的は、世界の中心に行くことだ」

>>basis_7 世界の中心(コア)へ
「世界の果てを見たと思ったら、今度は世界の中心か……」
「どうした……」
「訳が分からないよ全く――こんな旅路に何の意味があるのさ……世界の端から端まで旅するなんて。
僕はもうついていけないよ」
「本当に……」
「うん――」
ノアはアダムに睨まれて視線をそらした。嫌だ、嫌だ、何故僕がそんな眼で見られないといけないんだ
。睨まないでくれ、いや、何故彼が睨んでいると分かる?彼は眼を覆い隠している。でもその眼の下か
ら睨まれているような気がする。何故だ?僕の心がそんな幻想を生み出しているんだろうか?彼に見捨
てられるのを恐れている。彼に嫌われるのを恐れている。
「――うん、そんなことは無い。僕は君について行く」
言ってしまった。今更後に引けはしないって、もう分かりきったことだろう?
「……ありがとう、ノア」
「別に君のためじゃないよ――これが使命って奴なんだろっ。僕の力に帯びた使命って奴なんだろ。そ
の使命のために行くしかないんだ。僕の義務を果たすために行くんだよっ」
「ふ――」
アダムはかすかに笑った。ノアがそんなしぐさを見るのは初めてかもしれない。彼がこんな笑みを浮か
べるなんて。
「――君がそんな事を言うようになるとは思わなかった。使命とか義務とか、一番嫌っていたのは君だ
と思っていたから。ずいぶん変わったものだ」
ノアは思った。僕が変わった?アダムに無理矢理つれてこられて以来、今までの僕がまるで無くなって
しまったかのように服従させられたのは確かなことだ。でも、今だって使命を嫌っているのは確かだ。
さっきの言葉は、アダムに強がりを言っただけなのだから。
「そんなことないよ。僕は今でも一番義務や責務を嫌っている。だってそうだろ……僕は全てを捨てて
故郷から逃げ出そうとした男だぜ。人類に課せられた罪と罰から逃げようとしたんだよ。その結果、こ
んな異質な世界を引っ張ってきてしまったんだけど」
「でも、それは本質じゃない。君は人類を救おうとした。人類だけじゃない。いろんな動物も植物も、
その全てもアーカイブとして持っていこうとしたんだ。君の乗った箱舟が飛び立つ姿を情報として覚え
ている。あの姿はまるで神々しかったよ」
「僕は自分の世界が変わってしまうのが耐えられなかっただけだよ。逃げただけだ。今だってそうさ。
君がいなければ――いや、今更言っても仕方ない。君について行くしかないんだから」
「本当にありがとう、ノア。君はもはや私にとって特別な存在だよ」
「変な期待を持たせないでくれっ。僕は君の奴隷さ。いくらでも好きなように使ってくれっ」
「うん、分かった――では、説明しておこうか」
「なに……」
「その前に、<無意識>から受け取った情報を思い出してほしい」
「駄目だ、言語化できない。イメージだけは確かに有るけど、情報を整理できないんだ」
「私もそうさ。言語化する必要なんて無いんだよ。ありのまま記憶の一部として心に浮かべればいい」
「難しいな」
「いずれ分かるさ。今は私が説明しておこう」
「お願いするよ」
「<無意識>は光となってこの世界を包み込んだ。では、<有意識>はどうなっているのか。私たちが見て
きたように、<有意識>は暗闇の細胞となってこの世界を満たしている。その中はそれぞれ力を持つ意識
世界――それぞれの<ルーラー>が創造した自らの世界――が広がっているから……さしずめ <セル・ワ
ールド> とでも呼ぼうか。そして、何故暗闇なのかといえば、細胞膜のようにそれぞれの<有意識>を隔
てる壁が外側と内側にあるせいだ。このため内部に満ちる意識の光が見えない。ここまでは分かってい
るだろう……」
「それが、君が計画を考えた理由の一つなんだろ……」
「そういうことだ――ここまで<セル・ワールド>の合間を縫って移動してきたわけだが、その密度の変
化には気づいていただろ……」
「果てに近づくほど移動が楽になった気はする。この世界の移動に慣れたせいかもしれないと思ってい
たが、やはり密度が薄くなっていたのか」
「星の内部が高温高密になるのと同じ原理なんだろう。世界の中心に向かうほど密度が濃くなっている
らしい。<無意識>の情報でもその通りになっていた。そして、コアにあたる部分では、多数の <セル・
ワールド> が崩れて一つになっている可能性がある。そこに赴けば、私の計画――全面突破(トータル
ブレイクスルー)の手がかりが得られるに違いない」
「そうか――分かった。そこに行けば君の計画が完成できるのか。だったら、行こう。その世界の中心
へ。僕の力は役に立つのかい……」
「君は、この世界の中心軸を知っているから、世界の中での位置を把握できる。世界の構造について知
っているわけではなくとも、位置が分かれば自在に移動できる。この道標の無い世界では君の力が必要
だ」
「よし、それなら僕が案内しよう。世界の中心へ――懐かしいあの箱舟へ」
二人は<無意識>と言う名の光の膜から、再び暗闇の世界――細胞たちの密集する小宇宙<コスモ>――の
内部にダイヴした。

>>basis_8 失楽園
そこは楽園だった。足元には綺麗な色をした様々な花が咲き乱れた花畑があり、空は青く澄み渡り、そ
の空と、どこまでも広がった花畑の間には、地平線が見えた。所々に生えた大きな樹にはおいしそうな
大きな果実が実り、動物たちが平和に暮らしていた。そこに争いごとは無く、全くの楽園だった。
アダムはその花畑に埋もれたまま目を覚ました。
「う――」
目の前の青い空の彼方に、星はなかった。
「ここはどこだ……」
アダムが起き上がって辺りを見回すうちに、そこがかつて自分が安住していたエデンの園だと気づくの
に時間はかからなかった。
「懐かしい――ここは、アダムとエヴァが仲良く暮らしたあの空間だ」
彼は花畑の中を歩き出した。無造作に、ただ前を見て歩き続ける。どこまで歩いても地平線といくつか
の樹が見えるだけで、景色が変わる気配は一向に見えなかった。この楽園の広さは無限大なのか?彼は
立ち止まる。
「……水の音が聞こえる」
振り返って見てみれば、川が流れている。こんなものが今まであったのだろうか?気づかなかっただけ
で最初からここにあったのか?
「そうか――最初から何も無い。だが、最初から全て在る。エデンはニューラルネットプログラムの世
界。アダムとエヴァの人格情報、その思考内容にあわせて世界自体が変わっていく。それこそが楽園の
正体か。確かに、これ以上の楽園は存在しないだろう。欲しいと思ったものがすぐさま現れるのだから
な――」
彼は小川に近づき、その水を両手ですくって飲み干した。
「違う――ここはニューラルネットの世界じゃない――その世界はとっくの昔に滅んでいるのだから」
だとすれば、この空間は一体なんだ?何故こんな楽園が再現されていると言うのだ?考えていると、小
腹が空いてきた。何か食べるものは無いのか?すると、目の前に大きな樹があったので、そこについた
果物を取って食べた。味は上々だった。癖は無く、誰でも食べられるような淡白な味では在ったが、空
腹を満たすためには最適だった。
(いくら食べても飽きないために調整されているのか?永劫の時を生きるためには仕方の無いことか)
だが、何故腹が減る?この世界には空腹という概念も無いはずだ。いや、この世界、とはあの暗闇の世
界のことか。今いるこの世界とは違うのだろうか。この世界では、腹も減るのだろうか。
(この世界の法則は明らかに何かがおかしい。今までいた暗闇の世界は一体どこにあるのか。それとも
そんなものは存在しない……今までの全てが嘘だったとでも言うのか?)
ここがニューラルネットプログラムの世界だとすれば、今までのことは全て夢?それとも、戻ってきた
のだろうか。まさか、箱舟の中のアーカイブ空間なのだろうか?訳が分からない。もしここが本当の楽
園だとすれば、あの二人は一体どこにいるというのか?違う。楽園が問題なのではない。私じゃない。
重要なのは彼だ。彼は一体どこにいるのか?
(私はずっと探していたはずだ。彼は一体どこにいる……)
「ここにいるよ」
突然彼の頭の中に声が響いてきた。
「僕はここにいる――」
彼は辺りを見回したが、何の人影も見当たらない。
「君は……一体どこにいるんだ……」
「君の傍にいる。ずっといつも一緒だ。僕は君の影」
「そんな――あなたはっ」
「ずっとずっと――君と共に居る」
「ああ――」
彼の眼帯の下で涙が溢れた。
「――ずっとずっと探していた。こんなに近くに居たんだね――」
私は、何をしていたというのか。最初の頃、彼を求めて旅をしていた。ノアに言ったように一人で居る
退廃が嫌だったんじゃない。彼を捜し求めて旅をしていたんだ。でも、彼は見つからなかった。どこに
も見つからなかったんだ。だから私は彼の代弁者になっていた。彼が望んでいたであろう事をやってい
たはずだった。でも違ったのかもしれない。彼は既に私と接触している!私が彼の願いを考えて実行し
ているんじゃない。彼の願いを直接自分の考えとして実行しているんだ。どうして今まで気づかなかっ
たんだろう?私は彼の代弁者ではなく、実行者だったなんて!
「どうして姿を見せてくれないの……」
「僕は君の傍に居る。そのことに気づいた君が望めば、いつだって会えるさ」
「それなら、私は望む。あなたに今一度会いたい。ずっと思っていたからさ――もう一度、あの輝かし
い気持ちのうねりをこの胸に伝えて――」
しかしそれきり返答は無かった。本当に彼とまた会えるのだろうか?分からない。それでも想いは強く
激しく高ぶり、焦がれる心に水を差すことはできないのだ。もしかしたらこれも夢かもしれない。彼の
言葉は信じがたいものだったのだから。でも、関係ない。例え夢でも、声を聞けただけでもうれしいの
だ。正に楽園だ。とっくに諦めていたことを叶えてくれたのだから――
そして、アダムは吹雪が吹き荒れる空の下、雪の中で目を覚ました。

>>basis_9 新しい出会い
朦朧とした意識が収束し、世界に光が見えるようにになっていく。その光も決して大きなものではなか
ったが、突然に突き動かされた意識は、その刺激に対して敏感に反応し、急激な覚醒を促した。
「う――う――ん」
アダムが意識を取り戻した途端、大きな声が聞こえた。
「ああ!起きた!起きた!起きよった!」
その声はアダムの目覚めたばかりの意識に突き刺さり、頭痛を促した。
「姉ちゃん!起きたよ、旅人さんが起きたよ!」
それはまだ小さな少年のような若々しい活気に満ち溢れた声だとアダムには感じられた。だが、それが
頭に痛い。どうか黙っていてくれないか……すると、もう一つの声が聞こえてきた。
「はいはい、そんなに大きな声を出さなくても聞こえているわよ……」
「姉ちゃん、早く早く!」
「だから分かってるって――人の話聞きなさいって、あんたは……」
こちらは一変して落ち着いた女性の声だった。まだ若いようではあるが、あまり若々しい喋り方ではな
かった。
二つの足音が聞こえ、それらが近づいてくるのが分かった。音の反響によって、それらが別の部屋から
自分の部屋に入ってきたことすら分かった。意識が敏感になっている。反面、体は思うように動かせな
い。金縛りにも似たような状態だ。
「はい、旅人さん、目を覚ましましたか?」
目の前に、横から女性の顔が突き出される。その時、自分が柔らかいベッドの上に寝かされていて、彼
女が上から覗き込んでいるという事がアダムには分かった。
「ああ――大丈夫だ」
アダムは短く返事をし、起き上がろうとした。だがやはり体は上手く動かせず、頭だけが情けなく動い
た。それを見て彼女は顔をどかし、くすくすと笑った。
「無理しないでください。凍傷もまだ完治していないんですから――」
横からさっきの少年の声が割り込んできて、
「そうそう!旅人さん、もうずーっと眠ってたんだからさ。いきなり無理しちゃ駄目よな」
アダムは顔を動かして横を見た。視界の中で横に突き立った少年の姿が見えた。少年が行っていた通り
、この12歳前後の少年と女性――こちらもよく見ればまだ10代、少女のようだった――は、姉と弟だろ
う。落ち着き方はまるで対照的だが、顔はどことなく共通するものがある。そこで二人が割合厚着して
いることに気づいた。それを見た途端、厚い布団の中だというのに、肌寒く感じられた。
「私は何故こんな所に居るんだ……」
アダムが疑問を口にすると、少年が応えた。
「あはは、旅人さん、覚えてないん?ぼくが助けて連れてきたんよ」
「助けて……」
「あなたは雪原の中で倒れていたんですよ。薄着だから酷い凍傷を負っていて、体力もまるでなくなっ
ている様子だったそうです。そこを助けてこの家まで連れてきたのが」
「そ、ぼくってわけね。何であんな所に倒れていたのか知らないけど、ここら辺の服装とはまるで違っ
ていたから、旅人さんなんっしょ?ぼくがそう呼ぶようにしたんだ」
「すみませんね、勝手に名づけてしまって。見慣れない服飾だし、雰囲気がこの国の人とは違うから…
…でも、あなたは本当に旅人さんなんですか?どうしてあんな所に?」
「ああ、旅人だよ。でも、どうしてここにいるのか……分からない――」
「あっれー、もしかして記憶喪失ってやつ?凄いなあ、そんな事があるんね」
「いや、私は――」
「まあまあ。無理に思い出そうとしなくても結構ですよ。それより早く良くなってくださいね――」
「うん……分かった」
アダムは言うべき事に気がつき、すぐさま言葉にした。
「とにかく、助けてくれてありがとう――ええと」
「あ、私の名前はヴェルハと言います。こちらは弟のミルトン」
「ありがとう、ヴェルハ、ミルトン。私の名前はアダム。その、しばらく世話になるしかないらしい。
その間はよろしく頼んでもいいかい……」
「ええ、勿論ですわ。ね、ミルトン」
「あったりまえよ、病人は気遣いなんてしなくてもいいのさ。早く良くなってな!」
「うん――」
アダムは自分が弱気になっていることに気がついた。何故自分がこんな世界に居るのか分からないが、
この世界の法則に縛られているのだ。果たしてこの世界は、今までどおりのヴァーチャルな世界のまま
なのだろうか?とりあえず体が回復するまでは何もできない。暗闇の世界を自由に飛び回った頃とは違
う。今はどうしようもないんだ……そう自分に言い聞かせて眼を閉じた。

>>basis_10 飛べない翼
アダムは数日かけてやっとベッドから降りられるようになった。ヴェルハとミルトンが献身的に看病し
てくれたおかげだった。四肢が凍傷で麻痺していたのに、歩けるようになっただけでずいぶん回復した
ものだ。だが、この世界での数日とは一体何なんだろうか?ここには一つの太陽が昇り、沈み、当然の
ように昼と夜がある。窓の外を見れば、雪が降り続けている。その時間はこの世界の外の世界、すなわ
ち暗闇の<コスモ>の中で流れている時間と同じなのか?ノアは今何をしているんだろう。私がこの世界
に来てしまったのは何故だろう?暗闇を移動する間に、ついこの世界に衝突してしまったのか。そして
この世界の雪原に落ち、この世界の法則に支配されて怪我を負ったのか。ヴェルハ……ミルトン……彼
女たちは<ルーラー>でも無ければ<代替物>ですら無い。アダムは感じていた。この世界もまたモアフィ
ールドに近い存在なのだろうか。アダムがベッドに腰掛け思考にふけっていると、ヴェルハが部屋に入
ってきた。
「アダムさん、お茶をお持ちしました」
「あ――ああ、ありがとう、ヴェルハ」
「はい、どうぞ」
小さなテーブルに茶碗を置いた。アダムは立ち上がり、よたよたとした足取りでテーブルの脇の椅子に
座った。紅い色のお茶をすすると、外の冷たさが伝わって冷えた体に、暖かさが染み渡った。
「アダムさん、まだ上手く歩けないですよね」
「ああ。まだ少し時間がかかりそうだ」
「歩けるようになったら、またどこかへ旅をするんですか?」
「そうだな――私はきっとそうすると思う」
曖昧な言い方をした自分に驚いた。今までの自分だったら迷いなど無かったはずだ。私にはやり遂げな
ければいけない事があるのだから。そのためにはこんな所にとどまっていることはできない。
「おかしいな」
「え?何がですか?」
「私は相当弱気になっているようだ。このまま体が戻らなかったら、ずっとここにいることになる。あ
るいは、それを望んでいるのかもしれない。不甲斐ないな。今までの私は迷わず旅に出ると言い切って
いただろう。君たちの熱に当てられているのかな……」
「熱、ですか?私たちはずっと寒い町で暮らして……手も体も冷たいんですよ」
「だが、心には暖かい何かが燃え続けている。私は今までそんなものとほとんど縁が無かった。だから
それが私には眩しい。でも、ずっと見ているのも悪くは無い……そんな風に思ってしまう私がどこかに
居るのかもしれない」
「まあ――」
「やはり弱気になっているんだよ」
「――でも、それだって人生ってものじゃないですか。あなたがそれを望むならそんな人生だって選べ
るんじゃないですか?人には自由意志ってものがあるんですよ」
「うん――まあ、体が治ったら考えるよ」
「そうですね。大事なことだから、なかなか決められないかもしれません。でも、あなたが望むなら、
少なくとも私はあなたを受け入れてもいいんじゃないか、って」
ヴェルハは小さく「きゃっ」とつぶやいて、顔を背けた。
「も、もちろん体が治ったら仕事とかしてもらうことになりますけど、幸いこの家にはあなたを受け入
れるくらいの余裕はありますから……」
「本当に、ありがたいことだ――」
「そう、そう」
ヴェルハは少し赤みが差した顔を向けて、
「今まで色んな所を旅して回ったんでしょう?どんな国を見てきたのか、知りたいです。何でもいいか
ら話してくれませんか?私たちはずっとこの国から出られないから、外のことが知りたいんです」
「ああ――分かった。あまり面白い話にはならないかもしれないけど、いいかな……」
「ええ、もちろん。あ……どうやってこの国に入ってきたのかも知りたいです」
「私は、気がついたらここにいたんだ」
「あ、そういえばどうして雪原にいたのか分からないんですよね、変なこと聞いちゃってごめんなさい
。でも、この国に旅人が来るなんて聞いたこと無かったから――」
「いいんだ。そうだな……私は多分、この空の上から落ちて来たんだ」
「空の上?」
アダムは窓の外を見上げた。ヴェルハもそれに倣う。
「空の上の星星にいくつもの世界が広がっているのさ。そして、その中の一つに私は生まれたんだ。そ
こでは私は王子だった。だが、学問を学ぶために他の星に招かれたんだ。だが、特別な研究をしている
機関に入ったら、機密を漏らさないように、と二度とそこから出られなくなってしまったんだ。それか
ら色々あってな。その世界は失われて、私は一人になった。でも一人では寂しいだろ?私は旅を始めた
のさ」
「本当にそんなことが――」
「いや」
アダムは弁明するように手を振って、
「戯言さ」
「戯言――」
ヴェルハはくすりと笑った。
「あはは、そうですよね、いきなり星の世界から来たなんて……そんなこと言われて、びっくりしまし
たよ。真面目な顔で戯言って――」
「ああ、友達にも言われたよ。真面目な顔で戯言もほどほどにしろって」
「でも、どこまで本当なんですか?」
「それは想像に任せるよ。じゃあ、話をしようか――」
アダムはヴェルハに今まで訪れた世界の話をした。それらの世界はこの世界とは直接繋がっていないの
だから、この国の外の様子を知る手がかりにはならないとアダムは思っていたが、そのことは伝えずに
、ただ、この国以外にもこんな場所がある、というような話し方で旅の記憶を語った。その間ヴェルハ
は感心していた。この国には海や砂漠はなかったが、今までアダムが旅してきた世界にはそれもあった
。この寒い雪の国とはまるで異質な世界を、必死に頭の中で想像しようとしている事が見て取れた。
いつしか窓の外が夕闇に染まる頃、彼女は夕飯の支度ということで部屋を出て行った。アダムが自分の
旅路を語ることは初めてだったかもしれない。彼はそんな自分も悪くは無いと思い始めていた。やがて
ミルトンが日課である雪原の探索から帰ってくると、夕食の準備は整っていて、アダムも初めて自分で
居間に歩いて行き、一緒に食事を取った。
「ええー、姉ちゃんそんなこと聞いたんだー……ずるっこいなあ。じゃさ、旅人さん。ぼくにも旅の話
聞かせてえな」
「こら、食事中よ。後にしなさい」
「うー、分かったよ。またいつか聞かせてよ」
「でも、あんたいつも雪原で遊びまわってるじゃない。そんな時間あるの?」
「別にずっと遊びまわってるわけじゃないよ、学校行ってるじゃんよ!」
「ちゃんと勉強してるの?それならかまわないんだけど」
「ちゃんとしてるってばさ!だから、今度の休みの日に聞かせてもらうよ」
「アダムさん、いいですか?こんな子ですけど、またお話聞かせてくれますか?」
「ああ。いくらでも話すよ。ミルトンは私の恩人だしね」
「やった!じゃあ、楽しみにしてるよ!」
「ありがとうございます、アダムさん」
食事が終わるとミルトンはすぐに体を洗って自分の部屋に引っ込んだ。いつもすぐに眠ってしまうらし
い。ヴェルハは食事の後片付けをして、それから居間で本を読み始めた。就職のために色々勉強してい
る最中だという。今まで働かなくても大丈夫だったのかと聞くと、今は家を空けているが、もう一人家
族がいて、その人が生活費を稼いでいるとの事だった。
アダムは部屋に戻りベッドに横たわった。彼は暖かい布団に包まれて考えた。
「駄目だ――このままでは」
いつまでも同じ生活が続くわけじゃない。やがて終わりは来るのだから、いつまでも居座ることなどで
きやしない。ノア――ノア。ここに居る。暗闇の調子はどうだ?白、いや、銀色。天の涙も凍りつくこ
の世界で、私は今何をしているんだろう?どうしようもない。誰か助け出してくれ。私はまだ戦えるは
ずだろう。牙を抜かれるのを恐れている。怖い――怖い。ぎらぎらと光っている心の刃を振り下ろそう
にも、いつの間にか錆付いている。朽ちた枯れ木。腐った死体。血の臭い。進め!立ち止まれない。足
をとられて転んだら、いつの間にか体中が埋もれて身動き取れなくなっているんだよ!何故だ。電話を
掛けてくれ。すぐにそこに行くから――
いつの間にかアダムは雪原の中に佇んでいた。どうやってこんな所に来たんだ?そう、ベッドから出て
、本当はもう足だって元に戻ってた。彼女たちの気を引きたかったのか?こっそりと家を出た。一面の
銀世界だよ!雪の勢いはほとんど無かった。家を出てから裏のほうに歩いていったら、いつの間にか明
かりが見えなくなっていた。でももう戻る必要も無いさ。今からこの世界を抜け出るんだから。
「ノア――ノア」
もう一度その名前を、今度は声に出して呼びかける。彼が今どこに居るのか。この世界はつくづく調子
を狂わせる。<無意識>にもらった情報もこの世界の規律の中では無意味だ。無意味、無駄、そんな問答
は彼を説得するときに使ったっけ……全てのものに意味は無いはずだ。自分にとって無駄にしないこと
が重要だ。でも、どんな生命ですら無駄だというのか?ヴェルハとミルトンの顔が思い浮かんだ。何故
だ?私は、あの彼のため――そうだ。楽園を見たような気がする。彼はそこに居た。記憶が曖昧だ。そ
う、彼のために私は動いている。彼だけが大事なんだ。彼のためには、こんなところでくすぶっている
わけにはいかないだろう?よし、ならばこの世界を出よう。
「ゲート――ゲート」
この世界に穴を開ける。すぐに元に戻るが、世界の外に直結するような穴を。そこに飛び込むんだ。つ
まり<ダイヴ>だ。今一度、<セル・ワールド>の合間、暗闇の世界に身を落とす。腕で大きな円を描き、
そこはもう世界の外に直結する。
(そう、この世界から出られるはず――なのに!)
「何故だ……」
そこには周囲と全く変わりない空間が広がっていた。本当ならそこに世界の裂け目ができているはずな
のに。
「どういうことだ……?」
訳が分からない。一体何が起こっているのか。いや、起こっていないのか。遠くからヴェルハの声が聞
こえる。この世界から出られない?アダムの意識は遠のいていった……

>>basis_11 高い塔の男
土台この世界はおかしかったんだ。何故ここまで人間が集まって、国を作り上げるほど大きな世界が形
成されているのか?こんな世界、今まで見たことが無い。せいぜいあのモアという少女の世界くらいし
か知らない……だとすればこの世界もまた誰か一人のルーラーが支配する世界だとでも言うのか……恐
らくそれはないだろう。いくらなんでもこんな世界が一人のルーラーのもとで生まれるとは思えない。
それにしても、何故この世界から出る事ができないんだ?今まで見てきた世界は好きなように出入りで
きたはずだ。私の力が無くなった訳ではないだろう。だとすれば、この世界が力を封じているのか……
どうすれば出る事ができるのか?
アダムは深い思索の中から、突然呼び戻された。自分の名前を呼ぶ声がする……
「アダムさん――アダムさん!」
そして彼は目を覚ました。
「ううう……ヴェルハ?」
「アダムさん……良かった――目を覚ましたんですね」
アダムはまたベッドの上で布団に包まれていた。まだ外は青黒い闇が支配する夜のままだ。天井に座し
た照明が眩しいほどにヴェルハを照らしている。
「ヴェルハ……そうか、私は君に助けられたのか……」
この脱出できない世界で死んでしまったら、本当に消えてしまっていたかもしれない。アダムは彼女に
感謝した。
「アダムさん……」
ヴェルハは涙目になって、顔を覆った。
「う――」
「お、おいヴェルハ――」
アダムは手を差し伸べた。
「――ば――馬鹿っ!」
「え……」
「何でそんな体で、そんな格好で外に出たんですか!私が見つけられなかったらもう凍死していたかも
しれないんですよ!私が気づかなかったら……もう――何であんなことしたんですか……本当に馬鹿で
す!人に心配かけさせないでください!本当に――もう――馬鹿……」
「ヴェルハ……」
「でも――良かった。無事でいてくれて、本当に良かった……」
彼女はアダムの手を両手で包み込むように握り、
「もう――心配かけさせないでください」
「……ごめん、ヴェルハ」
彼女はやはり暖かい。握った手から伝わるぬくもりが、体を伝って心まで染み渡るかのように。
「黙って出て行こうとした。別れは辛いから――何も言わずに出て行ったほうがいいと思った。でも、
それは間違いだったんだな――」
「あなたがどこに行っても、あなたの勝手です。でも、何も言わずに消えるなんて、そんな酷いことは
許しませんよ。私たちは、もう関わってしまったんですから……」
「すまない――」
「許しませんから!」
「ああ」
アダムは目を閉じた。彼との思い出によく似ている。こんなに心が安らぐのは、本当に久しぶりだ。確
かに私には使命がある。それは今でも諦めていない。でも、この世界を出る方法が見つかるまで、いや
、この世界を出るまでは、新しく築いたこの関係性を大事にしよう……そう思った。安らぎの中眠りに
落ちていくのは、何より心地よい。
夢は見なかった。一晩明けて目を開けた彼が見たのは、ミルトンがなにやら彼の顔に手を伸ばしている
ところだった。
「……うっ、な、何をしているんだミルトン!」
「あーあ、目が覚めたんか、おはよう旅人さん。残念無念」
「今、何を……」
「その眼帯、何か気になったから……寝てるときくらいはずしてもいいっしょ?でも、外そうとしたら
外れないんだよなあ……どうしてさ?」
「これは、私の大切なものだよ。大事な人にもらったのさ」
「へえー、誰にもらったん?」
「それは――」
「あー、言いたくないならやっぱいい!でも、そんな眼帯しているって事は目が見えないの?それにし
ては動きが自然なんだよなー……本当は見えてるんじゃないん?」
「ああ。確かに見えている。君の顔も見えている」
「やっぱりそうか!どうして見えてるのかわかんないけど……ところで、ぼくってカッコいいん?」
「うん――少なくとも悪くは無いと思う」
「よっしゃ!自信ついたぜ!姉ちゃんはいつもぼくを子供っぽいって馬鹿にするんだよ。本当にまだ子
供なのにね。これでも結構モテるんけどさ!」
「へえ。好きな子はいるのかい」
「いやあ、まだ今のところは――」
その時、ドアが開く音が響いた。玄関だ。そして続いて男の声が聞こえる。
「ただいまー」
ヴェルハの声がその声に応対し、
「お帰りなさい、ユリウス――」
「ああ、久しぶりの我が家だ。お土産を持ってきたよ、これ。ミルトンはどこに居るんだ?」
「ミルトンはあなたの部屋に――」
「何だって?また僕の部屋を荒らしているのか?ようし、戦いだ」
「あ、ちょっと待って――」
廊下を歩く音が聞こえ、突然にドアが開け放たれた。細身で高身長の青年が入って来る。
「おーい、ミルトン……」
彼の目に、ベッドに乗ったままのアダムが映った。青年は硬直する。ミルトンはアダムの膝の上に載っ
たまま、
「あ、あはははは、ユリウス兄い……おかえり……」
ミルトンの言葉に、
「お、お前誰だ!泥棒か?」
アダムは戸惑った。もしかして彼が、ヴェルハの言っていたもう一人の家族なのか。
「くそっ、子供を人質にとるなんて卑怯だぞ!ミルトンを放せ!」
「違うってば、ユリウス兄……」
「ふ――」
ユリウスは急に涼しい顔になった。
「分かってるよ、今のは冗談さ、ミルトン」
「ああ、何だよ、分かってたんだ……」
「うん。その人はお前の恋人ってことだな。でも、真昼間からそんなことをするのははしたないぞ」
「はあ?そんなこと、って……」
ミルトンはアダムの足の上に乗っかっている自分を見て、
「ち、違う!何もしてない!変なことはしてないぞ!」
「隠さなくてもいいさ。見なかったことにしてやるから。しかし、眼帯をつけたりして、随分いい趣味
を持っているみたいだな」
「ち、が、う!なんも分かってないだろがあ!!!」
それから、ヴェルハが部屋に入ってきて事情を説明した。行きがかりの旅人であるアダムを助けて、家
を空けていたユリウスの部屋に運んで看病したことを。彼はすぐに理解して、アダムを受け入れた。
「うん……僕も君のことを快く受け入れる。困ったときはお互い様って言うしね。何なら、家族の一員
になってもかまわないよ。なあ、ヴェルハ?」
「何で私に聞くのよっ。でも、良かった。反対するかもしれないと思ったから」
「可愛い妹や弟が信じている人間を、僕が裏切れるわけ無いだろ」
「ふーん、優しいのね、ユリウス」
アダムは、彼の心に報いるため、真摯な態度を見せようとした。
「ありがとう。心から感謝する、ユリウス」
「ああ。今夜は客間の布団をひいて寝るよ。どうせ明日にはまた仕事に戻らなきゃいけないんだ」
「えー、今日だけしか居られないわけ、ユリウス兄?久しぶりに帰ってきたかと思えば、またとんぼ返
りかよっ!」
「あらら、今夜はご馳走にしないと」
「……ユリウスは一体どんな仕事をしているんだ?そんなに大変な事をしているのか」
「大変だ。ああ、大変な仕事は自己を向上させる足がかりだという。まあね、確かにそうかもしれない
が、いくら向上しても大変なものは大変さ。そうだ、外に出てみよう」
アダムは突然の誘いに不思議に思ったが、言われるまま外に出ることにした。
外には雪が積もっていったが、今は降ってはいなかった。銀世界は晴れ上がり、そう高くない建物ばか
りの町並みに、空気も澄み渡って遠くの景色までよく見渡せた。
「見えないかい、アダム」
「まるで分からない……」
「ほら、そこさ」
ユリウスが指差した先には、天と地を貫く巨大な物体が聳え立っていた。アダムにはそれがなんなのか
分からなかった。
「何だ、あれは……そんな、構造物にしても大きすぎるっ、軌道塔どころじゃない」
「バベルさ」
「バベル……」
「雲を貫き、天を貫き、神の世界――あの、宇宙だよ――を目指し、高く高くどこまでも聳え立ち、常
に自身の進化を目指している。かつてこの世界を構築した神の領域を目指し、そのために人間の英知を
結集した塔。バベルの塔。僕はあれを完成させるために働いているのさ」

>>basis_12 封印都市
雪原の中をスノーモービル車が走っていた。一面の銀世界だ。遠くに林が見えるような気がするが、再
び降り始めた雪に隠され鮮明に目視することはできなかった。変わらない景色、そこには車の動作音だ
けが聞こえ、その音と車の振動だけが、感覚を伝え、ここに居る、という事を実感させた。しばらくの
間走っていると、雪原の向こうの空が地平線からだんだんと暗くなっているように見えた。朝から出発
したというのにもう夜が迫ってきているというのだろうか?よく見れば前方の空は暗くなっているが、
後方の空はまだ白んでいたままだ。更に進むうちに、それが大気ではなく、一つの大きな壁が眼前に迫
っている事が分かった。そこには一つだけ門があり、その巨大な両の扉を閉じていた。門の下には小さ
な窓口のような建物が造られていた。車がその横に着くと、備え付けられていたスピーカーから声が聞
こえた。
「認証。身分を応答されたし」
開いた車の窓から、男がスピーカーに向かって応対する。
「バベル建設管理責任者、ユリウス・ルーゼン」
「確認……アポイントメントなし、出国は許可できない」
「……だそうだ。どうする?」
ユリウスは車の後ろに座っていたアダムに話しかける。
「話させてくれ」
「オーケー」
車の後部の窓が開く。アダムは身を乗り出してスピーカーに話しかける。
「もし、私の名はアダム。私はこの国の人間ではない。事故によってこの国に直接落ちてしまった。出
国を許可して欲しい。身分確認しても見つからないはずだ」
「確認……アポイントメントなし、出国は許可できない」
「私はこの国の人間ではない!元の場所に帰るだけだ。確認してくれ」
「出国は許可できない……」
「……駄目か」
アダムはうなだれたように体を戻した。
「だから言っただろ、この国からはそう簡単に出られないんだよ」
「確かにそのようだな。ああ、わざわざ試しに来てもらってすまない」
「まあ、気持ちは分かるさ。それに、僕もこの国を出たいと思ったことは何度もある。でも無理なんだ
。一般人にこの国境を越えることはできない。飛行機だって一部の有力者しか自由に使えないんだ」
「と、すれば、この国を出る方法は……」
「国境を越えられる有力者は、世襲で地位を受け継いだ奴らだけだ。どうしようもない」
「そうか――では、もはやここから出ることはできない――」
「そういうことだな」
「すまない。もう帰ろう」
「ああ――」
車は雪原を逆行して都市のほうへと帰っていく。再び静かに雪原を進んでいくが、今度はユリウスが沈
黙を破った。
「アダム――」
「何だい……」
「何なら――本当に、僕らの家族になってもいいんだ。僕自身は別に君を信用しているわけでもない。
なんせ、今日初めて会ったばかりだしね。でも、ヴェルハやミルトンが望むのなら、僕は何も言う権利
はないし、歓迎する。もし、君が望むのなら、って話だけどね」
「ああ――ありがとう。でも、考えさせて欲しい」
「うん、いつ決めてもいいよ」
「幸せ者かもしれない――けど、今までを捨てることも……難しい」
「うん……」
車が雪原を走って、都市のほうに近づいていくと、斜め前方に小さな人影が見えた。それに近づいて、
車は走行を止めた。
「ミルトン!」
ユリウスは車の窓を開けて、雪原にしゃがみこんだ少年に声をかけた。
「ああ、ユリウス兄、旅人さん」
「何してるんだ、こんなところで……」
「へへっ、ちょっと探し物さね……」
「あんまり遠出して迷ったりするなよ?ちゃんと帰れるか?」
「うん、大丈夫だってば!ナビは持ってきてるから、自分のモービルで帰れるんよ」
「そうか、でもほどほどにしとけよ」
ユリウスの言葉に、アダムも頷いた。
「家族に心配をかけないようにな」
「大丈夫だっての、心配しなくても、ぼくはいつでも元気っしょ!」
ユリウスは微笑み、
「うん、じゃあ、僕らは帰るけど、早めに帰って来いよ」
「分かった。じゃ、また家で」
車は再び動き出し、都市部に戻り、ユリウスたちの家へと帰っていった。その夜、ヴェルハはご馳走を
作った。夕食後、ユリウスはミルトンとゲームをして、ヴェルハの勉強の相談に乗り、くつろいで、ソ
ファに座ったまま眠ってしまった。そんなユリウスにヴェルハは彼の体を横たわらせて布団をかけてあ
げた。翌朝早くからユリウスは家を出て行った。バベル建設管理責任者。その肩書きが何を意味するの
か、アダムには分からなかったが、大変な仕事であることは分かった。そして、彼の仕事がうまく運ぶ
ように心の中で念じるのだった。せめて、それぐらいだ。

>>basis_13 マリアストリュク
ミルトンはどたばたと大きな足音をたてながら廊下を走った。
「じゃ、いってきまーす!」
「いってらっしゃい」
ヴェルハとアダムは彼を送り出す。少年は自分のスノーモービルに乗って、家を出発していった。
「もう、あの子ったら、いつも慌しく出て行くんだから……もっと早く起きて欲しいわ」
「寝るのは早いのに、なかなか起きられないみたいだな。なにか疲れているんだろうか」
「そうですね……やっぱりあれか、うーん……」
アダムは彼女が何を言おうとしているのか分からないが、彼女は何も言わずに朝食の片付けに戻った。
ミルトンが学校に出かけてから、アダムはヴェルハの家事を手伝った。彼女が買い物に出かけている間
、彼女の勉強していた本に目を通してみた。特別難しいものではない。アダムも教育を受けた、学校教
育の延長のようなものだ。ヴェルハが帰ってきてから二人で昼食をとり、その後、アダムは彼女に相談
を受けた。
「ミルトンのことなんですけど、最近帰りが遅すぎて」
「ああ――学校の後、雪原に行っているらしいな」
「そうなんですよ。でも、何をしにわざわざ雪原に行っているのか、あの子何も話さないんですよ。最
初はただ友達と遊んだりしているのかと思ったけど、一人で何かしているみたいで」
「何かを探しているらしいが」
「そうなんですか?何を探しているか聞いたことはありますか?」
「残念ながら分からない。何を望んでいるのかな……」
「うーん……じゃあ、アダムさん。ちょっとお願いしていいですか?」
「ああ。彼の動向を調べるんだな……」
「押し付けるみたいでごめんなさい。お願いできますか」
「勿論引き受けるよ。居候の私には……いや、そうでなくとも君たちは恩人だしね」
「ありがとうございます……」
「じゃあ、とりあえず彼の学校に行ってみるか……」
ミルトンの通う学校は、10代中盤までの少年少女を対象に総合的な学習を行う、何の変哲も無い学校だ
った。ヴェルハたちの家から歩いて15分程度の、住宅や商店が立ち並ぶ街中に堂々と建てられていて
、高い塀の中に聳える校舎は2号あり、外見は、煉瓦を並べて作ったような、建築に美しさを感じさせ
る造りだった。アダムは客用玄関から学校に入り、内部は煉瓦ではなく、しっかりと舗装がされていて
堅固な構造だと分かった。彼はミルトンに見つからないように、事前に連絡を取っておいたミルトンの
担任教師と職員室で会った。その教師は、その時間には授業が無いとのことだったので、放課後でもな
いのに会う約束が取れたのだった。
「ああ、あなたがミルトン君の保護者ですか」
「保護者代理です。少し事情があってね」
「そうですか。それで、お聞きしたいことはなんですか?」
「ミルトンが、最近家に帰るのが遅いんです。学校が終わったあと、すぐに帰ってこない、と」
「そうですか……いや、私どもの指導では、道草せずに早く家に帰るように言っているのですが」
「彼は、学校の後に、雪原に行っているようです。そこで何かを探しているようですが、何を探してい
るのか聞いたことはありませんか」
「すみませんね、私にはちょっと分かりかねます。……そうだ、彼の友人になら何か話をしているかも
しれない。今日の放課後にでも、何人か残して聞いてみますよ」
「私が直接聞き出してもいいでしょうか」
「あなたが、ですか?まあ、かまいませんよ。どうせもうすぐ今日の授業は終わりですしね……」
アダムはしばらく応接室で待った。授業終了のチャイムが鳴って、更にしばらく待ち続けると、先ほど
の担任教師が数人の児童を連れてきた。
早速アダムは、ミルトンが一体何を探しているのか聞いてみた。だが、少年たちは口をそろえて知らな
いと言う。ミルトンは、親しい友にも何をやっているのか話した事が無いそうだ。とはいえ、最近ミル
トンは付き合いが悪くなった、という話もした。彼が雪原で何かを探すようになったのは、ある時期を
境にして始まったことらしい。しかし、それ以上手がかりは得られない様子だった。仕方ないので、担
任教師に言って、少年たちに、もう帰ってもいいと言わせた。だらだらと、教師も少年たちも部屋を出
て行った。が、そこに突然一人の少女が入ってきた。
「あ、あのっ」
「なんだい……」
彼女はちょっと震えて、それでも目を合わせて喋り始めた。
「お話、聞いてました……ミルトン君のお兄さん?違いますよね……」
「私は彼の家の居候だよ。名前はアダム」
「あ、あなたがそうだったんですか。確かに最近ミルトン君が言ってました……嬉しそうな顔で……」
「君は……」
「あ、私、マリアストリュクって言います……マリって呼んで下さい」
「じゃあ、マリ。君はミルトンの目的を知っているんだね」
「私、先生がミルトンくんの友達ばっかり呼び出すものだから、ミルトンくんに何かあったのかと思っ
て……いやあの彼が心配って言うか、でも私だってクラスメートだから色々あるじゃないですか、いや
、変な意味じゃありません、あのその……あ、でも知ってます……目的……一応……」
「君は彼の友達じゃないのかい……」
「わ、私はどうせ、彼の隣の席ってだけで……友達って言うほどじゃないし……私がどう思っていても
どうせ彼はなんとも思ってないだろうし、……」
「そうか、別に彼がどうしたって訳じゃない。ただいつも遅くに帰ってくる理由が知りたいだけさ。教
えてくれるかい……」
「は、はい。ミルトンくん、彼は雪原で探し物をしてるんです」
「それは知っているよ。何を探しているのかな……」
「あ、あのですね、何を探しているとかじゃないんです、いや違います、そうじゃなくて、ええと、な
んていうか。雪原じゃなきゃ見つからないから雪原で探し物をしてるんです」
「なるほど、雪原で何かを無くしたとかそういうわけじゃないんだね……」
「はい、つまりそういうことです。ええと……彼に聞いた事があるんです。その時の彼はなんと言うか
遠い眼を、じゃなくて、えっと……私とか他の誰かとか街とかじゃなくて……もっと遠く離れた所にあ
る何かを見つめるような……そんな輝きに満ちた眼をしていました」
「遠くを……彼は一体何を見つけようというんだ……?」
「花です」
「花……」
「雪の上に咲く幻の花……そんなものがあるって言うんです。それを探すために毎日雪の中を探してい
るんだって……そう言ってました」
「そんなものがあると――彼は何故それを探そうとしているんだい……」
「す、すいません……それは分からないんです。でも、彼はああ見えて意外と賢い子だと思うから……
なにか理由があると思うんですっ……」
「そうか。でも、教えてくれてありがとう、マリ」
「あ、でも、ほんとにそれだけしか分からなくてごめんなさい……あっ、私が教えたことは秘密にして
くださいね、ばれたら怒られちゃう……じゃ、じゃあそれだけですから……さ、さようなら……アダム
さん……」
「あっ、ちょっと――」
マリは足早に去っていった。まあ、話すことはあれだけだと彼女が言うのだから仕方ない。彼女はミル
トンのことをどう思っているのか気になったが、そこまで詮索するのは失礼だ。とりあえずこれ以上に
情報を得られそうにはないので、ヴェルハの待つ家に帰ることにした。
帰り道の途中、アダムは違和感を感じていた。あの教師や子供……そしてマリ……彼らに感じた違和感
。人間と<代替物>……その狭間が頭の中で揺らいでいる。だが不自然なことではない。モアフィールド
と同じであれば……だとすれば、<ルーラー>を探し当てる必要がある。だが今は……仕方が無いんだと
自分に言い聞かせた。
家に着いた時ミルトンはやはりまだ帰っていなかった。アダムはヴェルハに学校で得た情報を話した。
「ミルトンが花なんか探してるの?ふーん……成る程、あの子も隅に置けないわね」
「どういうこと……」
「あの子ががわざわざ自分で眺めるために花を摘もうとするなんて考えられないわ!きっと好きな女の
子にプレゼントしようとしてるんだわ……ふふ、一体誰なのかしら?あ、まさかそのマリちゃんかな」
「そういうことか。確かに、あの子にしか花のことを話していないようだから、その線もあるか」
「ま、そういうことならしばらくは放って置いたほうがいいかもね。あまり度が越すようなら注意しな
きゃいけないけど」
「そうだな……」
それから、ヴェルハは夕食の下ごしらえだけ準備した。その間アダムはヴェルハに教えるために、彼女
の本を読んだ。「帳簿書記検定」「語学を楽しむ本」「雪の女王」……何か関係なさそうなものも含ま
れているが、色々と眺めているうちに気づいたのは、歴史の教本が無いということだった。
(この世界も創られた偽りの世界ということか)アダムは現実に引き戻されたような気になった。この
世界で朽ち果てるわけにはいかない事を思い出したが、だがどうすれば出られるのだろうか?今はまだ
保留ということになるが……どうするべきなんだ?
二人はミルトンの帰りを待った。が、いつもなら流石に帰ってきているという時間になってもまるで帰
ってこない。それどころか、更に待っていてもミルトンは帰って来ないのだった。
「アダムさん、ミルトンに何かあったのかもしれない……」
「ああ、探しに行こう……まずいな、外は吹雪のようだし」
アダムが玄関のドアを開けると、チャイムに手を伸ばした少女の姿があった。

>>basis_14 雪の国のSOS
マリは慌てふためいて必死に言葉をつないだ。
「あ、あの、ミルトンくん帰ってきたかなって……じゃなくて、ええと、雪の花を取りに行くって言っ
てたから……あ、その、もしかして、いや、もし、もし帰って来れなかったらどうしようって……ミル
トンくん、帰ってきてますよね……?」
「いや」
アダムはゆっくりと首を左右に振った。
「帰ってきてないんだ……マリ、彼は一体どこに行ったんだ……」
「そ、そんな。ミルトンくん、本当に行っちゃったんだ……だって危ないから、止めたほうが……絶対
いいって……言ったんですよ!なのにミルトンくん本当に行っちゃうなんて……ごめんなさい……私が
止められなかったせいだ……私のせいでミルトンくんが……」
「いや」
アダムはマリの両肩に手を置き、
「まだ何かあったと決まったわけではない。探しに行こう」
「そうよ」
ヴェルハが後ろから声をかけた。
「あなたがマリちゃんだったっけ……ミルトンはどこに行ったの?まだ十分に助けられるはずよ」
「彼は山に行くって言ってました……この街とバベルの境にある大きな山です……」
「よし……ヴェルハ、どうする?警察に連絡するか?」
「こんな吹雪じゃ明日まで捜索に行ってくれないわ。私の手で探さないと」
「分かった……じゃあ私も行こう」
「ええ。ありがとう」
「あ、あの!待ってください……私も連れて行って……」
「なに……」
「こうなったのは私の責任です!彼を探さなくちゃ……それに、私にはきっと彼の居場所が分かります
……なんとなくだけど、彼の気配だけは分かるんです」
「そんな、危ないわ……」
「いや、連れて行こう。彼女は自分の責任を果たそうとしているんだ。私にはその重さが分かる」
「アダムさん……仕方ないわね、一緒に行きましょう」
「はい!」
3人はスノーモービル車に乗り込んだ。万年雪のこの地で発達した走行技術は、雪の中を極力安全に移
動することを可能にした。アダムにはこの操縦技術が無かったため、ヴェルハがマリの導きによって車
を走らせた。マリいわく、ミルトンは山の頂上を越えた先にある山腹辺りに雪の花があると睨んだのだ
そうだ。学校図書館の文献で調べたから今度こそ見つかるはずだ。そう言っていたのだと。そして単身
スノーモービルを走らせてそこに行ったと考えられる……
山間を横切る車道は一本道だった。ミルトンも途中まではこの道を使ったはずだ。
アダムは気にかかった事を聞いてみた。そんな場合ではないと思いつつも。
「この山道はバベルに続く道――バベルに行くために整備された道ということか」
「ええ、その通りです、アダムさん。そして、バベル建設は国家の重要な計画。計画に携わるものしか
バベル近郊に入ることはできません」
「バベルか……」
アダムは、何のためにそれが建設されているのかが気になったが、あまり関係ないことでヴェルハを煩
わせたくなかったので、黙っていた。
そして、しばらく車を進め、途中山腹の長い長いトンネルを通り、それを抜けて実際に車を走らせてい
くうちに、道の途中にミルトンが使っていたスノーモービルが見つかった。ヴェルハはすぐさま車を止
めた。
「やはり彼はここに来たのか……」
「ええ……彼の言ったとおりです。彼は昔の地図も調べて書き写していました。ここから森のほうに入
ったんだと思います」
「大丈夫かしら。あまり深く入り込んでなければいいけれど……」
アダムたちは車を降りてスノーモービルを調べた。異常はない。よく見れば足跡がある。うっすらと残
る足跡は、森林を通る獣道に入り込んでいた。森林のため降雪がさえぎられて足跡が残ったらしい。3
人は一列になって狭い獣道を進んでいった。アダムが先頭を務め、ヴェルハがマリを挟み込んで守るよ
うに動いた。道を進んでいくうちに、左側の樹が開けていった。そして、氷に包まれた岩壁が姿を現し
た。道は広くなり、進んでいくと、さらに右側の樹も開けた場所に出た。それを見たとき、アダムは自
らの目を疑った。雪の上に一面の花たちが咲き乱れていたのだ。寒々とした青く透き通る花の数々。ア
ダムは無意識のうちに足を前に突き出していた。
「あ、アダムさん、危ないっ!」
「え……」
マリの叫ぶ声が聞こえた時にはもう手遅れだった。アダムの足は突然ずるりと滑り、そのまま体ごと前
に落ちていた。急な崖を滑り落ちて、頭が岩盤にぶつかったところでアダムの意識はブラックアウトし
た。そしてそのまま冷たい空気を切って落ちていった。
「う、嘘でしょ……何がどうなっているの……」
ヴェルハは自分の見た光景が信じられなかった。目の前には雪の上にもかかわらず綺麗に咲いた花畑が
ある。これがミルトンの言っていたという雪の花?そこに近づいたアダムさんは、突然雪の中に落ちて
消えてしまった……一体、何が起こったというの?ヴェルハはもはや呆然と立ち尽くすしかなかった。
その目の前でどんなに信じられない事が起ころうとも。
アダムは鈍い痛みを感じながら目を覚ました。無意識のうちにゆっくりと体を起こしたのだが、それは
正解だった。暗い夜の闇の中で、目を凝らすと自分の体が半分、切り立った崖の上に引っかかっていた
事が分かった。すぐに、自分が落下して来た事を理解した。上方を見れば、とても高い所に断崖があり
、雪の塊がきらきらと、今までのどんな時より輝いて見えた。崖の下を見ると、夜空の中とは思えぬほ
ど輝いて見える光景があった。一瞬花のように見えたが、よく見ればそれは木々だった。一面の森が、
自ら怪しげな輝きを発しているのだ。そこまで理解して自分が落ちた理由に思い当たった。しかし、こ
のままここにいても仕方が無い。吹雪は勢いを増しているようだ。寒い。体の上にいくらか雪が積もっ
ていたことに気づき、このまま気絶していれば凍死していたかもしれないと考えた。そうそう時間もた
たないうちに目覚めたらしい自分の幸運に感謝した。
早速歩き始めた。左手の崖下を気にしながら、氷の結晶に包まれた岩壁を右手に伝って、下の方へと降
りていった。慎重に足を運ぶが、手がかじかんで滑り落ちそうになることもあった。何とか少しずつ降
りていくと、足場が少し広くなって、歩いていくと脇に洞窟があった。ここなら寒さも少しはしのげる
かもしれない。とりあえず朝までここで休むことにした。いくら輝きを発する森があっても、足元がよ
く見えなくてはどうしようもない。焦ってはいけない。朝日を待って動き始めるんだ……アダムは洞窟
の中に入っていく。突然、電灯の小さな明かりがアダムを照らした。
「旅人さん……アダムさん……あれ、また幻なんかな……」
「ミルトン……」
洞窟の中には先客がいた。皮肉なことに、それはアダムが救出するために探していたミルトン自身だっ
たのだ。

>>basis_15 雪の女王
「どうしてアダムさんまでこんな所にいるん……」
「ミルトン、君を探しに来たんだ。だが私自身も遭難してしまったらしいな」
「ああ、姉ちゃん心配してた?」
「ヴェルハも私と一緒に捜しに来たんだ……彼女は無事だろう」
ミルトンは軽くため息をついた。そして、明かりを洞窟の地面に置いた。
「そっか……悪いことしちゃったな……ぼくもう帰れないかもしらんね……」
「何を言うんだ。ヴェルハたちが助けに来てくれるさ」
「たち、って?」
「マリという女の子に教えてもらってここまで来た。彼女も一緒だ」
「ああ、あいつが言ったんか……当然だあね、ナビもなくしちゃったし、ここに来ることはあいつにし
か言ってなかったし」
「彼女も心配していた。一緒に帰るんだ」
「無理っしょ……姉ちゃんやマリがここまで降りてこられるわけないし。救助隊を呼ぶにも、この吹雪
が止まないことにはどうしようもないんよ。その前にぼくらの体力が尽きるよ」
「確かに、言っていることは正しいかもしれない。とりあえず朝まで待って吹雪がやむ事を祈るしかな
いか……」
「うん、この懐中電灯もそんなに寿命は長くないし、今動くのは自殺行為だし」
アダムは洞窟の中を見回した。狭い洞窟だ。奥行きもあまり無い。吹雪を避けるくらいにしか使えない
ようだ。ミルトンは大きなため息を吐いた。息が白い。
「あーあ……どうしてこんなことになっちったんだろ……やっぱぼくが雪の花なんて探していたから…
…もっと慎重に行くべきだったんよ」
「君もあの花畑を見たんだね……」
「ま、ね。やっと雪の花を見つけたと思ったら突然崖に落ちてた。全く訳が分からないっしょ。でも、
よく考えたら、確か、今まで読んだ本に書いてあったことだったんね。最初から思い出していればよか
ったんに」
「あの光る森が見せた幻だったと……」
「そう。蛍葉樹っていうんよ。あれは昼間の間光を葉の中に蓄えて、夜になってから蓄えた光を放出す
るんとか。樹自体に光はいらないんだってさ。人工的に作られた植物で、街灯の代わりとして研究され
ていたけど、何故か放棄されたって話だったね。何でこの山の中にあんな森があるのかは分からないけ
ど、放棄された理由は分かる気がするんよ。あれは幻を見せるんさね」
「恐らくは、あの樹が放つ光が吹雪によって散乱されて、あんな幻を見せたんだろう……それだけでは
説明がつかないが、光の入射角など、いくつもの自然的要因が重なって起こったものだと思う。あるい
は、光を放つという性質から大気の流れが変わって蜃気楼のような現象が起きたか……見かけは明らか
に花畑だった。それを調べようとして落ちてしまうのも仕方ないことだ」
「ははは……気休めはいいさ。結局、ぼくがあの花を探してなければこんなことにならなかったんしさ
。アダムさんまで巻き込んじゃったしさ」
「今更そんな事を言っても仕方ないさ。君は何故雪の花を探していたんだい……」
「……この国ってさ、昔はこんなんじゃなかったんだって」
「こんな、とは……?」
「こんな雪に覆われた国じゃなかったらしいんよ。昔は、どこもかしこも暖かくて、花畑が地の果てま
で続くような、そんな国だったって言うんだとさ」
「そうか、雪の花とはその名残というわけだね……」
「いろんな花があったんね。雪の花を見つけるということは、過去の楽園と呼ばれたようなこの国の姿
を知ることになるっしょ。ぼくは楽園に帰りたかったんだと思うんよ。永遠に咲き続けるという結晶花
を見つけることで、この雪に支配された国を元に戻す事ができるかもしれないってさ……」
「素晴らしいな。そんな遠大な計画を考えていたというわけか。でも、何故この国が雪に閉ざされてし
まったんだい……」
雪の女王が来たんだよ」
「雪の……なんだって?」
雪の女王さね。一人の魔女がこの国に雪をもたらしたんだ。信じられない話っしょ?でも、本当なん
よ。雪の女王はいるんだ」
「何故だい?」
「分からないよ。でも何故だか確信するんだ。誰もが信じているんよ。この国の万年雪は、一人の魔女
がもたらしたものなんよ!」
「そう思うほかに理由が無いということか……」
「まあね……」
「すると、雪の女王の他に炎の魔術師などもいるのだろうか?あるいは風や地の力を持つものも。世界
のエレメントがそれだけで出来ているとすれば……だがしかし、古代からの元素の捉え方は色々在るか
らな……」
「何の話しているの?」
「戯言さ」
「戯言……って、こんな極限状況で……死ぬかもしれないのに……ああ、やだ、死にたくないよ……姉
ちゃん、来てくれないんかな……いや、そっか、無理だったっけ……ああ、寒い……」
「元気を保たなければいけないだろう。くよくよしてたって仕方ない」
「ううううう……うん……でも、結晶花なんてどこにも無かったんかな。そうすれば、雪の女王なんて
いなくて、この雪も始めからずっとあったんかな。ぼくには分からない……」
「そうだな――歴史が正しいものとは限らない」
「うん、でも見つけたかったかんな……一輪の花、それだけで良かったんだ……」
「まあ、さっきまで戯言を言っておいてなんだが……もう喋るのも止めたほうがいいかもしれない。体
力を消費して心が疲れるだけかもしれないな」
「そうだね、もう眠ろう。明かりも消して……」
ミルトンは電灯のスイッチを切った。
「待て、こんな状況で眠ったらそれこそ死ぬかもしれない……」
「大丈夫だよ……この洞窟の中なら。何故だか……すごく暖かいから……」
「ミルトン……ちょっと……君がもし死んだら、私は……」
ミルトンは既に深い眠りに落ちていた。アダムはミルトンを揺り起こそうとしたが、普通に眠っている
ようなので安心した。実際に、何故か洞窟は暖かく感じる。
「信じるしかないのか。仕方あるまい……」
二人は洞窟の中で身を丸めて眠りに落ちた。

>>basis_16 ホワイトドレス
アダムは眠りと目覚めの狭間を漂っていた。何故私はこんな所にいるんだ?あの力が使えれば、こんな
事態に陥ることも無かったはずだ。この世界の法則はことごとく邪魔をするんだ。いや、もとよりそれ
が当然だったのかもしれない。私たちは世界の法則を破ってしまったため、ことごとく報いを受けたの
だ。だが世界の法則とはなんだ?それが起こりうることなのであれば、それ自体が世界の法則の中に組
み込まれているのではないか?だとすれば、この世界は私を縛っているわけではなく、元々尋常ならざ
る力が無視されているのだろうか……だが、何故そんな融通の効かない世界なのだろうか?今まで旅し
てきた世界ではそんな尋常ならざる力も発揮できていたはずだ。つまり、プログラムの密度が細部にわ
たって設定されているということか。通常の世界では、想定していない現象は無視されるが、この世界
においては、それすらも想定されてプログラムされている……ゆえに、尋常ならざる力は無視されずに
、世界の基本的な法則が適用される……分からない。これも仮定に過ぎない……一体何故なんだ?
アダムの思考が深く落ち、眠りとの境界が無くなる瞬間、突然、雪と共に吹きすさぶ風の音とは別の、
何かの音――いや、これは、ささやきだ――が聞こえた。
「眠らないで」
「なに……」
突然洞窟の中に響いた鋭い声に、アダムはすぐに気がつき、足元に置いてあった電灯を手に取り、ミル
トンを照らした。彼は眠りに着いたままだった。違う……あの声はもっと高く、女性のような声だった
のだから。
「目を覚まして」
再び声が聞こえた。夢でも幻聴でもない……意識は覚醒しているはずだ。アダムはミルトンを揺り起こ
した。
「う――うん……どうして……」
ミルトンはむにゃむにゃと口を緩めた声で喋り、アダムは口に指を当てて、
「ミルトン、何かおかしい――誰かがいる」
呆けた顔でアダムを見つめたミルトンは、
「誰か、って……一体なにさ……」
その途端、またあの鋭い声が聞こえてくる。
「ここを出て」
アダムは声の聞こえた方……洞窟の外だ!懐中電灯を外に向けて、
「誰だ……」と静かに訊ねた。
ヴェルハかマリが助けに来てくれたとでも?いや、それはありえない……彼女らにそんな力は無いだろ
う。声色もまるで違う……もっと鋭く、かつ繊細な感じのする声だった。こんな所にそんな女性が訪れ
るなんて、一体何者なんだ……
光に照らされた後姿は、まるでこの場に相応しくない、軽装の女性だった。薄手のドレスで、背中がか
なり露出している。両肩から手にかけても素肌のままだ。足元は素足に透明な靴を履いている……その
肌は蒼白だが、寒そうな素振りはまるで無い。
ミルトンはあっけにとられている様子だった。
「君は一体誰なんだ?」
アダムがもう一度尋ねると、その女性はゆっくりと二人のいる洞窟の中に振り向いた。鬱屈としたその
青白い顔は、美しく気品を感じさせ顔だった。だが、彼女は一体誰だ?
「だ……誰なの?君は……」ミルトンは、気を引き締めて、必死で口を開いた。
「ここを出なさい」彼女は質問に答えず、冷たい声で言い放った。
「無理だろ。ここを出たら凍死してしまう……どうしろと言うんだ、君は一体誰だっ」
「近々雪崩が来るわ……この洞窟も閉じ込められる」
「なんだって?何故そんな事が」
雪の女王!そうか、君は……あなたは、そうなんね!」ミルトンは突然に叫んだ。
彼女の目が全てを物語っていた。そしてその手を洞窟の中の二人から向かって右のほうに向けて、
「急いだほうがいいわ……洞窟の傍も巻き込まれる」
「一体どうして、私たちにそんな事を?」アダムは訊ねた。
「積雪を自由に操るのは難しいわ。世界のバランスを乱してしまうから……」
「そういうことか!ありがと、雪の女王さん……アダムさん、早く行かんと」
ミルトンはアダムの手を引いて洞窟の中から出た。そして、雪の女王の後についてに崖のふちの道を下
りていった。何故だか吹雪は彼らの行く手を阻むことは無かった。これこそ雪を操る魔女の力なのだと
二人は気づいた。しばらく急いで進んでいくうちに、左手の崖の方の岩場が盛り上がって、その上の樹
のおかげで天然の壁となり、右手の岩壁がえぐれて、かつ前後が細い道に戻っていて、一つの部屋のよ
うになった場所に出た。すると、後ろのほうから轟音が鳴り響いた。アダムとミルトンが後ろを振り返
ると、大量の雪が崩れて崖下に落ちていく光景が見えた。その壮大な自然現象に目を取られていたが、
雪の女王――彼女の言ったとおりだということを思い出し、二人は顔を前方に戻した。しかし、彼女の
姿はもうどこにも無かった。
雪の女王さん……あなたはどこから来たの?」
(――私はずっとあなたたちの傍にいる)
「ああ!声が聞こえる――」ミルトンは叫んだ。
「私にも聞こえる――あなたは一体私たちの何なんだ……」アダムもまたその声が聞こえていた。どこ
から聞こえているというんだ?それは、ノアと暗闇の細胞の中で交わしたコミュニケーションに似てい
た。口で会話をするのではなく、意思を直接伝え合う。
(私はどこにだっている――あなたたちはこの世界を変える事ができる。だからこんなところで死んで
もらうわけにはいかない)
「どこにだっているって……」
(そうよ。さあ、その花を取りなさい――)
「花……なんてこった!これが雪の花なんか!」
目の前の雪に閉ざされた岩盤に、その透明な花は咲いていた。雪の結晶をそのまま花にしたかのように
透き通って美しい形……
(それがあれば吹雪は避けられるわ)
「この花はあなたのものだったんね!この国が雪に閉ざされる前からあなたはいたんだね!でも、どう
して雪に閉ざしたりなんかしたんよ……」
(人の心が増大しすぎたためよ。あの時は仕方なかった――そして、その花は私の結晶。私自身も楽園
の構成要素だった。だからずっと昔から存在したわ――雪を降らせないけど、その花は咲き乱れ、私と
いう存在を示していた――)
「あなたは私たちに何をさせたいんだ?」
(いいかしら、アダム、ミルトン)
「あなたは、ぼくたちの名前を知っているの……」
(あなたたちはこの国に必要な――いえ、存在し続けなければいけない、そういう者たちなのよ――だ
から助けた。答えが知りたければ、塔に向かいなさい)
「塔……」
(この山を道なりに下っていけば、すぐにたどり着けるわ――今の私にいえるのはそれだけ)
「待って!あなたの名前は?」
(――ホワイトドレス、とでも呼ぶがいいわ――)
「ありがとう、雪の女王ホワイトドレスさん」
「私も礼を言おう……」
(――助けが必要ならば呼びなさい。そしてあなたたちは使命を果たしなさい。迷ったら"彼"が導いて
くれるでしょう。いいわね――)
「分かったよ」
もうホワイトドレスの声は聞こえなかった。ミルトンは結晶の花を手に取った。その目には、自分自身
の使命が宿っていた。アダムもまた、戸惑いながらも自分の向かうべき方向が理解できた。二人の周り
に吹雪は吹いていなかった。崖に沿った道を下っていくと、遠方に朝日が見え始めている。そして、そ
の光に照らされて巨大な塔がその輪郭を強めていく。アダムはそれに向かって呟いた。
「待っていろ――バベル」

>>basis_17 熱元素のおわす炉で
ピピピピピ、と電子音が鳴り響いている。その男のまぶたがうっすらと開いて、眠気に悶えた奇声を発
した。右の手を大きく伸ばして、自分の頭の上方を手触りで探す。中々それは見つからない。自らの動
きに業を煮やし、上半身を起こして振り返り、目の前の時計をがつんと叩いた。電子音は鳴り止み、男
は満足げな笑みを浮かべて再び体を横にする。布団に潜り込んだ彼から、寝息が聞こえ始める。しかし
、彼が安らかな眠りに溺れていると、突然、電撃が走った。
「痛っ!」
たまりかねて体を跳ね起こした彼は、今度はもう眠気が一瞬で晴れてしまったようで、瞼は見開かれて
いた。彼は頭をかきながら、右腕に取り付けられた腕輪を見つめ、
「畜生……今日もこの電撃をくらってしまったか……」
と誰にでもなく独り言を呟いた。部屋の中はがらんとしている。大きなベッドとクローゼットがある以
外、カーペットの上には何も落ちていないし、ベッドが面した窓際には、先ほど目覚まし機能を発揮し
た小さな置時計以外何もない。男はベッドから降りると、クローゼットを開けて、寝巻きから黒ずんだ
色のタートルネックの服を着込み、その上に白衣を着けた。部屋を出て、狭い廊下の向かいにある居間
に出る。キッチンで適当に支給食料の卵とハムを炒めて、同じく支給品のパンを取り出して朝食をとっ
た。これらの食料は、一般市街から、養殖場や屋内農場などで作られたものを新鮮なまま支給される。
あの建造物の建設計画者たちが出した資金によるものだ。それから寝室に戻り、厚手のジャケットを羽
織り、玄関で家を出た。
吹きすさぶ風と大粒の雪。気温は低い。だが、目の前には何も降っていない。気象のコントロールだ。
男は目的地であり、職場でもあるあの建造物を眺めた。いや、眺めるまでも無く、とても大きく視界を
支配しているのだ。まだ徒歩で数十分の距離にあるというのに。あの天を貫く塔、バベルは、それほど
巨大な建造物なのだ。男はバベルの基部の周りに作られた下町――バベル建設と管理に関係する者だけ
を集めて住まわせるために作られた市街――を歩き、いつものバス停にたどり着いた。ここから、建築
作業者たちを送迎するための、バベル内部に直通するバスが毎日定時に出ている。バスの中で揺られな
がら、男は実家の事を思い出した。通常の市街に住まう兄弟たちの事を。自分は彼女たちのためにここ
で働いている。だが、本当の兄弟ではない……彼女たちは知らないかもしれない、だがこの世界がどう
だっていうんだ?何もかも知っているつもりになってもそれが本当なのかどうか分からない。自分は何
故ここにいるんだ?全く訳の分からない世界だから、今のところ待つしかないだろう。そう、彼女がこ
こに来る事を。
「おはようございまーす」
十数人の男たちが、無数のコンピューターが立ち並び、前方に様々な画面が映し出されるスクリーンの
ある、広く立体的な段差のある部屋に入ってきた。彼らが入ってくる前からコンピューターの前に座っ
ていた男たちは、新しく入ってきた男たちと交替した。中には女性もいたが、全体でも僅か数人だった
。交替した前の男たちは、「おつかれさまでーす」とか口にしながら部屋を出て行った。彼らは皆、夜
勤のオペレーターだった。この部屋も、バベル下層部にある<管理局>の一部なのだ。
バベル建設――それはこの国最大の事業だ。何のためにそれが行われているのか、それを知るものは、
バベル管理建設に一生をささげることになる。ほとんど一般都市の家族の元には帰れず、帰れたとして
も、その腕輪についている装置によって、バベルの秘密を口外することは物理的に阻止される。それほ
どまでに徹底的に秘匿されているのは、何故か?それは、この世界の認識そのものを変えてしまうため
だと言う事が、それを知る者たちには分かっているからだ。当然の帰結として秘匿されている……
この部屋のオペレーターたちの仕事は、自動機構で行われるバベル追加建設の様子を見守り、何らかの
エラーや問題が起こったときに即時報告し、修正を行うことだ。そして、それは起こった。
「ユリウス主任」
オペレーターの一人が、部屋の中でもひときわ高い席に座っている男のもとに通信を送った。
「どうしたんだ?」
「それが、<炉>の出力に揺らぎが発生しているようで……すぐに<炉>の管理部に来てほしい、と……」
「そうか。参ったな、明日には追加の機械兵団の転送が決定しているのに……しばらく留守にする。後
はよろしく頼む……」
ユリウスは部屋を出て、長い廊下を横切りエレベーターに乗った。最下層の火力炉管理部を目指して。
バベルの最下層、更にその地下には巨大な火力原動ジェネレーターである<炉>が存在する。この<炉>は
、この国全体で使うエネルギーをほぼ全てまかなっている巨大な発電所でもある。それでも、発生させ
るエネルギーはそれをもっと上回っている。その分のエネルギーはどこに行くのか。それこそ、バベル
の建築理由にある。バベルの作動に使用する巨大なエネルギーをまかなっているのだ……
ユリウスはエレベーターを降り、円形の廊下を横切り、最下層の管理室にIDを照合させて入り込んだ
。中ではやはり多くのオペレーターが<炉>の
「ユリウス管理主任、申し訳ありません、わざわざお越しいただいて……」
「いいさ。それより、わざわざ私を呼んで、何が原因で出力が変動しているんだ?」
「それが、<炉心>がしきりにコンタクトを求めているのです。ユリウス管理主任ならば相手ができるか
と思いまして……」
「分かった……コンタクトしてやろう。だが、対話は認めない。一つだけ命令をするんだ」
「しかし、それでは……」
「<炉心>に安定剤投入と、コンデンサーの調節で何とかなるだろう。今はとにかく余裕が無いんだ。何
とか明日までに安定させてくれ」
「はい、分かりました……」
「頼む。私も調節を手伝うとしよう、グラフ上のプラグ出力を変えてみてくれ……」
ユリウスは思った。所詮<炉心>は自然現象に過ぎないというのに、人の手で上手く扱うのは難しい。人
の力も大したものではないのだ。いや、<炉心>自体が自然現象でありながら精神を持つという特異さを
考えれば、どうしようもないのだ。
「エレメンタルか……」
この国が雪に閉ざされたのも、エレメンタルの影響かもしれない。だが、誰がそんな事を信じるという
んだ?全く持って訳の分からない世界さ。