Victo-Epeso’s diary

THE 科学究極 個人徹萼 [CherinosBorges Tell‘A‘Bout] 右上Profileより特記事項アリ〼

Total Break Through - トータルブレイクスルー [reeling earth 3/3]


>>basis_29 セフィロティクスアロー(前編)
「正直なところ」アタナシオスは言った。「ワシは君の計画が本当に正しいことかはわからんのだ。た
だ……エンダーを救ってやって欲しいのだ。彼らは悲しい存在だ。たとえそれが人類に害を与えたとし
てもな……」
それからアダムたちは十のセフィラを回り、守護天使への巡礼を行った。直接接触したわけではないが
、セフィラ全体の中にあまねく存在する力、それが集合人格を作っている。ゆえにセフィラを巡り、そ
の世界を理解する事が守護天使接触することに繋がる。そしてエンダーの精神を探っていた。一行は
まず、第二のセフィラ・コクマーにエンダーが存在しない事を確かめた。それから小径アレフを通り第
一のケテルに戻った。そこにおいてもエンダーの存在は感じられなかった。次に小径ベートから第三の
セフィラ・ビナーに入った。そこには、墨汁をたらしたような漆黒の海があった。海面が黒光りし、ゆ
らゆらとした波が漂っていた。その上の大気に、辺りは濃密な霧で覆われていて、アダムはそこにコク
マーの灰色の砂漠にも似たようなものを感じたが、あの世界のように無数の塔が建っているようなこと
はなかった。しかし、目を凝らしてみれば、その水面は平坦ではなく、無数の突起物が海面から顔を出
していた。すぐにそれが居住施設だという事が分かった。巨大なビル状の都市が海中に存在し、ブイの
ように先端が浮かび上がっているのだ。その先端にはドームがあり、その頂点に近づくと自動的にその
天井が開き、内部世界にアダムたちを受け入れた。小さな都市がその中に形成されていた。降り立った
アダムたちを出迎えたのはその住人で、突然に無数の人間が集まってきて彼らを出迎えた。そこに感じ
た違和感は、明白な異常として気づくことになった。彼らを出迎えたのは全て男性だった。彼らは一様
に騒がしく……精神的に幼い大人たちを思わせた。彼らはそこでもやはり天使使徒として扱われた。も
の珍しそうに見ていた男たちに話を聞くうちに、この都市の構造がわかった。建造物は海中深くまで延
びており、いくつもの階層に分かれていて、それぞれが都市として機能していると言う。そして、ある
階層を隔てて、男性の住む階層と女性の住む階層が分かれているのだという。勿論、男性は上層部に、
女性は下層部に……男性は機械端末で好きな女性を見つけると求愛し、それが認められると交配をする
。子供が出来ると性別によってそれぞれの親の元へ預けられる……アダムたちがこれを聞いたとき、彼
は激しい既視感に襲われた。と言うよりも……それはまるで、コクマーの灰色の砂漠、その千の塔の内
部社会と同じ構造だ。何故こんな歪んだ社会がここでも再現されているんだろうか?それぞれのセフィ
ラは違う性質を持っているはずではないのだろうか。私のイメージでは、このセフィラは女性原理を表
す――にもかかわらず……この社会においては、男性は働くこともなく好き放題に生きる事ができ、女
性は都市管理の全ての仕事を押し付けられていると言うのだ。男性による女性蔑視も酷いものだった。
男性たちの話を聞いているうちに、一人の女性が二人の人間を引き連れて現れた。まだ子供っぽさの残
る顔立ちだったが、その態度は毅然としていた。彼女を守るように並び歩く警備隊と思しき二人も、ジ
ャケットに覆われた体とメットに隠された顔ではあったが、実は女性だったようだ。二人は銃も携帯し
ていた。アダムたちはやや警戒したが、メットを被っていない彼女はにっこりと微笑んでアダムたちを
出迎えた。彼女は群がる男たちを退けて、アダムたちを案内すると主張した。男たちは仕方ないという
ような顔をして散っていった。男は天使使徒の案内と言う役すら女に任せているようだった。彼女はア
ダムたちを下層の都市に引き連れていった。エレベーターから出て下層の都市に入ると二人の警備員は
いつの間にか去っていった。都市管理や食品製造のための仕事場が立ち並ぶ都市を案内しながら、彼女
は少しずつ自分の心情も吐露していた。彼女はやはり男性から全ての仕事を押し付けられることにいく
らかの不満を感じている様子だった。ミルトンはそのことに大いに同意していた。明らかにこんな社会
はおかしいだろう、と。アダムも頷いた。ユリウスは特に何も言わず、ユスティノスは自分の主張は一
切行わなかった。それから、彼女は下層都市の中心、都市管理塔の応接室に案内し、退いた。入ってき
たのは都市の管理者と名乗る初老の女性だった。ここは天使使徒が一人も定住していない都市だそうだ
。他に天使使徒のいる都市をサーチしますか、と問われたがアダムはその必要はないと判断した。もは
やこのセフィラにエンダーがいないことはわかっていた。しかし、立ち去る前に管理者の話を聞いてみ
ることにした。何故この都市はこのような社会になっているのか――ここまで案内してくれた女性の話
した心情をそれとなく伝えると、管理者の女性は言った。「あの子はまだ若いから分からないのです。
男なんかね、所詮愚かな存在なんですよ。社会的なストレスに耐え切れず他人に牙を向くのです。私た
ちは男たちから仕事を奪い、堕落させることで牙を抜いたのです。男どもは酒やギャンブルに溺れたま
ま何もすることは出来ません。そして何より、仕事をするというのは素晴らしいことです。確固とした
存在となり、社会へ貢献する喜び。それをどうして愚かな男たちに任せておけるでしょうか?それに―
―そんな愚かな男どもを包み込んであげると言うのが何より成熟した女性としての喜びでしょう?私た
ちはこれで幸せなんです」成る程、それも大いなる母、女性原理を表していると言うことか。そんな世
界もあるというのか――アダムは、少しオーバーだとは思ったが、こういう世界なのだから何を言って
も仕方あるまい、と思って口をつぐんだ。ミルトンは口をぽかんと開けてしばらく呆けていた。ユリウ
スは少し笑っていた。アダムたちは都市管理者の長々とした話から解放された後、すぐに次のセフィラ
へ出発した。小径ヘットを通り、第五のセフィラ・ゲブラーへ入った。今度は一面が赤い。地表は赤茶
けた荒野が広がっている。大きな段差が多数存在し、下のほうに大きな運河が通っていた。魚類や両生
類はいくらか見たが、陸上の動物は爬虫類や昆虫以外ほとんど見なかった。この世界の中心には都市が
あった。窪んだ地に建築された都市はやはり大きな段差があった。よく観察すれば、都市の囲いは五角
形になっており、その中心の遥か上空には建造物が浮かんでいた。アダムは何かを連想しかけたが、そ
れが何だったのかは思い出せない。あれは宇宙ステーションのようなものだろうか。それにしてはとん
でもなく低高度に飛んでいる。そもそもこんなイメージの世界に物理法則を考える事が無意味なのか?
一行は巨大エレベーターを通ってその場所に赴いた。通行の許可は、天使使徒を引き連れていることで
あっさりと許された。それほど守護天使の存在は絶対的なものとして各セフィラの人間たちに根ざして
いるのかもしれない。エレベーターは母星にあった軌道塔に比べればとんでもなく小規模で、すぐに天
空の建造物に届いた。都市で聞いた話によれば、建造物には有能な外科医がいるということだった。ど
んな病気でも、たちまちに治してしまうという。だが、そこに外科医はいなかった。アダムたちが会っ
たのは天使使徒だった。彼は言った。外の世界に動物はほとんどいない。この世界でも当然食用の動物
はどこかしらで人工的に育てて生産する、そしてそれはこの建造物が行う。そういう概念――設定――
になっていうのだという。誰がそんなシステムを作ったのか。それは天使使徒以外の民衆は気に止める
ことすら出来ない、絶対的な設定なのだ。天使使徒は言った。「確かに、この施設に来ればどんな病気
でも元通りに治る。だが、本当にそう思っているのは、直接ここに来たわけではない家族だけだ。全て
の動物を生産する事ができるこの施設なら、病気を患う前の人間を返してやることは出来るだろう。そ
の家族がたとえどんな生物の肉を食らっているか、どんな人格を持っていた生物の肉を食っているか、
知りはしないのだしな」ミルトンは顔をしかめた。ちゃんとその言葉の意味が解っていたらしい。ユリ
ウスとアダムは何も言えなかった。ユスティノスは天使使徒の仲間とは挨拶したが、特に何も言わなか
った。エンダーの波動は見つからなかったので、四人は次のセフィラへ移動した。小径テットを経て第
四のセフィラ・ケセドへ。このセフィラは慈悲を意味している。アダムは、次はどんな世界が待ち受け
ているのか考えかけたが、やめた。その世界がどんなものであろうと、エンダーがいなければ今の自分
とは関係ない……ケセドに入ると、今度は青い世界が待ち受けていた。微かに青い色のガスが周囲に満
ち満ちていて、とても普通の人間が住める環境ではなかった。だが、感覚を研ぎ澄ませて世界を探るう
ち、やはり巨大な建造物が聳えていることに気がついた。それは正四面体、つまり三角錐の様相を呈し
ていた。入り口は見当たらなかったが、その底面の一辺を回っていると、地面を掘って作られた通路が
見つかり、それを辿って建造物の下を這っていくと、大きな扉があり、自動的にそれは開いた。エアロ
ックを通って建造物の内部に入っていくと、中にはやはり巨大な都市が形成されていた。その都市の住
民たちは無関心なものが多かった。たとえこんな異常な場所にある都市に来訪者があっても、特に気に
していない……入り口を守る警備兵ですら、特に何も言わなかったのだから。だが、突然車に乗って一
行の前に姿を現した女性は、是非自分に付いて来て欲しいと言った。若く綺麗な女性だったが、ミルト
ンにはその顔がどことなく寂しげに感じられた。あえて追求することはなかったが。そして、一行はホ
テルのような場所に案内された。女性が言うには、宿泊に費用は要らない、明日大事な話があるのでゆ
っくり休んで欲しい、とのことで、アダムは何か不自然な気がする、といぶかしんだが、ユリウスが、
「大丈夫、いざと言うときは僕が何とかする」とのことで、彼の力を認めるアダムには反論が出来なか
った。それに、いくつものセフィラを巡ることで精神的な疲れもあったので、ゆっくりと休むことにな
った。四人はそれぞれ別の個室に入り、休んだ。だが突然にアダムは目を覚ました。アダムたちをこの
ホテルに案内してくれた女性がアダムのベッドの上に乗り、彼の眼帯をはずそうとしていた。アダムが
すぐに気づいて彼女を振り払って、一体何の真似だ、何をするつもりだったんだ、と問い詰めると、彼
女は突然泣き出してしまった。アダムが狼狽して、とにかく落ちていて事情を話すようになだめると、
彼女は静かに話し始めた。「この国では……<慈悲>という名の下に、病人や老人が<処分>されてしまう
んです……この施設はホテルではなくて……健康検査のための機関に過ぎないんです。私はそのエージ
ェント……国の支配者が命じてきたんです。来訪者であるあなたたちにすら、その審査を受けさせるよ
うにと……あなたの髪は老人のように白かった。でもその眼帯の――よくわからない何かの力――が邪
魔をして、検査出来ないと言うので……外そうとして……でも、私だって好きでこんな仕事をしている
わけではないんです!でも……命令だから……」アダムは、彼女が落ち着くのを待って聞いた。彼女は
その涙の訳を語った。「私には恋人がいました……彼の事がずっと昔から好きで……親の反対も押し切
ってやっと結ばれたんです。でも、彼は昔から病弱だった……だから、両親は反対していたんです。そ
れでも私は愛していた……彼は私の検査を望んだ。二人の未来を確固としたものにするためだって……
でも、検査は不合格……私が、私が彼に死の烙印を押してしまったんです。だから、彼の死を無駄にし
ないためにも……ずっとこの仕事を……って……」アダムはどういう反応をすればいいのかわからなか
った。この世界も偽りに過ぎないはずだ。それなのに……今までのセフィラで見てきたように……この
セフィラで起こっていることのように、何故悲劇は失われないのだろうか?この世界が出来たのはつい
最近に過ぎないはずなのに。つまり<集合精神体>の中において体感時間と実際に起こる時間は場所によ
り変わるのか?ノアも時間の圧縮と言った。だが、今はそんなことは関係ない。とにかく、この女性の
ためにするべき事があるはずだ……アダムは、他の三人を部屋に入って起こし、事情を話した後、その
施設を後にした。ミルトンはあの女性を慰めようとしたが、アダムは彼女に対しては何も言えなかった
。このセフィラの仕組みを変える事ができるとも思えなかったからだ。最も、ミルトンだけはそれを変
えようとしていたが……ただ――アダムは、こんな状態を生み出した何かを知らなければいけないと思
った。一行は都市の中心部へ向かった。天使使徒の名前を使い、この三角錐の都市<テトラハート>の支
配者がその玉座に収まっていると言う監視塔、その最上階まで乗り込んでいった。最後の扉を守る管理
人は、天使使徒の名前を出すと渋々と扉を開け始めたが、何があっても驚かないように言った。そこに
は、枯れ果てた裸の老人が全身にコードを巻きつけて巨大な試験管の中に浮かんでいた。老人はゆっく
りと目を開けた。その声は、試験管の前のごちゃごちゃした機械の中のスピーカーから聞こえてきた。
ぼそぼそとした喋り方で、あなたたちは誰だ、と言うのが聞こえた。ミルトンは驚いていたが、自分を
取り戻して、何故<慈悲>なんていう悲しい仕組みを生み出したんよ、と問い詰めた。老人は語り始めた
。「私は……延命処置を受け続けてこの都市の管理を行っている……だからこそ解るのだ……老いや病
に苦しむ者の気持ちが、誰よりも深く理解できるのだ。だからこそ私は彼らを苦しみから救ってやりた
いと思った。一思いに楽にしてやること。それこそが何よりの慈悲だろう?延々と苦しみが続くだけな
らば……楽にしてやることこそ最高の対処だ……」ミルトンはその言葉を聴いて憤りを感じた。「違う
んよ、あなたはきっと自分が楽になりたいだけなんだ。本当に救って欲しいのは自分自身なんでしょ?
それを他人に施すことで感情の埋め合わせをしているに過ぎない!苦しくても少しでも長く生きていた
い、そんな人もいるはずじゃんか。それを無視するんはただの身勝手に過ぎないでしょ!」老人は静か
に目を閉じた。「少年よ……まさしく君の言うとおりだ。私はもう疲れたのだよ。楽になりたいのは自
分自身だ。こんな事を続ければいずれ報いが訪れて私の身を殺すだろう。そんな思いもあった。だと言
うのに……この都市の住民はなんだ?私という存在に逆らうこともなく、ただ悲しみを甘受するだけ。
そして私は生きているとも死んでいるともいえない状態で都市の管理を任され続ける……こんな世界、
もう嫌気が差しているのだ。少年よ、頼みがある。そこにある装置であるプログラムを起動させて欲し
い。それは私を殺すためのプログラムだ。私を殺して欲しい。私は……疲れた……」その言葉にミルト
ンは苦悩した。誰かの悲劇を減らすために、この人を殺さなくてはいけないなんて……この人もまた被
害者に過ぎないと言うのに、何故そんな事が必要なの?ミルトンは激しい葛藤に襲われたが……アダム
もユリウスも声をかけることは出来なかった。そしてミルトンは決断を下した。彼の瞳は少し濡れてい
た。このセフィラ・ケセドにもエンダーはいない。一行は次なるセフィラに進んだ。

>>basis_30 セフィロティクスアロー(中編)
                       一行は小径カフを通って第七のセフィラ・ネツァク
へ進んだ。このセフィラは勝利を表す。そして、眼前に広がるのは緑溢れる草原。その小高い丘の上に
出た。遠くのほうに緑色の山も見えた。その谷間にも森林があり、その辺りから空に向かって巨大な白
い彫像がつきだしていた。ほぼ全裸の女性が手に何かを掲げて立っている、そんな形に見えた。その彫
像の下には都市があった。丘の上からは見えなかったが、高い塀に囲まれた大きな都市だった。その扉
のない門に近づくと、警備兵が快く迎えてくれた。案内として都市管理部のエージェントを呼び出して
くれた。その通信中、通信機の向こうには二人の男の声があったが、その二人の間に言い争いがあった
。下らないことに、どちらが案内役を務めるかについての口論のようだった。結局、一方が折れると、
もう一方は「よっしゃ、俺の勝ちだ!」とはしゃいで、まるで客人のことなど忘れているかのようには
しゃいだ。しばらくしてから、大きな車がアダムたちを迎えた。車から降りた若い男は丁重に挨拶をし
たが、その声は明らかに先ほどの口論に勝った男のものだった。アダムが車に乗り込むと、運転席には
別の若い男がいた。勝った方の男も車に乗り込み、運転手に向かって合図をした。運転手の応答を聞く
と、その声は先ほどの口論で負けた方の男のものだった。運転手はほとんど何も言わず車を走らせて、
都市の案内は勝った方の男が早口で務めてくれた。男の話によると、この都市は何よりも『勝利』とい
うものが大事にされる国なのだと言う。何をするにしても、勝者は称えられ、敗者は蔑まれる傾向があ
るという。だからこの都市の人間は、何をするにしても負ける事がないようにしなければいけないのだ
。巨大な裸婦の彫像は、勝利の女神ということだ。それを語る案内人の男は、運転手の男とは同僚だが
、常に運転手の男に勝ち続けているという。些細な言い争いでも何でも、自分が勝つことばかりだった
のだと。車が止まり、都市管理部の大きなビルに着いた後、車に乗っていた二人の男と、応接室に入っ
た。案内人だった方の男は部屋を出て、都市管理の責任者を呼びに行った。その間、運転手だった方の
男と話をした。彼はこんな事を言った。「僕はあいつに負けてばかり……ええ、全くその通りですよ。
でもね、別に悔しいわけでも何ともないんですよ。実のところ、わざとあいつに負けている部分は多い
のです。負け惜しみじゃあありません。むしろ、相手を上回る力が無いと手加減は難しいものです。そ
れだけ訓練をつんでいるんですよ。ああ……そう、ここは勝利が美徳とされる国。でも、勝者が存在す
るためには、必ずその裏に敗者がいなくてはいけないわけです。社会の中においてはどうしても何かに
負けてしまうことも多いでしょう。そしてストレスがたまって爆発する……そんな事を防ぐために、常
に敗者の道を自ら選ぶ……そんな人間が必要とされているんです。出来るだけ自然に、誰に対しても敗
北する……そんな人間、<負け犬>(ルーザー)の国家資格を僕は持っているんです。勝負事なんて所詮く
だらないことだ。自分がどんなに笑いものにされようとも、他人を優越感に浸らせて幸せな気持ちにす
る。それこそが僕の勝利なんですよ。まるで他人の優越感を手の上で操る事ができるんですからね……
おっと、僕はそろそろおいとまします。またあいつに怒られるでしょうからね」男は応接室から出て行
った。少し経って、案内人だった男は、眼鏡をかけた中年男性を連れて部屋に入ってきた。あ、あいつ
また途中でいなくなったのか、申し訳ありません守護天使様方、失礼いたしました……男は謝罪してか
ら、正面のソファに腰掛けた。中年の男の話は極つまらないものだった。勝利の女神像が建てられたの
は何十年前のことだとか、勝利という言葉への市民の美学は素晴らしいものだとか、児童教育において
勝利という概念の道徳教育に力を入れているだの……とにかく勝利と言う言葉を美化して言葉を繋いで
いる様子だった。その中年の男は自分の言いたい事を話し終えると、ああ、仕事の時間があるので話は
これくらいにしましょういつまでもゆっくりとくつろいでいってください、とか言い残して部屋を出て
行った。後にはアダムたち一行と案内人を務めた男が座っていた。ミルトンは堪えきれずに、運転手だ
ったほうの男の事をどう思っているか訊ねた。彼は事なげに言った。「あいつはいつも俺と対等な勝負
をしようとしないんです。明らかに手加減しているのが解るんですよ。口論をしていても、明らかに見
当はずれな事を言って正そうともせず、俺の論破を待っているみたいだし、アームレスリングやなんか
のスポーツをしていても、ぎりぎりのところまで粘ったように見せてから負けにかかるんですよ。あい
つは俺が気づいてないと思っているのかな。みんな<負け犬>の存在は噂程度のレベルって思ってるけど
、本当は気づいてるんじゃないかな。でも、わざわざ聞き出せないんですよ。ただ、ひたすら俺が勝ち
続けて、あいつが悔しくなって本気で勝負してくるのを待っているんです。所詮勝利なんてくだらない
ものでしょ?それより俺はあいつと対等の勝負をしてみたい。結果はどうでもいいんですよ。ただそれ
だけが望み――」ユリウスはくっくと笑ってしまった。ミルトンはどうにも苦い顔をしていた。成る程
、勝者と敗者の平行線と言うわけか――アダムも心の中で微笑した。このセフィラにもエンダーは居な
かった。都市を後にした一行は、小径ペーから第八のセフィラ・ホドに入った。今度の世界は、入った
瞬間から巨大な都市が見えた。セフィラ世界の空間許容範囲をぎりぎりまで囲った国境があり、その門
では入国手続きを行わされた。天使使徒のユスティノスが居た為にすんなりと通り抜ける事ができた。
だが、そもそも天使使徒以外の人格体がセフィラを越える事があるのだろうか?とアダムは考えた。そ
もそも入国手続きは天使使徒の確認でしかないのだろうが、だとすれば天使使徒の中にも嫌われ者がい
るのだろうか……ホドの国は広かった。今までのセフィラ世界は広い空間に都市が点在したりすること
で人間が暮らしていた。この国はセフィラ自体が一つの都市だ。しかも、かなり華やかに栄えた都市だ
った。アダムたちの格好に物珍しさを感じたのか、話しかけてくる者たちもいた。彼らの話によれば、
この国は栄光の国、栄光の都市と呼ばれ、活気に溢れて幸せに満ちた国だという。人間があるべき幸せ
を甘受することが出来るのだから、と。ただし、裏通りや暗い夜道、袋小路には入らないほうがいい、
とも言った。「あいつらは人間じゃない」と。そう言っていた。都市を巡るうちに、人通りの多い繁華
街に出た。様々な建物が開いており、訪れる人間の数も半端ではない。人ごみの中を歩き回るのに疲れ
たアダムたちは、人通りの少ない方に歩いていった。公園があったので、一旦休憩することになる。彼
らのように世界の法則から外れた者にとって食事を取る必要はなかったが、ミルトンが軽食を販売する
屋台を物珍しそうに見ていたので、アダムは、何か頼もうか、と持ちかけた。そこで気がついたのは、
彼らはこの世界の通貨を持っていないということだった。そこで、ユスティノスが手を差し出した。ア
ダムが受け取ったのは、何枚かのコインだった。これがこの世界の通貨だそうだ。ユスティノスは天使
使徒の一人だ。彼はホドの守護天使――つまり集合的人格。その世界のことなら恐らく何だって知って
いる――と交信することで通貨の情報を受け取り、自分の手の中に復元して見せたということだ。便利
なものだ、とアダムは思った。ユリウスと比べると一体どちらが強力な力を持っているのだろうか?ど
ちらも敵に回すわけにはいかないようだ……と思った。ミルトンはユスティノスに礼を言った。ユステ
ィノスは少しはにかむような仕種を見せたが、すぐにいつもの冷静な表情を取り戻した。ミルトンは棒
のついた氷菓を、ユリウスは玉子を加工したものにクリームなどを挟んだ食べ物を、アダムは缶に入っ
た清涼飲料水を買った。ユスティノスは何も頼まなかったが、アダムは彼の分の飲料を買ってよこした
。四人が広い公園の休憩所で飲み食いしながら休んでいると、いつの間にか近づいてきた男が居た。そ
の男はぼろぼろな服を身に纏い、とても清潔ではなさそうな身なりだった。顔立ちはまだ若い青年にも
見えたが、微妙に気難しい表情をしていて、実際の年齢は良く分からない。男は、「あんたたちは天使
使徒かい?」と聞いた。アダムが一応肯定すると、男は言った。自分に付いて来て欲しい。見せたいも
のがある、と。アダムたちは訝しんだが、結局ついていってみる事にした。天使使徒を呼ぶのなら、何
か重要な事があるのかもしれない。軽食をゴミ箱に捨てたとき、ミルトンには男の顔が少し歪んだよう
に見えた。男について行くと、公園を抜けて建物の隙間を縫って、どんどん人通りの少ない場所に入っ
ていく。そして、スラム街のような、とてつもなく廃れた通りに出た。これがあの栄光の国、ホドの姿
なのか?辺りの建物は朽ちかけて、まともに寒さもしのげないであろう間に合わせで作ったダンボー
とビニールシートの家……乞食のように座り込んで動かない人々。「この光景をどう思う?この国は栄
光の国と言われて、確かに一見栄えているように見えるだろ。でも実体はこんなもんさ。栄光の陰には
数え切れない挫折がある……しかもそれは簡単に訪れるものなんだよ。昨日まで良いところのお嬢様だ
った子供が、父親がその部下に蹴落とされて失墜し、多大な借金を負わされて逃げてきたこともある。
そして今では立派な娼婦さ。そうでもしなければ生きていけないんだ。この国は自分たちさえよければ
何でもするような奴ばかりだ。そして、不幸な人間を小馬鹿にして生きている。いつ自分が同じ境遇に
なるのか分からないのに。歪んでるとは思わないかね?守護天使なんて何も助けてはくれない。少年よ
、君があっさり捨てたアイスの棒だが、それを拾ってきて子供にしゃぶらせ続けている親も居る。その
子供は木の棒に残った残り香を味わいつくそうとして、ぼろぼろになるまでしゃぶりつくして、最後に
はそれ自体を飲み込もうとさえする。それだけ餓えているんだ。そんな状況があるというのに、幸せな
奴らは資源を無駄にして生きているばかりだ。たとえその資源が偽りであって、無限に続くものだとし
てもな。何故我々はこんな苦痛を味わわなければいけないんだ?いや……分かっているんだ。天使使徒
といえども国の仕組みを根本から変えることは出来ないだろう。それでも知っていて欲しい。こんな栄
光の陰にある挫折の実体をな……」

>>basis_31 セフィロティクスアロー(後編)
                                      第八のセフィラ・
ホドで、アダムたちは浮浪者の男と出会った。彼は、この国の栄光とその陰の挫折の実態を話した。幸
福のしわ寄せ担った世界の実態を。そこで、後ろのほうから「お父さーん!」と呼ぶ声が聞こえた。目
の前の男に、幼い娘が擦り寄る。おかえり、ねえ、この人たち誰なの?新しいお友達?と訊ねる。父親
は、この人たちは天使使徒だよ、ああ、今日はまだろくに仕事が出来ていない。もう一回行ってくるよ
……今日こそきっとおいしいもの食わせてやるからな……と言い、その場から去っていった。残った娘
のほうは、興味深げにアダムたちを眺めた。「あなたたちが天使使徒なの?もしかしてお父さんに色々
悪いこといわれたんじゃない?ごめんなさい。お父さんはいつも何かをうらんでいるの。私のためにい
つも頑張っていて疲れているみたい。でも、私は別に恨んでないの。普通の人の暮らしに憧れないわけ
じゃないけど……でも、どんな状況になっても、生きている事ができればそれだけで十分。私にとって
は人が生きていれば、どんなところでも栄光の街なんだよ……」彼女は言った。いずれお父さんに頼る
こともできなくなる。だから、私はどんな事をしてでも生き続けてみせる。私にとっての誇りも愛も、
みんな私自身が生きていくこと、それ自体だから……ミルトンはその話を聞いて、本当にそれでいいの
?と聞いた。少女はためらいもなく頷いた。それからユスティノスがアダムにある提案をした。それは
、何の感情もなくアダムたちを運ぶだけだった彼の態度からすれば、意外なことだった。彼はあの浮浪
者の男との対話を望んだのだった。一行が街の裏でゴミをあさっていた男の姿を見つけると、男もアダ
ムたちに気づいて、何をしに来たんだ、とっとと消えちまえ、とわめき散らしたが、アダムは彼の態度
に反感を抱いた。「あの娘の幸せを願うならば、施設に預けたりすることも出来たんじゃないか?」と
疑問を口にしたが、「そんなことで娘が助けられるなら苦労はしないさ。何の後ろ盾もない、浮浪者の
俺が子供を施設に預けようったってそうは行かないんだよ!無理やり預けようとしたってどうせ処分さ
れるのがオチだ。だからお前らは解っちゃいないんだ」男の言葉に対し、ユスティノスが静かに語りか
けた。「確かに一人の個人が世界の仕組みを変えるのは難しいかもしれない。だが、諦めてもいいのか
?強い思いは時として世界を変えることもある。たとえ地獄ですら天国のようになるかもしれない」男
は反論した。馬鹿な、そんな甘っちょろい考えがまかり通るはずがない、と。ユリウスは、でも娘さん
はそう思っているみたいだよ、と言ったが、男は、あの子はまだ子供だからに過ぎない、と言った。ユ
スティノスは、「だが君は特別な存在だ。君にはチャンスがある。君自身が天使使徒となることができ
るかもしれない。君は、この世界の資源が無限だと言っただろう?あれは、この世界の実体に気づき始
めていることに違いない。あと少しの壁を取り払うことで、君自身が天使使徒となれるのだ。そうすれ
ば、この世界を変える力が手に入る。チャンスは誰にでも平等に訪れるわけではない。だからこそ、目
の前のチャンスを手放してはいけない。しっかりと掴んで最大限利用すべきだんだ。違うかい?」男は
困惑した。ホドに住む天使使徒を紹介し、その元で修行すれば立派な天使使徒になれるかもしれない。
だが、そうなれば娘との生活が今までどおりにはいかなくなるだろう。だが――男は決断し、ユスティ
ノスの言葉への答えを出した。ユスティノスはその答えを受け入れた。アダムはそんな彼の表情を意外
に思った。彼にも心はあるということだ――都市を後にする時、ミルトンはあの浮浪者の娘の事を思い
出しながら、アダムに語りかけた。「あの子は人が生きていればそこは栄光の国だって言ったっしょ。
でも本当は生きてなんかいないんよね。この<集合精神体>っていうものん中では、人間に見えるんは本
当は人格だけの存在でさ。世界はみんなの意識の中から創られた、偽りの世界。生きている人間なんて
いないんよね。そんな世界んままじゃいかんって……だからアダムさんは全部の世界を変えるために計
画を考えているんでしょ。でも、ぼくはそれに協力しようとしているんに……何も役立つことなんてで
きてないんよ。そう。今までぼくは、ただいろんな世界を巡る旅人みたいな気持ちになっていたんよ。
旅人気取りで旅自体を楽しんでいるだけじゃ駄目なんよね。だからさ――もっと役に立つように頑張り
たいんよ。きっと……」アダムは微笑んだ。「君は十分に役に立っているさ。一緒についてきてくれる
だけでね……私はそんなに強くない。一人だけでこの世界を巡っていたとしたら……そう考えると恐ろ
しい。君も、ユリウスも、ユスティノスだって。付いて来てくれるだけでいいんだ」ミルトンは頷いた
。そして思った。アダムさん、ぼくはもしかしたら――いや、とにかく付いていかんと……マリの意志
を達成しなければいけないんからさ……エンダーはこのセフィラにもいなかった。残りのセフィラは三
つ。一行は小径アインから第六のセフィラ・ティファレトへ進んだ。そこでは何も見えなかった。いや
、何もかもが見えすぎていたからこそ何も見えないのと同じだったのだろうか。ミルトンは焦った。視
覚が使えず、何がなんだか分からない。アダムはこれと同じような場面に遭遇した時の事を思い出した
。あの時と同じだ――世界の果てに辿り着いた時と。アダムは心の中からミルトンに語りかけた。あり
のままを見るんじゃない。見かけに騙されないで、そこに浮かぶ微弱な力までしっかりと感じるんだ、
と。落ち着きを取り戻したミルトンは、ゆっくりとアダムの元へ寄って来た。アダムがユリウスとユス
ティノスを見ると、二人とも平然として空間の上に佇んでいた。ミルトンが、これはどういうこと?と
聞くと、アダムは、「光だよ」精神の光がこの世界に満ちているんだ、と言った。意識細胞壁が無く、
純粋な精神の内部の光が支配し、あまりにも光が満ちすぎているため逆に何も見えなくなってしまった
んだ、と。このセフィラの中心には巨大な光が鎮座している。それは精神の光なんだ。だが、それは一
つや二つ程度の精神が剥き出しになったものではない。数百、数千、あるいは数万以上か……?何故こ
んな状態になっているのだろうか。ミルトンもそれを尋ねる。アダムがどういうことか考えると、答え
はすぐに思い当たった。<無意識>にもらった情報。<コア>世界は<セル・ワールド>が高圧高密度で溶け
合っている。そしてセフィロトは<エデン>世界が<コア>世界と融合した姿だ。そしてこのセフィラ・テ
ィファレトはセフィロトの中心に位置するはずだ。アダムが知っているプログラム世界のティファレト
は、セフィロトの中心システムだったはずだからだ。そしてセフィロトの中心だと言うことは、すなわ
ち<コア>世界の中心でもある、ということだ。つまりここは<集合精神体>の中で一番<有意識>細胞が高
圧高密度で溶け合っている状態にあるということだ。アダムはそれを三人に説明した。ミルトンは一応
理解したようだったが、まだ理解し切れていない部分もある様子だった。ユリウスは、なるほどそうい
うことか、とあっさり言った。ユスティノスは相槌を打っただけで特に何も言わなかった。それにして
も、それぞれの<有意識>世界を包む膜だけではなく、その<ルーラー>の人格そのものまでもが溶けて心
の壁がかき消えて、その内部の純粋な精神の光そのものが剥き出しになっているという状態にあるらし
い。その心の壁まで自然に溶け合う状態にあるということは、エンダーと関わり無くトータルブレイク
スルーの手がかりがつかめるかもしれない、とアダムは考えた。エンダーはこのセフィラにもいないよ
うだったが、この巨大な光、ティファレトの<太陽>を調べてみるのもいいかもしれない。まさしく太陽
のような光の球に近づいていくと、<太陽>が胎動していることに気がついた。そして、とてつもない引
力を持っていることに。あまり近づくとそのまま<太陽>の一部として吸収されてしまいそうだった。こ
れはノアの懸念そのものだった。意識密度の分布によっては自らの人格体も溶かされかねないと……ノ
アが造ってくれた世界。セフィラに区切られることによって力が分散し安全になったのだ……しかし精
神には引力が宿っている……ある種の引き寄せあう力が宿っているのだと、アダムは直感した。それで
あればこの<太陽>を使えばトータルブレイクスルーは成し遂げられるのではないか?と考えたが、それ
も不可能だった。惑星が太陽に吸い込まれないように、遠くにある精神を<太陽>が吸い込むことはでき
ないのだろう。たとえあり得るとしても、それはあまりにも時間がかかる。やはり、トータルブレイク
スルーはエンダー無くして達成できないのだろう、と思い知る結果になった。もはや長く留まることに
意味は無い。ティファレトの<太陽>を離れようとした一行だったが、ミルトンが叫んだ。薄く黄色がか
った太陽の中に、跳ね回る何かが見て取れた。それは一見魚類のように見えたが、立派な哺乳類だと言
うことに気づくのもそう時間はかからなかった。「あれは……イルカか」アダムが呟いた。ミルトンは
それが何なのか知らなかったが、太陽に住むような生き物が居るはず無い、と言うことは分かっていた
。あれは一体何なんだ?「可能性の一つとしては」ユリウスは言った。「<ギーク>とでも呼ぼうか。心
の壁が取り払われたはずなのに、それでも集合的精神体に取り込まれる事ができない。強烈な自我を持
つ精神体。それが吸着と離反の狭間で揺らぎ、あのように<太陽>表面で跳ね回っているように見えると
いう……いずれは吸収されてしまうのだろうが」ユリウスは重ねて言った。「可能性の一つに過ぎない
けどね」アダムは別の意見を唱えた。「あれは……動物そのものの精神なのかもしれない。人間にしか
精神が無いとは限らないのではないか……だとすれば<集合精神体>の中に動物の微弱な精神も取り込ま
れ、その原始的な記憶が<太陽>の表面活動として表出していると……」アダムも言った。「これも可能
性の一つに過ぎないが」ユリウスは、「あり得ない事ではないかも知れない」と言った。ミルトンは、
「でも確かめることは出来ないんよね」と言い、残念そうな顔を二人に向けた。一行は少しの間、ティ
ファレトの<太陽>に跳ね回るイルカたちを眺めた。その美しい光景に見ほれていただけだ。しかし、い
つまでも留まることは出来ない。一行は太陽から噴出すフレアに沿うようにそこから飛び立った。

>>basis_32 蛇の男
                                          小径サメ
フを通り抜けて、第九のセフィラ・イェソドに辿り着いた。紫色の背景に、無数の黒い球体が浮かんで
いた。周囲の空間自体は万華鏡のように光沢を変え、場所によっては銀のようにぎらぎらとした輝きを
放っていた。一行が進もうとすると、まっすぐ前に進んだはずなのに、無数の黒球の位置を省みるに、
いつの間にか上方に移動しているようだった。ユリウスは言った。
「これは、空間構造が二次元的になっているのかもしれない」
アダムは少し考えて、
「このセフィラはアストラル界とやらを意味してる。その言葉は二次元的構造を意味していると言うの
か……」
ユリウスは頭を振った。
「いや……ただの二次元的構造であれば僕たちの姿もまともに見えなくなる。でも見えてるだろ?」
「うん」ミルトンは頷いた。「普通に見えてるし、あの黒い球だって同じっしょ」
「アストラルとは非現実を意味する言葉だから。三次元が二次元的に引き伸ばされたような空間が幾重
にも折り重なって出来ている……そんな空間じゃないかと思うんだ」ユリウスはふっと笑って、「まあ
、すぐにこの空間での移動方もつかめるさ。どんな風に意識すればどの方向に飛んでいくかなんてね」
一行は空間内を縦横無尽に動き回って、移動方法を模索した。上手く感覚が慣れると、今度は散策を開
始した。空間を飛び回るうちに、ミルトンは気がついた。
「ここにもエンダーはいない」ミルトンはアダムのほうを見て、「確か、次のセフィラが最後だったっ
けか」
アダムは頷き、「ああ、次のセフィラにエンダーが居ると言うことだな。最後の最後で見つかるとは」
「こんな進み方を奨めたのはユスティノスだったっけ……先に第十のセフィラに行っておけばよかった
ね。いやさ……どうせどこにエンダーがいるかなんてわからんかったんだし、別に責めるわけじゃない
けども」
ユスティノスは反応の仕方に思い悩んだような表情をしたが、口を閉じたままだった。
ミルトンは言った。「でも、この世界は本当に奇妙さね」間をおいて、「人間がいないんよ。今までの
世界には……人間って言うものが居たんにね。前のティファレトだって、人間が溶け合って<太陽>にな
ってたっしょ。なのにここには本当に何も無いじゃんか」
アダムは言った。「確かに、ここには人間がいないように見える。でも、実際には違う。存在している
。ほら、あの球体だよ」アダムが指差した先には、無数に浮かぶ黒い球体。「あそこにも、ここにも」
次々と指差していく。
「どういうこと?あんなのとても人間には見えんけども」
アダムが口を開く前に、ユリウスが解説した。「ミルトンは世界の外を知らないんだな。あの球体の中
には、一つの人格と、それが夢見る思い思いの世界が内包されている。それが<有意識>の細胞 <セル・
ワールド> さ。この世界だって外から見れば巨大な細胞なんだろう」
「つまりあれが全ての世界を造っているものってことか。でも、何で細胞の中に細胞があるんかな」
アダムが答えた。「それは分からないが……それもこの世界のアストラル性ということだろう。外部か
ら取り込んだ細胞を消化しないまま取り込んでいると言うことか……」
「そっか……そんで、あの細胞の膜をさ……全ての細胞の膜を破ってしまう、それがアダムさんの計画
ってことっしょ」
「あの<セル・ワールド>を打ち壊すことは出来る。その世界を破壊することは出来る。私でもある程度
なら出来る――」
「そうなん?だったら自分の力だけだって――」
「だが、外側だけだ。その世界と言う夢を見る支配人格、<ルーラー>自体の本当の壁――誰もが持って
いる心の壁――を破ることは出来ない。多少なら自らの思いを浸透させる事ができるが、心の壁を破る
ことは出来ない。どんなに会話を交わしても、そう簡単に自分と他人を隔てる心の壁を破ることは出来
ない。内側の壁はそんなにも堅固だ。でも破らないといけない。それを達成せずに全ての心が溶け合う
ことは決して出来ない。ノアだって多数の世界を融合させることに成功したが、人格体自体が溶け合っ
たわけではない。だから心の壁だ――エンダーのそれを破らなければいけない」
「でも……ちょっと待って。<セル・ワールド>やらを取り込んでさ、自分の世界にその<ルーラー>すら
を取り込む事もできたんっしょ?それがぼくの生きていたあの雪の世界だった……違うん?」
「その通りだ」
「だったら何故それを殺さなかったん?そうすればその自我が無くなって元<ルーラー>である人格たち
の意識を溶け合わせる事ができたんじゃないん?その規模を広げればトータルブレイクスルーも可能だ
ったろうにさ」
「それは違う……私は様々な世界を旅してきて知っている。人格体の意識に自らの死をはっきりと認め
させないままそれを殺そうとしても、その世界とその人格体を切り離すことにしかならなかったのだ。
そしてその排除された人格体は再び自分の<セル・ワールド>と言う夢の中で、自らの<ルーラー>となる
。あの雪の世界の数々の人格体も、恐らくは外側に排除されたか、逆に<コア>世界に取り込まれたんだ
ろう。人格体、その自我を殺すには、逃げ場も無く追い詰めて殺すことが必要になるだろう。まずそれ
は不可能だな」
「なるほど……」
「あるいは……モアフィールドシステム。取り込んだ人格体たちに対し、緩やかに死を認めさせる。そ
うすることによって人格体の死と共に自我を消し去り、その力を吸収する。だが、これは時間がかかり
すぎる……大規模に<セル・ワールド>を取り込んでそのシステムを適用するのも、精神的な労力がかか
るため短時間では出来ないとのことだった。彼女……モアに聞いたことだ」
「つまり、それじゃあトータルブレイクスルーは出来ない、ってことさね……」
「また、取り込んだ世界の中で、人格体同士に子供が産まれ、新しい人格が誕生することすらある。そ
れは親の分裂体に過ぎないが、親たちが死んで世界にその精神の力が吸収された後、子供たちがさらに
それを吸収して完全な人格体に近づいてゆく……そんな問題もある。それでは人格体の完全な消滅は難
しい。モアフィールドにおいては、その子供を自我の生まれる以前に、<ルーラー>――つまりモア自身
の世界の一部……実人格を伴わない<代替物>に置き換えることで解消していたが」
「えーと……<代替物>ってのは、<セル・ワールド>の各自の<ルーラー>が夢見た世界……思い思いに造
り上げた世界、それ自体のことか。そこに<ルーラー>以外の人間が居たとしても、それは<ルーラー>自
身が見た幻、つまり<代替物>で、実際には存在しない。でも、いくつかの<セル・ワールド>がくっつい
てコミュニティが出来ることもある、と。その場合は元の<ルーラー>である人格は実際に存在するから
、同士に実際的な子供人格が生まれる可能性がある……そういうことっしょ?」
「そういうことだ。そもそも、基本的には<セル・ワールド>は<ルーラー>一人だけが夢見る世界だ。ノ
ア――エデン世界を造り上げてくれた彼――だってその世界に閉じこもっていた。あの雪の世界やこの
セフィラたちの<コア>世界が普通とは違うだけだ。自らの世界が偽りだと気づいたものだけが他の <セ
ル・ワールド> を取り込むことで造れる世界……ということだ。まるで天使使徒たちのようにな」
「そっか……マリ――ホワイトドレスも一種の<代替物>だったんかな。ぼくはいろんな世界を見てこな
かったからわからんよ。でも、トータルブレイクスルー……一筋縄では行かないって事か」
「そうだ。だからこそ私の使命は放棄してはいけない。それが私の絆なのだから」
「絆?誰の事を言っているん?」
「それは、ノアもそうだが……それだけじゃなく……っ」
「え?どうしたん」
人が背後の空間に浮かんでいた。蛇のような顔立ち、装飾、……それはかつて第二観測者と呼ばれた男
……彼を見たアダムは、
「ユスティノス、あれも天使使徒かい……」
「グスティヌス。私と同じ天使使徒です」ユスティノスは丁寧に言った。
「待て……あれは……なんだ?」
グスティヌスは一行にゆっくりと近づいていく。その距離が縮まり、通常空間ならばおよそ10M……彼
は叫んだ。
「アーダ、ム……久しぶりだなあ……」
「……何だと……」
「なんだ?何故お前がここに居るんだ?楽園を……エデンを追放されたお前が!」
ミルトンは、「だ、誰?アダムさん、知ってる人なん?」こんな天使使徒は初めてだ、と困惑したが、
「知恵の実だけでは食い足らず……に生命の樹の実を食いに来たのか?ふふは、最も――」
「まさか、まさかお前は」アダムは厳しい表情をしていた。
「この顔、忘れたわけではあるまい――」
ユリウスもまた困惑の表情を浮かべた。アダムは何も言い返さず、ただ顔をゆがめていた。
「くく、私だよ、アダム。お前と、エヴァを、楽園から追放させた……いや、違うな。お前たちに知恵
の実を食わせた……分かっているだろう?そんな怯えるな。お前はそんなに小さな男だったのか?」
ユスティノス無機質な表情を浮かべたままだった。
「安心しろ。守護天使たちの記憶には残らない。お前が楽園に回帰したことも……このセフィロトに入
り込んだことすらな」
グスティヌスは左腕を半分曲げて、後ろに振って突き出した。
「だから、安心して、はっは……消し飛ぶがいいさ」
振り出した左腕の先端から、精神の光が爆ぜた。アダムたち一行を飲み込むようにして。猛烈な光が乱
反射して、周囲から色を奪う。それが収まっていくと、拡散していく光の中から、一行の姿が現れた。
全くの無傷だ。彼らの前に、ユスティノスが両手を前方に構え、その空間の上に立っていた。
「ユスティノスー……?」グスティヌスは不機嫌そうに言った。「お前が助けるとはな?お前の仕事は
そいつらを案内するだけだろう?誰が助けろって言ったんだ?」
守護天使たちの命だ。案内すると言うことは、危険から守ると言うことも含まれるだろう。お前こそ
何をしているか分かっているのかね?」
「ふっ……そうかい、だがもう守護天使の課した使命は無い。彼らはつい先ほどから、そいつらを抹殺
させる命令を下した。くく……さあ、お前がやるんだ」
「何だと……」
ユスティノスは振り返り、アダムたちの姿を見た。放心状態の三人の顔を眺めて、ふと微笑んだ。
「……悪いが、それは出来ない」
「なんだって?」
「彼らは……殺させはしない」
「殺す、だと?この世界においては死は自我の喪失だ。精神力学的プロテクトをかけて排除されないよ
うにしてあるからな。だが、所詮は自我の喪失に過ぎん。殺すとかなんとか下らない事を言うなよ、ユ
スティノス」
「そんなことを言ってるんじゃない。彼らは……殺させたくないんだ。たとえ守護天使の勅命であった
としても」
ユスティノスはアダムたちの手を握って、引き寄せた。
「逃げるんです、アダム、ユリウス、ミルトン。さあ、しっかりして……」
ユスティノスは両手の間で空間の裂け目を作り、それを両手で広げ、その中に他の三人を落とした。そ
して、自分もその中に入ると同時に、空間の裂け目は消えた。後に残ったグスティヌスは笑い声を上げ
た。
「ふ、ははは!あいつがそんな事をするとはな」(ユスティノス……従順な犬のままではなかったと
言うことか。だが、私から逃げられると思っているのか?)
グスティヌスもまた、空間を引き裂くようにして穴を作り上げた。その中に入って行く。
(小径タヴか。セフィラを移動したな……だが、すぐに追いつく……)
グスティヌスが、小径という世界同士を繋ぐ道の中を飛んで行くと、途中でその動きが遮られた。
(何だ……シールドを張ったのか?ユスティノス……あの短時間で、よくもまあやってくれたものだ。
少し時間がかかるか……だが、向こうにはあいつらもいる。問題なかろう……)
グスティヌスは高笑いを上げ、防壁の解体に取り掛かった。

>>basis_33 アダムとリリス
「ユスティノス……この小径は何処に続いているんだ」我に帰ったアダムはユスティノスに訊ねた。
「小径タヴです。この先は……」
彼らの目の前に、新たなセフィラの風景が広がりつつあった。何も見えぬ小径のトンネルを抜け、暖か
な温もりを感じさせる風がアダムたちに吹き付けた。ユスティノスは抱えていたユリウスを、何処まで
も広がるセフィラの地面に降ろした。アダムとミルトンは自らの力でその傍に降り立った。その地面は
鮮やかにたなびくオリーブ色の草原だった。空は無数の星が煌いていたが、それ以外が黒に染まってい
たにもかかわらず、レモン色の大きな輝きを見せる星が遠くに座しており、その光を分かつかのように
小豆色の巨大な塔が聳えていた。黒光りするその円柱状の塔は空の高みで途切れていたが、その胴体に
無数の空中回廊が直角に伸び、それが続く先には空中から聳える塔があり、いくつもの塔が空中で結ば
れるその様は、アダムには見覚えがあった。第一のセフィラ・ケテルの星空の中に浮かぶ建造物だ。そ
の色彩や形状にいくらか違いがあれど、概念としては同じようなものを感じた。
「ここは、第十のセフィラ・マルクトです」とユスティノスが言った。
「そうか、ここが最後のセフィラ……」
アダムは感慨深げに言った。そして、ユスティノスに訊ねようとした。
「あの男……グスティヌスとか言った天使使徒、あいつは本当は……」
突然、ミルトンが叫んだ。
「アダムさん!ユリウス兄がなんか……」
アダムが振り返ると、ユリウスがその場にひざまずいて頭をうなだれていた。よく見れば小刻みに震え
ている。ミルトンはその脇を持って支えている。アダムは彼の前に行き、
「ユリウス、どうしたんだっ……」
アダムはユリウスの肩を掴んで揺すった。ユリウスは目線を落としたまま、
「だ、駄目だ……勝てない……」と呟いた。
「何を言ってるんだ、ユリウス。あのグスティヌスのことかい……勝てないなんて、いつも自身に満ち
ていた君が、何故……?」
「無理だ……分かってるんだ、まさかあんな奴が出てくるなんて……」
「落ち着くんだ、ユリウスっ」
アダムはユリウスの肩を掴んだまま、彼が落ち着くのを待った。しばらくして荒くなった息を鎮め、震
えが納まった彼の肩から手を離し、よろよろと立ち上がった彼にアダムは改めて聞いた。
「どうして勝てないなんて思ったんだ、ユリウス……」
ユリウスは目線を上げて、一瞬笑ってから言った。
「グスティヌス?違う。あいつは、特殊なウイルスプログラムで僕の精神構造を全人類にコピーし、全
ての人類を僕の子孫に成り代わらせた……」
「え……すると、君がアダム……」
聞き返したアダムに、ユリウスは言った。「……そうだよ」
「そう……」アダム……いや、彼女は、顔の眼帯をゆっくりと外した。「私が、リリスだよ……私の母
星リリアスの名から取られた、たった一つの名前……」
ユリウスと呼ばれていたアダムと言う男は、アダムと呼ばれていたリリスと言う女の清楚な眼差しに対
し、微笑を返した。「知ってたよ……ずっと君の傍に居たから。そう、僕は母星である衛星アダンから
取られた名前を持つ――アダム」
「そう……そうかもしれないと思ってた。グスティヌス――あいつが禁断の果実を喰わせた張本人。蛇
の男……あいつに怯えていたのは、楽園追放の記憶が心的外傷になってしまったためね……」
ミルトンは口をあんぐりとさせて二人の様子を見ていた。リリスは言った。
「どうして私の傍……あるいは中に居たの……」
ユリウスは薄く微笑んだまま答えた。
「僕のポケットには何でも入っているのさ。自分自身でさえも内包してね。いつだってそこから出てく
る事ができる。刹那の折にポケット自体と自分が入れ替わるんだ。本当の僕はどこにもいないかもしれ
ない。だからどこにだって居る事が出来る。どうだい?僕は明滅する信号のように君の瞳に輝きを差し
込んでいたんだよ」
「戯言ね」
「うん……実は、生命の樹の実を食べに戻ってきたんだ。知恵の実を食べてからずっと求めていたんだ
。知恵の実――あのウイルスプログラムだけど――は制限された僕らの知性を解き放った。全世界と僕
らを結んだ。その時知ったんだ。あのセフィロトの高度な情報処理システムを自分の中に内包する事が
できれば、絶対的な精神生命体になれるかも知れない。僕は、君が伴侶としてあてがわれたあの頃から
、ずっと君に依存し寄生していただろ?それが全ての真実さ。君も見返してくれるだろ?」
「それも戯言?」
「戯言さ」
「私の体は所々機械の結線が張り巡らされてオイルの香りがする冷たい体。私の心は誰も信じられずに
凝り固まった凍りついた心。それを溶かす事ができたのはそこに辿り着いたウイルスに過ぎなかったと
でも?皮肉な話ね」
「君も戯言かい?」
「そうよ。でも、真面目に言えば誰だって誰かに依存しているよ。それは愛。どんなに幼稚な勘定であ
ったとしても愛は愛。でも愛は目に見えない。鏡に映してみれば見つかるかもしれない。愛は何かを媒
介としてしか姿を現さないものね。でもいつかそれも終わるわ。世界自体が大きな鏡となるとき……あ
なたも見たいんでしょ。今のところ愛なんていうのは、水鏡に自らの姿を映すような儀式を重ね、自ら
に思い込ませるようにして確かめるしかないのよ。愛を求める人は……悪い意味じゃないけど、虚しさ
だけが残っているよ。勿論、ここにいるお馬鹿さんのようにね……」
「ええと――つまり、それも戯言かい?」
「まあね。あなたに近づきたくて頑張ってきたから。でも半分は本当のことでしょ……私だって本当は
ずっと依存していた。一度愛を知ってしまったら戻れないのかもしれない。だからね、つまり、私はね
、アダム。あなたのことが――好き。大好き。愛してる――」
リリス――悪いけど――」
「判ってる……あなたにはもう彼女が居たものね。たとえ今彼女が居なくたって……あなたにはもはや
彼女しかいない。エヴァ――妬ましいほどに、彼女を想ってる――」
「ごめんね、リリス――」
「いいのよ。やはりあなたには彼女しか居なかった。同じ力と血を分けた彼女しか――」
二人の話に、呆けていたミルトンが我に返り、割り込んだ。「ちょ……ちょい待って。どういうことな
ん?ユリウス兄がアダムさんで……アダムさんがリリスさん……?」
「そうだよ、ミルトン」リリスはしれっと言った。
「アダムさん……じゃなくて、リリスさん……?あなたは女の人だったん?」
「そう。私は、アダム……彼の役割を演じていたに過ぎないの」
アダムが続きを言った「そして、僕が本物のアダム、ってこと……」
「な……何で、そんな演じたりなんかしていたん、訳分からんって!……」
「私にも分からない」リリスは肩をすくめた。「アダム、何故私にとり憑いていたの?内なるあなたが
私の心に使命を下していたんでしょ?あのエデン世界の創造時にノアがあなたを切り離すまで……ノア
は私の中のあなたのイメージであの世界を造り上げたんでしょ……?」
「そう。やっぱり気づいていたんだね。でも、誤解しないで欲しい」
「分かってる。あくまで私は私の意志で動いていた。私は見つからないあなたの代弁者となろうと頑張
って……最も、あなたの強い精神作用力に誘導されていた部分はあるんでしょうけど……」
「うん。僕は、この<集合精神体>世界に変革を起こす必要があると悟った。だから、それに適した人格
を探していた。そして、それは君以外に無いと確信した。君が僕の元々の妻だから……他に頼れる者が
ほとんどいなかったとはいえ、君は自らの<セル・ワールド>を打ち破り、強い意志を持って行動してい
た……そんな精神の波動を見つけるのは容易い事だったしね……」
「でも、あなたのような力を持っていれば、エンダーと同じようにトータルブレイクスルーを完了でき
るんじゃないの?私は所詮、アダンの研究所で育てられた精神力学実験体。そんな世界を変えるような
力は無かったけど……本物のアダムたるあなたであれば……」
「確かに、それは難しいことではあっても、ある程度の時間をかければ何とかなったかもしれない。で
も、実際には事情が違うんだ。<セル・ワールド>の外壁も内壁も……僕の手に負える代物ではなくなっ
てしまったんだよ。そして、それをどうにかするにはエンダーと融和するしかないんだ。僕にはそれが
出来ない。君だったらきっと出来る。そう思ったから……」
「使命を押し付けられたとは思ってないけど」リリスは毅然とした態度で言った。「どうして私なら出
来ると思ったの……」
「エンダーの傷ついた心を理解するのは、僕には無理だった。たとえ強い精神作用力を持っていてもね
。でも、君の境遇はそれに値するものだと思った」
「勝手な話ね……でも、解ったよ……あなた自身はエンダーの事を知っていたのね」
「まあね……エヴァと離れていてもある程度のことは知っていた……」
「じゃあ、エンダーは……」
少し間をおいて、ミルトンが言った。「どうも二人の話、よくわからんかったけどもさ――リリスさん
、エンダーは……ここにも……」
<ドコにもイナいヨ……>
突然聞こえた声に、リリスたちは振り向いた。淡く輝く草原の上……そこに居たのはヴェルハだった。

>>basis_34 ヴェルハ
「ヴェルハ……姉ちゃん!」ミルトンは叫んだ。
「お久しぶりね、アダムさん」ヴェルハは冷たい口調で言った。「いえ、本当はリリスさんって言うの
ね……」
「ヴェルハ……何故……君がこんな所に居るの?」リリスは戸惑った。「――消えてしまったかと思っ
た。あの雪の世界の崩壊で――でも、生きていたのね、良かった……」
「良かった?私という人格と再びまみえた事が?馬鹿らしいわ、あなたの計画と矛盾している……」ヴ
ェルハは顔をゆっくりと振って、「その計画はもはや実行されないのだけれどね……」彼女は目を閉じ
、そして目を開けると同時に、「あなたを殺す」言い放ち、目にも留まらぬ速さで間合いを詰めた。
リリスの体にその鋭い手刀が突き刺さる寸前で、アダムがリリスの前に立ち、その手を掴み取った。
「やめるんだ、ヴェルハっ……何をしているかわかってるのか?」アダムは彼女の手を大きく振って離
し、彼女の体を後退させた。彼女はアダムを睨み、
「分かってるわ……ユリウス。あなたが、本当のアダム……」言葉をかみ締めるように、「守護天使
教えてくれた」
ミルトンが呼びかける。「ヴェルハ姉ちゃん、まさか……!」
「そう……私は天使使徒になった」ヴェルハは言い切った。
リリスは彼女の名前を呟いた。「ヴェルハ……」
ヴェルハはアダムを睨み、「守護天使は言った。アダム、あなたを捕らえ、この<コア>世界の糧とする
って……」
彼女は空を舞うようにして一歩下がり、空間を蹴り飛ばし高速でアダムの体に迫り来た。アダムは両手
を体の前で組み、その衝撃を弾いた。ヴェルハは両腕を伸ばして舞うように体を回転させ、回り込んだ
左手でアダムの肩口を狙った。彼はそれを左手で防いだ。ヴェルハは更に回転し、今度は右手で彼の脇
腹をえぐり込んだ。アダムはその手を掴みとり防いだが、彼女は地面を蹴り、両足ごとその体を回転さ
せ、掴まれた右手を強引に支点にしてアダムの顔面に蹴りを入れた。彼は咄嗟に手を離し、顔をのけぞ
らせて避けた。ヴェルハは着地し、彼を睨んだ。
「ユリウス……あなたは、私をずっと騙していた。私は、ささやかでも幸せな人生を送る事ができるっ
てずっと信じてたのに。なのに、あなたはそれを壊した。信じていたのに。誰より誇れる兄だと思って
いたのに。私の人生が作り物に過ぎないと知りながら騙し続け、挙句にその世界だって黙って壊させた
……あなたが憎い」
ヴェルハは右腕を体の左側に大きくひねり、前方に跳躍し、その右腕でアダムに薙ぎ払いをかけた。ア
ダムは右腕でそれを受け止めた。ヴェルハは彼の肩越しにリリスを睨んだ。
リリスさん……あなたが憎い。私の世界を勝手に造り上げた上に、それをぶち壊しにしてくれた……
すぐに打ち壊すような幸せだったら何で幸せなんか与えたって言うの?最初から何も無ければきっと何
が起ころうと受け止める事ができた……そのはずなのに!」ヴェルハはアダムから体を離し、大きく飛
び跳ねて後退した。彼女とアダムたちの距離が開く。
ミルトンが叫んだ。「ヴェルハ姉ちゃん!もう……やめてくんなよ、何で戦わなきゃいけないんよ!天
使使徒なんて……何でそんな道を受け入れたんよ!」
ヴェルハはミルトンを見つめた。「ミルトン……あなたは分からないわ。私と同じように全てを壊され
たくせに……何もかもありのまま受け止められるなんて。私は、あなたとは違う。それに、あなたには
最後までリリスさんがついていた……それが憎い」
「姉ちゃん……?そんな……」ミルトンは力なく呟いた。
ヴェルハは足を踏み鳴らし、再び飛び掛る体制をとった。アダムは腕を構えようとしたが、リリスが彼
の行く手を塞ぐように腕を突き出し、前に立った。アダムは、
リリス……彼女はもはや危険な存在だ!下手な情に流されるな……」
リリスは振り返りもせずに言った。「情に流されるな、ですって?そんな事を言ったらエンダーだって
その心を溶かすことは出来ない。私たちの計画は……ただの遂行しなければいけない目的だけではない
のよ……」
アダムは、微笑んだ。「そうだね……君はそうでなくちゃいけないんだったね……でも、無理はしない
で……」
リリスは頷いて返した。そしてヴェルハに向かって一歩一歩踏み出してゆく。ヴェルハはそんな彼女を
睨みつけ、飛び込んだ。リリスは迫り来るヴェルハの手刀を片手でいなす。さらに体をねじって幾度も
連続で繰り出される肢体。その戦いの舞を、彼女に合わせ舞踊るかのようなステップでかわしていく。
だが、その舞が少しだけ乱れる。リリスは見た。ヴェルハの顔を……その瞳に溜まった涙を。リリス
体を大きくひねって後退すると、ヴェルハはバランスを崩して片膝をついた。彼女は両手を地面につき
、顔を伏せてうなだれた。リリスがそんな彼女の前に立ち尽くしていると、か細い声で呟いた。
「アダムさん……いえ、リリスさん……私は、あなたの事が好きでした」彼女は顔をうなだれたままよ
ろよろと立ち上がり、「何でなのかは知らないけれど……初めて言葉を交わした瞬間から……何故か他
人のようには思えなくて……ひどく親しい間柄のように……自分自身を大切に思うみたいに、あなたの
事を誰よりも愛してしまったんです……」彼女は目を閉じて泣いていた。「だから……誰よりも裏切ら
れたのが悲しかった……!あなただけは絶対失いたくなかったのに……すぐに目の前から消えていって
……いつの間にか私の生きる世界すら壊していって……!だから苦しかった……この痛みが憎しみにな
って……あなたを殺せば、私の心は救われるって……!」ヴェルハは、その手で涙をぬぐいながら喋っ
た。
「ヴェルハ……」
アダムは、踏み出した。ヴェルハの目の前に駆け寄り……両腕を回し、彼女を抱きしめた。
リリス……さん……」ヴェルハは大きく目を見開いて顔を上げた。
「気づいてあげられなくて……ごめん」
リリスは、彼女を強く抱きしめた。言葉を続ける――
「君は……私だったんだね」
ヴェルハが腕を上げてリリスの腕に手を乗せる。だが、その手には力がこもらない。リリスは更に続け
る――
「私だってそうだったよ。初めて言葉を交わしたときから……何故か君には心を開ける気がした。そし
て、実際にそうだった。誰かと心を開いて話をするのが下手な私だって、君となら素直に話をする事が
できた。それは、私が弱気になってただけじゃなく……そう、私が弱気になっていたのだって君が私か
ら離れて一つの人格を形成したせいだって、今気づいたよ……そう。ノアは私とアダムを分離したけれ
ど……同時に私を形成する要素を分裂させてしまったんだ。そして私の自信やプライドや自己愛……そ
んなものたちを失わせた。だからずっと不安で、誰かを求めていたんだね……君だって同じだ。きっと
、私と同様に愛を手に入れたくて……こんな辛い気持ちに気づいて上げられなくてごめん。でも、これ
からはずっと一緒だよ……」
リリスさん……」ヴェルハはリリスを強く抱きしめ返す。「……ありがとう――」彼女は淡い光の渦
となり、もう一人の彼女の中に流れ込んでいく。
後に残ったのは、リリスだけだった。ヴェルハと言う存在はリリスと言う彼女自身の中に再び包括され
た。もはや彼女たちは二人ではなかった。一人の完全な人格に戻ったのだ。彼女は微笑んで仲間たちを
見た。
「アダム……ミルトン……ユスティノス……行こう。エンダーが待ってる」
ミルトンは言った。「リリスさん……ヴェルハ姉ちゃん?もう大丈夫なん?」
「ええ」リリスは鋭く言い切った。
ミルトンは少し寂しそうな顔で、「良かった」と声をかけてきた。
アダムも彼女に声をかける。「リリス、エンダーの居場所が分かるのかい?」
「分かる」リリスは答えた。「彼女の記憶が教えてくれた……彼女とリンクした守護天使……そして天
使使徒の記憶が。エンダーはこのセフィロトの十のセフィラの中にはいない。これらのセフィラとは違
う次元……生命の樹の深淵の上――隠されたセフィラ、ダアトの中に封印されている。そこを目指すた
めには、一度このセフィロトを脱する必要があるわ。外のエデン世界からなら確実に侵入できるから…
…」
「そうか……でも、彼女を天使使徒にしたのは誰だ?そのダアトの記憶を持っていたのは?やはり、グ
スティヌスが……」
「ええ。そしてもう一人……」
リリスとアダムは、強い精神の気配を察知してセフィラの空を見上げた。そこには一人の男が浮遊し、
空間の上に佇んでいた。
「……オリゲネスが――」

>>basis_35 最後の関門
「ヴェルハ……彼女がお前自身だったとはな」オリゲネスは言った。「リリスと言うようだな……お前
を殺すはずが、その片割れを引き入れていたどころか――その片割れを取り戻させてしまうとは、皮肉
なことだ」
リリスは宙に浮き見下ろしてくる彼に対して、
「……天使使徒オリゲネス……お前がヴェルハをそそのかしたのね」
「馬鹿な、彼女自身が望んだことだ。誰しも手に届くまでの力なら欲しがるだろう?当然お前自身もそ
う思っているはずだ。それが高じて生じる栄光の時……世界を変えるために人という泡沫は浮かび上が
るものだ」
「意外とお喋りのようだね、君は何を望むんだい?」アダムは挑発した。
「俺が言いたいのはこういう事だ。俺が生きるこの世界のために、世界をより良い方向へ変革させるた
めにお前たちをしとめるのだと……」
突然、世界が揺れた。激しい振動がリリスたちを押しつぶすように四方八方から圧迫する。リリスは思
った。これは、地震なんてものではない。これは、世界自体が揺れているのだ。しかし、全てが揺れて
いるだけであればその振動は感じられないはずだ。<集合精神体>は今も宇宙を舞っているはずだから。
「これは……世界に歪が生じているの?」
「ユスティノス、これはあいつの力なん?」ミルトンが慌てて声を出す。
「いや、違う……まさか、守護天使自体か!?」
振動は最初ほどのものではなくなったが、それでも続いている。オリゲネスは不思議そうに辺りを見回
している。アダムの言葉に対しユスティノスは、
「恐らくはその通りです。集合的人格能――つまり守護天使がセフィラ自体に分散してジャマーとなり
、セフィラ世界の人格体存在可能域が極端に収束し、他所との関係性が断ち切られようとしています」
「つまり、他のセフィラに移動できなくなると言うことか……」
「それどころではありません。一時的にセフィロトの世界から出ることすら不可能になるかもしれませ
ん……」
「一時的って?」リリスは訊ねた。
「精神力学の応用で意識間隔を極端に狭めても、その断ち切られた繋がり……集合人格体の壁に穴を開
けるのは……主観時間で何十、何百、何千年……推し量ることすら出来ません」
「そんな事って!止めることは出来ないん!?」
ミルトンは叫び、リリスは何故こんな状況になっているのか、と思い当たった。
「まさか、これはグスティヌスが……?」
「恐らくは。彼が何らかの作用を及ぼしているものではないかと思います」
「そうか」ミルトンは眼差しをオリゲネスに向け、「……その壁は、トータルブレイクスルーが起これ
ば破壊されるん?」
「勿論、精神の全てが繋がることになれば、壁としての意味を持ちません」
「そっか……じゃあ、早くセフィロトを出んと。ユスティノス、急いで小径にむかうんよ」
「そうね。今を逃したらチャンスは無いかもしれない……」
「……このセフィラ・マルクトは、第一のセフィラ・ケテルと密かに繋がっている部分があります。そ
の繋がりをこじ開けて直接にケテルまで戻ることも不可能ではありません」
「よし、だったらやってくれるか、ユスティノス」
「分かりました……これが開ききるまで……少しだけ食い止めていてください!」
「逃がすものか」
オリゲネスが、リリスたちの動きを察知して動き始めていた。揺れ動く世界の中で、後方に光を放ちブ
ーストして差し迫る。リリスとアダムがそれを防ぐ構えを取った瞬間、その眼前で爆散する光と共に襲
来したオリゲネスの体は、ミルトンの手によって受け止められていた。彼の手の間に発生した力場によ
って衝撃を持ちこたえている。
リリスさん……アダム――兄、先ん行ってて」
「ミルトン、まさか君は!」
「ぼくが食い止めとくんよ……」
アダムは叫んだ。「ミルトン!セフィラが閉ざされつつある今……ここで死んだら消滅するかもしれな
いんだぞ!」
「分かってるよ、アダム兄……でも、どうにかしなきゃ。リリスさん、あなたには大事な仕事があるっ
しょ……こんなところで時間を食ってるわけにはいかない……ここはぼくが必ず食い止めるからさ、早
く、行っててくれな!」
衝撃は拡散し、オリゲネスの体が跳ね返るように宙を舞った。ミルトンは後ずさりして、リリスたちを
振り返ることもせずに、「早く!」と言った。リリスは、一瞬目を閉じて、そしてその目を開いて言っ
た。
「分かった……でも、ミルトン……君は素直でいい子だった。私もアダムとの間に子供を――実際には
ありえなかった子供を持ったみたいで嬉しかった……楽しかった。君といた時間は、私の糧になってい
る。だから……決して死なないで」
「分かってるよ……また、ね。リリスさん、アダム兄……」
ユスティノスが声を上げる。「扉は開きましたっ……早くここへ!」
リリスとアダムは、ユスティノスが空間を裂いて開いた暗闇の穴に入る。オリゲネスがそこへ急降下し
つつ手のひらから光条を放つが、その上の空間でミルトンが腕を伸ばし、そこに張った見えない障壁に
より光は拡散させられた。ユスティノスはリリスとアダムの後に空間の穴に入り込んだ。ミルトンを少
し見つめたが、すぐに穴の中に体を沈め、消えていった。空間の裂け目は、彼が行った後すぐ閉じた。
オリゲネスはミルトンを睨んで言った。「お前は奴らを逃がすために犠牲になると言うわけか。だが、
お前ごときにそうそう時間をかけてはいられない。邪魔をするならとっとと消えてもらう……いいな」
「いやだね……ああ、ぼくも分かってんだよ、トータルブレイクスルーが始まればぼくだって――ぼく
という人格だって、生きていようが死んでようが関係ないって。全ての人格が溶け合って一つになるん
だかんね。でも、ぼくはあの人の気持ちに応えたい。だから――お前はぼくが食い止める!」
その時、エデンの東を守るケルビムが動き始めた。
いくつもの建造物が宙に浮かび、無数の地面が浮き島として星空の中にうずめいている。紛れも無く第
一のセフィラ・ケテルに、リリスたちは戻っていた。だが、そこにはもう一人のイレギュラーな存在が
居る事が一目で分かった。リリスは叫んだ。
「グスティヌス……!お前がどうしてここに!」
ケテルと言うセフィラ世界も、マルクトのように振動していた。それと同時に、アダムもうつむいて震
えていた。世界の振動に連動してではなく、自身が震えていた。
「ははは、アダムよ……セフィロトを出るためにここに来ることは分かっていたぜ……そのためにセフ
ィラを壊しているんだからな……ふは、簡単なことよ。セフィロトの裏面としてのクリフォトを通って
先回りしておいたのさ……」
「訳が分からないわ……あなたは何故そんな事ができる?何が望みなの?」
「ふん、お前がリリスか……簡単なことよ……アダムの力を手に入れたい……それ以上に何がある」
「私たちはお前に構っている暇は無いのよ。邪魔をしないで」
「そうは問屋が卸さない……アダムよ……お前を殺さなければ、俺はまだ進めないのさ。さあ、来るん
だ」
ユスティノスは彼に拳を向けて訊ねた。
「グスティヌス……お前は始めからそれだけが狙いだったのか?天使使徒の誓いは嘘だったとでも?」
「当然だろう?守護天使に何の意味がある?全ては俺の手の上で踊る人形に過ぎん。ユスティノスよ、
お前だって守護天使を破っているというのに何を咎める?」
「分かってる……ただ、お前の答えを知っておきたかった。もはやセフィロトもこれまでだ」
「待て!」アダムが叫んだ。ユスティノスとリリスは彼を見る。「グスティヌス……お前の相手はこの
僕だけだ。戦え」リリスとユスティノスの前に出たアダムの腕は震えていた。額に汗が浮かぶ。
「ほう……やる気になったか?ふっは、だが声が震えているぜ……」
「アダム!何を……」リリスが彼にすがりつこうとすると、
「ユスティノス……リリスを連れて外の世界に行ってくれるか?君の力だったら、もう直接セフィロト
の外に出ることも出来るだろ?あいつは僕が何とかするから」
「分かりました……アダム」
「ちょっと待って……あなたなしでエンダーを救うの?そんな事ってある?今まであなたがずっと傍に
いたというのに?本当に、私だけの力で?」リリスはまくし立てた。
「ごめんよ、リリス。でも、言っただろ?僕には出来ない。この世界を変えるのは君の力なんだ」
「でも……本当に大丈夫なの?」
「ああ――僕があいつに勝たなきゃいけないんだ」
「どうしても?あなたはついてこないと?」
リリス、聞いてくれ。ヴェルハが存在した理由は何だと思う?それはね、リリス。君の心が僕に囚わ
れ過ぎていたせいなんだ。僕の分離と共に、君の中の僕に依存する心が、君自身の核と共に分離した。
分離したのはヴェルハじゃなくて前までの君のほうだったんだよ。でも、もう依存しなくていい。僕に
尽くすなんて考えなくていい。君が、自分でやるべき事を決めるんだ。君は君の思うことだけのために
存在していいんだ……」
「アダム……皮肉なことね。あなたを誘惑するためだけにあてがわれた私……あの研究所で、あなたの
子供を作るためだけにあてがわれた孤独な私……あなたは見事に私に惹かれてくれた。でも、それ以上
に……本当に私自身があなたを愛するようになっていた。でも、あなたの心は私だけではなかったんだ
から……そうね。いつだって変わる。他人の思い通りになるだけではいけないのね。自分が何を求め、
何をするべきか……分かったよ、アダム。私は……自分の意思でそこに行く。エンダーの待つ――ダア
トへ」
「そうか――だったら自分のために頑張って。僕は君を助けるだけだ」
「ええ――でも、一度持った関わりは誰にも否定は出来ない。確かに私は自分のためにそれを行うけど
、それが他の誰とも関わりを持たないわけじゃない。縛られると言うわけではなく、皆で居ることによ
って新たな未来が見えてきたり……そんな今までの行動を無下にしないで欲しい。依存しているわけで
はなく、もはや糧となった軌跡。それだけは言っておきたかった。その意味はトータルブレイクスルー
の結果にも繋がるから。それに、これは彼女……ヴェルハに教えられたことだから――その意味すると
ころが、本質は結局自分の中にあるということだとしても」
「確かにそうかもしれないな。ごめん。君を縛るわけじゃなく、君には感謝してるよ。またいつか会え
たら――いや、とにかく早く行ってくれ。後は僕が片付ける」
「ええ。ユスティノス、広げて」
ユスティノスは言われた通りにした。その両手で空間を裂いて広げていく。リリスたちを狙って精神の
光を発し攻撃しようとしたグスティヌスの前に、アダムが立ちふさがる。光による攻撃は彼に直撃し、
舞い散った。アダムは両手でガードしただけだった。ほとんど無傷な彼の姿がそこにあった。グスティ
ヌスは高笑いを上げた。
「はっははは……あの女に全てを託すのか?お前ほどの力を持つくせに情けないことだ!」
「違う……人の心の壁を破ると言うことは、誰にだって出来ないことなんだ」
「矛盾しているなあ、おい?だったら何が望みだと言うんだ?お前は一体何なんだア……?」
「彼女なら哀しいほどに理解できるはずだ。誰にだって心の壁は破れる。きっかけを与えるだけだ。強
い衝動の引き金として、まず相手を理解してやらなければならないのだから……」
「けっ、お前の言うことは支離滅裂だ。だがもはやどうでもいい。トータルブレイクスルーか。俺にと
ってはそれが成されようと成されまいと関係ない。俺だけが最強になれればそれで良いんだよ……」
「そうはいかないよ。僕を惑わし陥れたお前を、ここで乗り越えるんだ。消えるのは、貴様だ」
リリスとユスティノスはセフィロトの外部、エデン世界に表出した。視界を覆いつくさんとするほどの
大樹の形を取ったセフィロトが、眼前にある。異様な熱気を感じ省みると、巨大な炎の剣を手に取った
巨人たちがいた。それは大きな赤子のような顔を持ち、獣のように毛深い体を持ち、背中には翼が生え
ていた。火の粉がエデンの花園に落ちていく。リリスは声を上げた。
「あれは……あれは何っ……!?」
ユスティノスは務めて冷静に言った。
「あれは、天使の具象化……智天使ケルビムです。グスティヌスが差し向けたのでしょう……」
「あんなの相手に出来ないわ。どうにかならないの?」
「逃げるくらいしかありません」
「じゃあ、逃げましょう。ダアトに入らなければ」
リリスとユスティノスは空を舞い、セフィロトの幹に沿って上昇した。ケルビムたちは翼を広げてその
後を追った。物凄い風圧が地面に吹きつけ、羽ばたいた無数の天使たちは急上昇し、先頭の一体はあっ
さりとリリスたちよりも上空へ抜けた。その天使は炎の剣を振り上げ、そして正確にリリスに向けて振
り下ろした。リリスがもう駄目か、と思った瞬間、その剣は突然凍り付いて動きを止めた。天使たちの
体自体が氷に飲み込まれ、翼の羽ばたきは止まり地面に向けて落ちていった。リリスは思わず叫んだ。
「マリ……?あなたが助けてくれたの!?ありがとう……まだ進めるのね」
リリスは、そこに守護天使と同じような気配を感じ取っていた。何があったのかは分からない。でも彼
女が助けてくれた。それだけで十分……リリスとユスティノスが上昇を続けていくと、セフィロトはな
んとも形容しがたい状態で見えていた。枝葉の先に向かって空高く上昇していたはずなのに、そこは根
の部分でもあった。同じ状態が複数で重なっているかのような、時間の連続性が狂ったかのような感覚
。ここがセフィロトの深淵<アビス>。この上に隠されたセフィラ・ダアトが存在する。ユスティノスが
手をかざすと、太い根が張った空間の上に穴が開いた。
「ここに入ればダアトに出るでしょう。さあ、行ってください」
「ユスティノス、あなたは入らないの?」
「彼が言っていたでしょう?必要なのはあなたです。私には何も出来ない。セフィラに戻って彼らを助
けることぐらいしか……」
「そう……ねえ、ユスティノス。あなたはどうして私たちを助けてくれたの?」
「私もあなたたちの行動が必要だと思った。だから、そのために自分の意思であなたたちを助ける。そ
れだけの話です」
「ありがとう。私は……きっとそれを達成するから……」
リリスは扉をくぐった。エンダーの封印されしダアトの中へ。
「分かってきたよ、オリゲネス」ミルトンは戦いながら言った。「僕はアダムの欠片だったんね。リリ
スさんの、アダムの子供っぽい部分――幼児性――を愛する思いに引かれて、僕と言う人格がアダムか
ら分離した。それが一つの人格として形成されたんがぼくってこと……ぼくはずっと寂しかったんと思
う。いや、幼い頃のアダムって奴が。結局はリリスさんを捨てることになったけんど、彼女を愛する想
いは完全に消えたわけじゃないんよ。だからぼくは彼女に惹かれてたんだ。彼女の行動がすべてだった
んよ。それが悪いことだとは思えんよ、人は関わりの中で生きてるんからね。一人じゃないから強くな
れるって。でも、お前はどうなんよ?誰のためでもなく、ただ自分のためだけに戦ってるんか?そんな
奴に負けたりしないって……絶対勝たなきゃいけないんよ!」
オリゲネスはミルトンの精神の光を纏った拳を顔面に受け、大きく体ごと飛ばされ、切り裂かれた地面
に頭から落ちた。これで勝った。早くリリスさんたちに追いつかんと。ミルトンがそう思いオリゲネス
に背を向けると、体の下の地面から光の槍が無数に飛んできた。ミルトンはすんでで気づき、体をそら
してかわした。オリゲネスは倒れていなかった。
「どうしてそんなに戦うん!?」
ミルトンは叫んで、自分に向けて飛んで来る光条を避けながらオリゲネスの居る眼下の地面に飛来した
。地面はもはや形をとどめていない。世界は界振によりひずみ、無数に分断されていた。そのうちの一
つで、ミルトンはオリゲネスと向き合った。
守護天使の命令……?そんなもの、天使使徒なんてきっとグスティヌスに操られて手のひらで踊って
るに過ぎないっしょ!?なんで気づかんの!?」
ミルトンはオリゲネスの胴部に拳を深く突き入れた。だが、オリゲネスは立ったまま動じなかった。ミ
ルトンが驚いて後ずさると、オリゲネスは今までとは桁違いに巨大な光条を放った。その露出した腕に
は青い刻印が刻まれている。オリゲネスは口を開いた。
「俺たちが踊らされているに過ぎないだと……?俺たちが本当にグスティヌスや守護天使の手の上で踊
っているとでも?それは違うな……俺には俺の考えがある。ただ自らの力を磨き上げ、何よりも強く…
…全てを手にすること。踊らされているのは果たして誰なのかな」
「なっ……」
「この腕の刻印は世界との繋がりを示し、偽りの太陽を造り上げた彼らの導きの元に、あらゆる力を集
約せしむ……エンジェルコネクション・モード:サンダルフォン
オリゲネスの刻印は輝き、その腕から放たれし光条はセフィラ世界を満たすほどに爆散し、ミルトンの
体もまたそこに巻き込まれていった。
「このセフィロトを壊して」アダムは言った。「お前はどうするつもりなんだ?自分自身さえ壊すこと
になるだろう!」
「ふーむ……アダムよ、お前のイメージを元にこの<コア>世界がセフィロトになったんだろう?」グス
ティヌスはにやりと笑った。「壊して欲しくないのだな?」
「馬鹿な。もはやエデンなんて過去の脚色されたきらびやかな泥濘の記憶に過ぎない。今の僕に必要で
はないさ。ただの手段に過ぎないんだ」
「ふは、本当かねえ?相当恋しくなければエデン世界を構築することすら出来なかったのではないか?
それとも、お前がお前だからだとでも?まあ、流石はアダム、と言ったところではあるな。エデン世界
をぶつけることで<コア>世界のあらゆる想念を作り変えてしまったのだからな。全く、とんでもない事
をする男だよ、お前は!まあ、いずれにせよあの寒い雪の世界に戻りたくはないだろう?」
「雪の世界?お前……何故それを知っているんだ?」
「知っているとも!バベルだろう?簡単なことよ、俺が第二観測者だったんだぜ?」
「お前が第二観測者だと……!?何故お前が?どうやって元の<コア>世界から僕たちの世界へやってき
たと言うんだ?」
「お前と同じような事をしていたんだよ。<コア>世界を時間をかけて改造してたのさ。俺に都合が良い
世界とするためにな。だが、お前がそれを打ち壊しやがった……!まあ、それはいいとしておこう。俺
はあのアダンの精神力学研究所で、自己実験体となった。お前やお前の家族を除けば最強の精神作用力
を持っていたと自負するよ。<集合精神体>に飛ばされてからは、そんな俺の力をもって、<コア>世界か
ら触手を伸ばした。ただお前の存在を感知するためだけにな。ひたすら監視を続けたにも関わらずお前
は見つからなかったが、やっと反応を見つけた。俺はその触手をすべるようにしてあの世界に飛び込ん
だって訳だ。だが、そこでは俺の力も発揮できず苦しい思いをしたよ。その力の制限を可能としたのも
お前のせいだったって訳だな?ふはっ……そんなお前の誰にも勝る強大な力が欲しいのさ。俺自身が、
新たなる神となるために!自分自身の精神構造すら改造し……<コア>世界に集まる溶け落ちていった 
<セル・ワールド>の中の精神能も利用し……ただお前を超えるためにな!」
「そんな……そんなに僕の力が欲しいのか?」
「当然よ。無数の人間たちが存在する中で、お前だけが特別だった。お前だけが例外中の例外。神の子
供。お前だけが唯一精神の力……いうなれば<知性力>とでも言うものを持っていた。許せないことだ」
「それで、ウイルスプログラムによって僕の精神構造を全人類の脳内にコピーしたと言うことか?」
「ふふ、まあな。だが感謝もしてるんだぜ。お前の精神構造体をコピーしなければ、人は魂を持たず、
<集合精神体>だって生まれなかったかもしれないんだからな。そして、俺はこんな力を手に入れられな
かったんだからな!」
グスティヌスは大きく右腕を振りかぶって右手から投げるように光条を放った。アダムは空間を滑降し
てそれをかわす。
「お前は本当にそれだけを望むのか?トータルブレイクスルーが達成したら、お前だって……」
「ふん、トータルブレイクスルーだと?下らない。そんなことが起こったって自我を保てるほどの強力
な精神力を持っていればそれでいい」
「だが、この<精神集合体>の中で神となったところで、何の意味があるんだ!」
「なんだあー?アダム、お前本当に<精神集合体>なんてものが存在してると思ってるのか?」
「この期に及んで何を言っているんだ?僕らがこんな争いをしているのだって、そのためだろう!?」
「違うなぁ……お前は何も考えていないのか?この<集合精神体>の包括する世界は、電脳空間の中にあ
るのだとしたら?」
「何だと……ノアは僕達を引きずっていった!それはお前も分かってるはずだろ?」
「確かに、<集合精神体>は宇宙に飛び立ったノアの箱舟の中にあるかもしれない。だが、その意味が違
うとしたらどうだ?その中のアーカイブシステム、シミュレートされた世界に存在するのだとしたら?
あるいは、<精神集合体>と言うものの存在が是だとしても、それが本物だとは限らない。例えば、精神
は人間社会の裏にネットワークを自然構築すると言う話だ。そのネットワークが、個々の精神情報を記
録したまま宇宙へ飛ばされていったものかもしれない。それが<精神集合体>。我々の精神はネットワー
ク上のみのコピーされた存在に過ぎないのだと……まだある。<セル・ワールド>の中で望むままの夢を
見る主人格――<ルーラー>たちは、自分が偽りの世界の中にいることに気づいていないままだ。だとす
れば、<精神集合体>が宇宙に飛び立つ前、俺たちが生きていた世界もまた幻に過ぎないのではないか…
…誰も気づかなかっただけで、その背景となる世界があったのではないか。<集合精神体>という存在だ
って、そこに浮かぶ泡沫に過ぎないのかもしれない……または、この宇宙は超巨大な生命体の微小な構
成要素に過ぎないかもしれない。可能性は無限大だ。真実なんて関係ない。俺が今ここに居ることだけ
が重要なんだ。だが俺たちは弱い。自由意志の存在すら不明瞭だ。俺がお前の精神構造を全世界に複写
したことも、そうなるべくして起こったことに過ぎないのかもな。それでも、俺たちはもはやここに存
在するのだ。俺たちはまだ弱いが、神の恩恵を受けるお前を取り込めば、神に近づく事ができる!いつ
か我らに対抗する敵が現れないとも限らない。宇宙の暗黒面を省みればありえない話ではないだろう?
その時戦うのはこの俺だ。俺が全てに勝利するんだ!」
「次から次へと楽しい事を考える男だな、君は。でも、それを確かめるのは僕らじゃない。リリスだ。
彼女が全てを解明してくれるって信じてる……」
「心の弱い人間同士が寄り添いながら傷のなめあいをして、それを愛だと抜かすような女が信ずるに値
するとでも言うのか?それともお前のように、俺に怯えて震えているような心の弱い人間自身だから、
そんな女を信じるとか言えるのか?またお得意の庇い合い、傷のなめあいか?」
「僕らはもうそんなんじゃない……傷のなめあいをするだけの愛なんてとっくに卒業だ。もはや誰かの
ために戦う事ができるんだ。そのためならお前に対する恐怖心だって消し去ってみせる……!」
「はっははは!いいぜ、来いよ。俺だってお前の力を乗り越えたくてうずうずしてるんだぜ?さあ、戦
いだ」
リリスは純白の静寂が支配する空間に出た。空間も白に染まり、地面がどこにあるのかも分からない。
そんな中を彼女は歩いた。ここがダアト……?エンダーは……?彼女が考えながら真っ直ぐ歩くと、感
覚の上で違和感を感じた。斜め後ろ上空を見ると、その空中には何者かが逆さまに立っていた。彼女は
地面と言う概念を捨てた。白い空間を自由に動き、佇んでいる彼の元へ赴いた。近づいてくる彼女に目
もくれず、ただ立ち尽くして虚空を見る彼に対し、彼女は尋ねた。
「あなたは、エノク……?」
「違う」彼はやはり目もくれずに、口も動かさずにただ答えた。「私は、メトセラ……エノクが生み出
した、彼とノアを繋ぐための中間経由ニューラルネットプログラム・メトセラ
メトセラだって?」リリスは驚き、「じゃあ、エノクはどこに居るの?」
「どこにも居ない……彼は行ってしまった」
「行ってしまったって……どこへ行ったというの?」
「彼はアダムの記憶との接触で変容した。アダムも超えて……人間を超えた彼は神へ連れて行かれた。
彼はもはや現世にあらず」
「神って一体誰のこと?実際には何処へ行ったと言うの?」
「人知を超えている。もはや知覚すら出来ない彼方へと消えていった……」
「……そう。神が居たと言うのね。では、あなたはエノクの代わりに存在し続けたと言うこと……ノア
に何を言ったの?」
「精神の大洪水が起こる可能性を説いた。空を目指したノアは失敗した。彼は逆に<集合精神体>を形成
することになってしまった。エンダーがそれを望んだから」メトセラの目から一筋の雫が零れ落ちた。
「すべて望まれたことだった。僕も同じことだ。メトセラが機能を停止した時に決壊は起こった。精神
の洪水は人間の肉体と精神を切り離し宇宙に運んだ……激しい雨が降っていたことを覚えてるよ」
「あなたはメトセラじゃないのね」
「僕はレメク……同時に、その親であるメトセラでもあり、カインの息子としてのエノクでもあり、去
っていったエノクの親イエレドでもある……」
「エノクは二人居たってこと?多重人格のようなものだと……」
「エノクは精神プログラムを生み出し、自らの中でそれを増大させていった。いくつもの人格が生まれ
ては消えた。その記憶は残っている……最初に生み出されたエノクと去って行ったエノクは別物だ。最
初のエノクは研究所での辛い体験から逃げるように僕らを生み出した。それはエンダーと通ずるものが
ある」
「エンダー?他のエンダーたちはどこ?あなた一人ではないんでしょ?」
「何処にだって居る。僕たちは一人ではなくなることで苦しみから逃れようとした」
「でも彼にとっては無意味だったんだ」
リリスの後ろから声が聞こえた。彼女が振り返ると、そこには若々しい青年が立っていた。
「僕はアクセラマインド。エンダーの一人……僕は<マインドセンス>インターフェース。エンダーのゲ
ームに勝ち残った彼と同じであり、彼のために仮定された客観性を失わぬ精神観察機構」
「エンダーのゲーム?」
「カインの仕組んだゲームだ。幾人もの選択されし者<セレクション>たちの怨念と共に、彼はエンダー
に成った。そして、エノクの体と出会い、神のごとき力を得て精神の大洪水を起こした……そしてこの
<集合精神体>は形成された」
「分かったわ。エンダーはカインが犯した過ちか……それで、彼、というのがあなたの主人であり、エ
ンダーの核だということね。彼は何処に?」
「あなたには見えているはずだ」
リリスが横を見ると、黒い球体が存在していた。彼女は頷いた。
「あれが彼の<セル・ワールド>ね。いつの間に表出したというの……」
レメクが言った。「この空間では、存在を選択するまでその存在を認識できないんだよ。最初から存在
しないものは表出しない。知識が無ければ何も見えることは無い。そういう封印がかけられているんだ
。僕達を捕らえるためにね……」
今度はアクセラマインドが言った。「あなたがリリス。彼を救いに来てくれた人間だ。レメクが捉えて
くれた。あなたが始めにエノクを連想したからレメクが見えた。そしてレメクの言葉から連想して僕が
見えた。一番冷徹でコミュニケーションをとれる僕が。でも、救うべき彼はもはや自分の中に閉じこも
っている。更にもう一人、手の付けられない奴も居る。あなたはあれを静めてくれるだろうか?」
「そのために来たのよ。後に引くことなんてありえないわ」
「分かった」アクセラマインドは目を閉じた。
レメクが言葉を発した。「僕らには彼を救えないんだよ……優しく接することは出来ない。傷のなめあ
いすら出来ない。全て絶望に結びついてしまう。僕らは救ってくれる誰かを求めていたのかもしれない
。彼女の心が引き寄せた必然の可能性があなただったのかもしれない。でも、あなたにだって分からな
いかもしれない……」
「それでも、理解したいと思うわ……その気持ちは変わらない」
「本当に理解できる?彼の実態を話すよ。彼は自分の中に閉じこもっているだけじゃないんだ。実のと
ころね……精神が集合した時点で、そこに集った全ての魂、心、人格は統合されるはずだったんだよ。
だけど、心の壁なんて解消できるはずだったのに、彼はそれを拒絶した。エンダーが自分の殻に閉じこ
もろうとしたから全ての意識細胞壁、<セル・ワールド>が生まれたんだ。全ての人格がその中で夢を見
る。自分だけの心地よい夢をね。彼は願ったんだ。全ての夢見るものたちのために。悲しみも痛みも無
い理想の世界で生きさせるために……」
「そんな……」リリスはめまいがするような錯覚にとらわれた。「そんなのが彼の幸せだって言うの…
…?」
「彼は全てを拒絶し、自らの甘い安寧の中に身を落とそうとした」アクセラマインドが言った。「だが
、彼の心は救われていない。幸せな夢を見るどころか、未だに暗い闇の中に沈んでいる。そして――彼
は全てを拒絶したが、彼女はまだ求めている。だから、この<コスモ>の中心にある彼女の周りに意識体
が集まった。この<コスモ>が<コア>世界に近づくほどに高密度になっているのはそのためだ――だが、
我々は<コスモ>の中心に居ながらも違う意識次元に封印された」
レメクが続けた。「彼女はまだ救いを求めてるんだよ――彼女はまだ彼の中で、たった一人空を眺めて
いる」
「……それが彼の核ということね。そうか……それがこの<コスモ>のいびつなシステムを造り上げたの
ね。だとすれば尚更引くわけにはいかないわ……」
「本当に彼が救えると思ってるの?」レメクが引き止めるように訊ねた。
「出来るかどうかなんて、問題じゃないのよ」
リリスは黒い球体に歩み寄った。この中に、真のエンダーたる彼がいる……彼の<セル・ワールド>。そ
こに手を触れようとした瞬間、怒声が聞こえた。
「触るな!そこに入るんじゃねえ!」
リリスが振り返ると、アクセラマインドにどこか似た少年が叫んでいた。
「お前なんかに俺たちの気持ちは分からない!勝手に触るな!俺たちをこれ以上傷つけるつもりか!」
物凄い形相でにじり寄る少年だったが、リリスは毅然とした態度で言った。
「誰かに触れられる事を望まないのなら、理解も救いも何も無いのよ」
「分かったような口をきくんじゃねえ!殺してやる……みんな死んじまえばいいんだ!」
駆け寄ろうとした少年を、後ろからアクセラマインドが締め上げた。
「エンダーの<悪意>は抑えておく……あなたは彼の元へ行ってくれ」
「……ありがとう」
リリスは前を向いて、真のエンダーの待つ黒球の中に飛び込んだ。その時、彼女には落ち着いた女性の
声が聞こえた。「……ン……くんは私のために……彼を助……て……」ノイズのような声だったが、そ
の声は悲しみに満ちていた。リリスはエンダーの意識世界、<セル・ワールド>に入り込んだ。入り込ん
だそこは、陰鬱さすら感じない空虚な暗闇だけが支配していた。<代替物>すら存在しない無の世界。そ
んなその世界の底に、一人の青年がうずくまっていた。リリスは彼に近寄って、言った。
「どうしてこんな所に居るの……?」
彼は何も答えなかった。リリスはまた言った。
「こんな暗闇の中に居たって楽しくないでしょ……?外に出ましょうよ」
やはり彼は答えなかった。
「目を閉ざして……耳を塞いで……何も感じずにただ自分の中だけで完結していいの?」
答えなかった。
「怖いの……?傷つく事がそんなに怖いの?何も愛することも無くただ全てを憎み、それらを自分の中
から排除しようとしているの!?」
答えなかった。
「何も触れなければ傷つくことは無いって?そんなことない……何も感じない心は風化していくわ。常
に誰かとふれあい、心に元気を与えなければいけないのよ。誰かと触れ合えば、たとえ傷ついたって楽
しい事だって沢山あるのよ!」
リリスは彼の体に手を伸ばした。「一緒に行きましょう……」彼の腕に手を触れると、彼はその手を弾
き飛ばした。
「どうして?」リリスは彼の両肩を掴んで揺すった。「誰だって楽しく生きなければいけないのに!」
「うるさい……」彼は答えた。「あなたはどうせ始めから幸せな人なんだ。何も考えずとも幸せが寄っ
てくる。幸せな事を幸せとすら気づいていない。誰だって楽しく生きる?そんな甘い理屈を吐けるなん
てその証拠だ……僕は違う。何も持っていない程度の不幸ですらない。誰も愛していないだって?違う
……僕だって純粋に誰かを信じたこともあった。心から誰かを愛することもあった。でも、それはいつ
も裏切られた。いつだってそうなんだ!信じれば裏切られて……愛すれば失う……何もかもが僕を傷つ
ける……痛みばかりをこの身に刻んで去っていく……そんな世界なら無くなればいいって……誰もが好
きな夢を見る事ができれば幸せになれるって……僕だってそうしたかった」
「それが幸せだって?」
「僕は……本当に彼女が好きだったんだ!彼女はただ一人だけ……僕を救ってくれた。そこに居るだけ
でよかったんだ!だけど失ってしまった!どうして!彼女を愛していたのに!どうしてなんだよ!いつ
だって僕は一人だ……もう……そんなの嫌なんだ……」
「……本当に自分だけが辛いと思っているの?……私だって……始めから何もかも持っていたわけじゃ
ないよ……それどころか、君と同じだった」
ミルトンはマルクトのバラバラになった地面の中に食い込んでいた。体は血だるま、両腕は折れ曲がり
、左足がもげており、頭は潰れていた。オリゲネスはそれを見下ろして満足したようにため息をついた
が、いつものように平静な顔は変わらなかった。地面は振動に包まれ、巨大な建造物ごと空間の底に崩
れ落ちていった。
(さあ……邪魔者は消えてくれた。後は、アダムのほうか……)
オリゲネスは右腕で空間に円を描き始めた。そこから空間が断絶し、切り口から第一のセフィラ・ケテ
ルの光景が少しずつ見えてきた。彼が円を描き終える直前、下方から光の矢が飛来し、彼の腕を弾いた
。彼が崩れた地面のほうを見下ろすと、地面の隙間から腕が、煙を上げて生えていた。
「お前か、ミルトン……」
オリゲネスが言うと、声なき声が彼の頭に響いた。意識空間を媒介に思考を直接相手に伝える手法か…
…だが、もはや無意味以外の何者でもないだろう。哀れなものだ……オリゲネスは一瞬目を閉じて眉間
にしわを寄せた。
<オリゲネス……言ったっしょ……お前はぼくが止めるって……>
「何故そこまで固執する?お前は強かった。だがお前はもう負けたんだ。安らかに眠れ……」
<そういうわけにはいかんよ……お前があの人の行く手を阻むことになるなら……ここで倒さないとい
かんよ……必ず……あの人の障害を食い止めるって……言ったんよ……>
「だがお前は力が足りなかった。そんな者の末路がそれだ。仕方の無いことだ。もはや覆ることは無い
。絶対的な力が審判を下し、人の世は移り変わっていく。それが唯一つの真実だ……」
<そうかもしらんね……でも、約束だ……ぼくはあの人に協力するって言った……今まで何も出来なか
ったんだ……今、ここでやらんと……あの人に対するぼくの存在は……なんも無かったようなもんにな
っちまうっしょ……ぼくが本当に好きだったあの人に対して……確固とした一人の存在として向き合え
るように……ぼくは、やんなきゃいけないんだ。さあ……これが最後だ>
ミルトンの声は途切れ、オリゲネスは見た。ぼろぼろに崩れた地面の狭間から、眩い光が閃き、そして
、爆発した。
(まさか……自分の存在を全て攻撃に……セフィラごと……飲み込まれ……)
激しい光が一直線に伸び、オリゲネスの体を覆いつくした。光はセフィラの意識体存在可能域……セフ
ィラ世界の壁にぶつかり爆発し、そのまま壁を貫いて消えていった。穴の開いたセフィラ・マルクトは
潰れて闇に落ちていった。
グスティヌスは左手でアダムのわき腹を狙った。アダムは右肘を振り上げてそれを防いだ。グスティヌ
スは同時に振り上げていた右足でアダムの左から胴体を襲った。彼は左腕でそれを防ごうとしたが、蹴
りの爪先は後ろのほうから彼の体をえぐった。体に切り傷がついた。彼、アダムは分かっていた。もは
やこれはただの格闘戦ではない。一撃一撃が命を懸け振り下ろされた刃なのだと。彼は蹴りの当たった
方向に体を右回転させ、そのまま右肘でグスティヌスの後頭部を狙った。彼は勢いをつけた右の頭突き
でそれを打ち落とした。さらに右手でアダムの首を掴み、そのまま空間を突っ切ってセフィラの浮き島
の地面にアダムの頭を叩きつける。アダムの四肢が力なく浮き上がった。更に二度、三度と頭を打ち付
ける。アダムは五度目に頭を打ちつけられた瞬間、右手でグスティヌスの右頬に打ち込んだ。同時に左
手で首を掴むグスティヌスの右手を握り、ぎりぎりとねじる。その右手が力を失い首を放すと、グステ
ィヌスは左足でアダムに蹴りかかり、アダムはグスティヌスの右手を離し、体を回転して蹴りを避けた
。グスティヌスは蹴りの勢いで体を一回転して、その間アダムから死角になった左手に自らの精神の光
を集中し、アダムを向くと同時に光球を放った。アダムはそれを両腕でガードしようとしたが、両手が
腹の前に来たところで被弾し、両手で大きな球を抑えるようにしながらも、その勢いに押されて空間の
中を吹き飛ばされた。彼は体を前に倒し、手で操って光球を斜め下に飛ばした。光球は空中の巨大建造
物の、今や界震でうち崩れてしまったその破片に当たり、分散した。グスティヌスは間髪居れずに両手
から光の矢を撃ち出した。アダムは下方に向かい空間を滑降し、それを避けた。しかし、それを追うよ
うに光の矢は連続的に飛んでくる。アダムもまた飛行しながら両手から幾度も光を放った。そしてアダ
ムの前方に現れる光の円盤たちは、それぞれ空間に静止して盾のようになり、グスティヌスの光の矢を
防いでいた。しかし、それを外れてアダムの体に命中する矢もあった。彼はすんでのところでかすり傷
に済ませていた。アダムは無数の盾を出しながら、時々もう片方の手で光の矢も放ち、グスティヌスに
攻撃した。しかし、その狙いは外れていた。グスティヌスは思った。アダムは自分の力を操りきれてい
ないのだ。ポテンシャルの違いはあれど、俺のほうが有利に戦いを進められる……グスティヌスは少し
力を溜めて、大きな光球を発した。アダムは、その攻撃をシールドしきれないと踏んだか、それまでの
横移動から急激な縦方向の上昇をして、それを避けた。そして、更に上昇していった。しかし、光球は
一度避けられた後、ゆっくりとその動きの向きを変えて、そして一気に加速してアダムの体を追った。
アダムはその動きに気づかず上昇を続けて、グスティヌスはほくそ笑んだ。そして、それが直撃しそう
になった瞬間にアダムは下を見た。巨大な光球は、勢いを増してアダムを追っている。
「ひゃはははは!追尾されていることに気づかなかったか!うかつだったな、アダム!?」
アダムはにやりと笑った。アダムの足下から光球は直撃した……しかし、彼が焼け死ぬことは無かった
。それどころか、勢いを増して上昇……その軌道は、グスティヌスの顎先を狙っていた。
「なにぃ……」
グスティヌスは気づいた。アダムの足先に、例のシールドが張られている。今までよりも大きなものだ
。それは、グスティヌスの放った光球をアダムの体に当たるところで弾き、その反発で光球ごとアダム
の体を加速させていた。そして、彼の頭はグスティヌスを狙ってまっすぐ、恐ろしい勢いでグスティヌ
スに迫った。
(まずいっ……!捨て身の攻撃か、これに当たったらただでは済まん……っ……だが、これをかわせば
アダム、お前だけがセフィラ世界の壁にぶち当たり、そのまま崩れて焼け死ぬのだ)
グスティヌスは高笑いして、思い切り体を後ろに倒した。もはや、当たることは無い!だが……その予
想は覆された。突然、アダムの下で、尋常ではない量の光が爆発した。その加速はアダムの軌道を変え
、グスティヌスの元へと一直線に、そして今まで以上の目にも留まらぬ速さで飛ばした。アダムは右腕
を突き出し……グスティヌスの腹を貫いた。二人は空間を一直線に横切り……世界の壁に当たって弾か
れた。二人を覆った霧のような光の渦は消え去ってゆき、腹を貫かれて血をぶちまけるグスティヌスと
、足元が焼け爛れたアダムが、セフィラ空間の浮き島の一つに落ちていた。グスティヌスは閉じられた
目をゆっくりと開け、アダムを見つめ、言った。
「お前……俺が放った光弾を……利用したな……あの円盤状の光は……シールドではなく、反発力を持
たせるゴムのようなもんだったと……それで光弾を一箇所に跳ね返して、爆発を起こした……」
「ああ。お前が無数に光の矢を放っていたから、利用させてもらったよ。最初は、時間差を利用して、
お前の体を一箇所に押さえておいて、そのままお前に当てるつもりだった。でも、お前の追尾してくる
光球を処理しなきゃならなかったからね。足元で光球ごと爆発させたってことだ。そして、シールドを
利用した反発力で、お前を貫いた」
「ふ、ふはははは……やっぱり、お前は凄いぜ……てっきり力を使いこなしてないもんだとばかり……
そうか、ちょくちょく光弾に当たって見せたのも……時々俺を外して光弾を放ったのも……油断させる
ための計算だったのか……」
「まあね……だが、上手く行き過ぎたな。お前が冷静であれば、たいしたトラップじゃなかったろうに
……」
「お前のことだ……爆発する位置の調整くらい出来たんだろう?いずれにせよ……結局俺はお前に勝て
なかったわけか……ふははははっ……結局、俺が弱い人間だったというわけか……」
「僕のことに固執しすぎた結果だよ。お前は自分を追い詰めすぎていただけだ……」
「気休めはよせよ……俺は冷静さを失い、それ以上に力も弱かった……それだけだ。まあ、当然か……
お前に勝てる奴なんていないってことだな……だからこそ……俺はお前に勝ちたくて……前も見えなく
なったというわけか……」
「何でそこまで力が欲しいんだ?やっぱり分からないな」
「ふはは……俺はお前が羨ましかったんだ……それと同時に憎かった。あんなに強い――神に近づくよ
うな力を持っていながら……お前はそれを持て余しているだけだった……お前を監禁して散々おかしな
実験を施した研究員の成れの果てが言うのもなんだがな……もっと使い道があるはずだと思っていたん
だ。俺だったら、もっとこの世を変える事ができるって……だからあのプログラムを作ったんだ」
「そうか……だったら最初から分け与えたって良かったんだ。僕の精神の力を見つけて、その実験のた
めに僕を閉じ込めた精神力学研究所だって、僕のために秘密裏に設立した事自体が間違いだった。わざ
わざ秘密にしなくたって良かった。もっと誰かのために力を使うんだったら、僕だって喜んで協力した
だろうに。研究素体として僕の子供を作るためにわざわざリリスをあてがったことといい……思考力を
奪ってプログラム世界のエデンに閉じ込めたことといい……お前たちのやり方が間違っていただけなん
だ。だから様々な悲しみが生まれることになったんだって……」
「ふん、俺は間違っていたなんて思わんぞ……もしそんな世界だったら、人々の間にどんな混沌が現れ
ても仕方ないことだろう?……全ては秘匿の上に成り立つべきだったということだ……まあ、今更何を
考えても仕方の無いことだ……さて、アダムよお、そろそろ俺に止めを刺したらどうだ?……もはや喋
ることは無いぜ……」
「……僕はお前を乗り越えた。恐怖に打ち勝つ事ができたんだ。だから、感謝してる。お前だって無理
に消えることも無いだろ。トータルブレイクスルーは目の前だ……一緒に見たらいいだろう?」
「甘い奴だな……殺さないとでも?……俺の自我を残してもいいとでも?……ふん……俺は負けたんだ
……お前の中途半端な情けなんて受けない」
グスティヌスは、右手を大きく振りかぶって、鋭く振り下ろし、自らの首を切断した。彼の体は溶け落
ち、光のように消えていく。彼の頭は唇を動かした。
(……オ・マ・エ・ラ・ガ・カ・チ・ノ・コ・レ……)
そして、彼の姿は世界に溶け込み、完全に無くなった。アダムは、目を閉じて黙祷をささげた。
「……もう勝ったのですね」
背後からユスティノスが声をかけた。
「ああ。彼だって理不尽な世界の犠牲者だったのかもしれない。同情なんてしたら怒るだろうけどね」
「そうですね……」
アダムは黙ったまま突っ立って、少しの間空を見た。そして、「そろそろここを出ようか」と言いかけ
て振り向いた。しかし、その言葉は言い切れなかった。ユスティノスは、背後から、その手に持った光
の剣でアダムの体を貫いていた。その位置はほとんど心臓に近く……
「……どうして……君、が……」
アダムの口から血が噴出した。ユスティノスは表情を変えることなく言った。
「私は、あなた自身から生み出されし研究体、セト……」
「……そうか。君もここに来ていたのか……」
「私たちはこの世界を操ろうとしている。悪いが、あなたの存在は邪魔だ……」
アダムははっはっは、と高笑いした。
「大丈夫だよ、リリス……僕は……まだ……死なない……か……ら……」そして言葉は途切れた。
リリスははっと顔を上げた。視線の先には暗澹たる暗闇しかない。不安が顔ににじみ出るが、その真っ
直ぐな眼差しをエンダーに戻して、口を開いた。
「今、私の大切な人たちが消え行こうとしている」
エンダーは彼女を見上げ、彼女は瞼を閉じた。もう戻れない時に思いをはせ、それからゆっくりと瞳を
見開いた。
「私も、大切な人なんて始めからいたわけじゃない。あなたと同じように、何も持っていない程度の不
幸ですらなく、信じるたびに裏切られて、愛そうとするたびに消えていってしまう。そんな人生を送っ
ていたわ。愛すべき家族だって、信じられる友達だって、幼い頃から何も無く、いくら頑張っても手に
入れる事だってできなかった。私は自分だけのために生きようと思った……必死で勉強して、他の誰か
に私の記憶を残せるように。でもその願いだって打ち砕かれた。秘密裏に行われた精神力学の研究は不
本意だったし、誰かと愛を育むどころか、名も知らない誰かの心に私の爪あとを残すことすら出来ない
。一体幾度この世から消えてしまいたいと……この世が消えて欲しいと願ったことか分からない。でも
、きっかけなんていつ下されるか分からない。自分からそれを掴もうとすればきっと手に入れることも
出来る。そうして私は自らアダムを誘惑し、彼の心に触れた。それはとても暖かいものだった。馬鹿み
たいに晴れた青空みたいに私の心を引き込んだ。一人から二人になることで、自分の存在を認められる
ことで、どんなに心が楽になったことか……それを知ったから、彼を失ってからも二人の時間を想い続
けた」
リリスは、うずくまったエンダーの前にしゃがみこんで、彼と目線を合わせた。
「彼を本当に失ったわけじゃなかったから、またいつか巡り会えるかもしれないって思ってた。プログ
ラムの海を越えて、いつかまた二人でって……あなたのように愛する人を失ったわけじゃない。まだ悲
しみは弱かったかもしれない。でも、彼はもはや彼女を愛している……私との愛は失われた。私だけの
彼は失われた。やっぱり寂しかった。<集合精神体>が生まれてからも、私は誰かを求めて意識世界の海
に旅立った。そして、いくら探しても見つからない彼の代わりに何かを成す事で、彼に近づけると思っ
た。トータルブレイクスルー……本当は寂しかっただけなんだよ。そんな気持ちを消し去る事ができる
と思ったから、強引に計画を進めたの。ノアと共に新たな旅に出て、最初は虚勢を張って傲慢な態度を
とり続けた。でもね、私はこの旅路で大切なことを学んだ。やっぱり人は一人で居てはいけないんだ。
そう――誰も独りじゃ自分を知らない。引きよせ抱き合う星のように、それぞれの光を映しながら、
きっと私たちも巡ってる――つまり、どんな時にだって付きまとうのは他者との関係性。それを途切れ
させてはいけない。そして互いを認め合い、高めあう。どんなに苦しくても誰かが傍に居てくれれば何
とかできる。時に過ちを犯したとしても、一人で居ればそれを正すことなんて出来ない。痛みだって分
かち合う事ができる。誰かを愛し、愛されれば救いはそこにあるんだよ……愛すべき仲間と出会って、
彼らが消えていった今でさえそれを確信してる。誰だって自然に人と一緒に居る事も出来るんだ。だか
らね、夢なんて見なくていいんだよ。誰もが共に歩んでいく事ができれば、それで……それでいいの」
リリスは一旦言葉を止めた。深く息を吸い込みエンダーの瞳と向き合う。
「私は、この<集合精神体>の全ての心の壁を破ってもらうため――トータルブレイクスルーのためだけ
にあなたに会いに来たわ。でも、あなたが全ての心の壁、そして意識世界を造り上げたと聞いて、思っ
た。あなたはただ不幸だった。何の他意も無く、ただ純粋に可哀想な人なのだと。私だってあなたと同
じ道を歩んでいたかもしれない。それでも、私は自分の意識世界を破った。仲間と心を交わす事だって
できた」
リリスはエンダーの手に自らの手を絡ませ、
「あなたの行為によって、あらゆる人が自らの意識世界で安寧を得られる。それでも人の心は集いコミ
ュニティを造ったり、仮初だとしても新たな命を宿らせた。それは何故?やっぱり人と人は本物のむき
出しの心で引き合う事を望んでいるのよ。私だって同じ。どういった形であれども、人と出会うことで
心の安らぎや楽しみを見出したい。アダムには悪いけど、やっぱり私は一人だけじゃ嫌なんだよ。誰か
と一緒にいなければ駄目なんだ……だから」
リリスはエンダーの手を引いて、引っ張られた彼の体を抱きしめた。
「あなたが誰とも本当の愛を満たす事ができなかったのなら……私があなたを愛するよ。いつまでだっ
て傍にいる。あなたの全てを包んであげるから。だから……あなたも私を愛して欲しい」
リリスはエンダーの背中をぽんぽんと軽く叩いて、
「秘密のおまじないよ……あなたの辛い記憶を全て受け止めてあげるから……もう悲しまないで」
エンダーは大きく目を見開いたままリリスに抱擁された。リリスは言葉を続ける。
「とにかくさ、一人で居なければきっと大丈夫だって……もう自分の傷跡をえぐることも無く……ずっ
と誰かと傍にいて……愛し合えれば、きっと……きっと素敵な世界にいられるよ……」
リリスの肩に水滴が落ちた。エンダーは……泣いていた。リリスはもう何も言わずに彼の体を強く抱き
とめ、彼もまた……彼女の体を強く抱き返した。突然、闇がひび割れた。一筋の輝きが差し込み、彼女
たちの体を優しく照らした。闇は頂点から広がるように崩れ落ち、<集合精神体>の中の姿が見えてきた
。もはや隠されたセフィラ・ダアトも壊れていた。空間が断絶せず、セフィロトの影が見える。その景
色も次第に壊れ、光へと変わっていった。その外側を埋め尽くす数多の<有意識>の細胞が見えては、そ
の暗闇の細胞壁が壊れ、中から純粋な精神の光が溢れ出していった。更に外側にある細胞たちが見えて
は壊れていく。無数の光が列を成し、光の帯が折り重なっては<集合精神体>を満たしていく。リリス
その光景から我に返り、エンダーの姿を探した。しかし見つからない。ただ一言、
「……ありがとう……」
そんな言葉が響いたような気がした。全ての記憶を失ったエンダーは……そして彼を見守っていたエン
ダーたちは……行ってしまった。そしてトータルブレイクスルーは始まった。もう誰も一人じゃなくな
る。誰もが一つになり、痛みも喜びも分かち合える世界になる……きっとそうなるって信じてる……リ
リスは、全ての心の闇が晴れて精神の光が満たしてゆく<集合精神体>を見つめた。光の海は果てしなく
続く。
「アダム……終わったよ。いいえ……きっとこれからが始まりなのね。ああ……光に溢れてる……とて
も綺麗……綺麗な世界。これからもきっと続いてく……皆、一緒にね……」
トータルブレイクスルーは完了した。そして彼女もまた自らの夢の終わりを求め、光る世界に飛び込ん
でいった。
END