Victo-Epeso’s diary

THE 科学究極 個人徹萼 [CherinosBorges Tell‘A‘Bout] 右上Profileより特記事項アリ〼

📔 時結び

宇宙の真理と悟りの話


最初にあったものは、一つの磁石だった。我々が世界と呼んでいるものの正体だ。それは遍く情報を内包し、あらゆる実在と非実在、それにあらゆる肯定と否定を含んでいる。双極化する無数の原理が波の干渉を起こすが如く、互いに打ち消し合い、高め合う無数の力。それらの均衡がとれた位置に、無数の『世界』と呼ぶべき、具象化された情報が現れた。
 静止したままであった無数の世界に命を宿したのは、それらの間を行き来する情報の軸が生まれたからであった。それに関連するのは、始まりに謳われる磁石の二面性である。空間の次元軸に沿った重力と、時間の次元軸に沿った重力。重力とは、均衡を取ろうとする無数の力が、余剰な回転を生み出し、その次元における平衡の過多を生み出してしまう現象である。せいぜいが3次元空間しかまともに認識できない(その様に殆どの情報が均衡化し切っているのである)我々人類にとっては、空間軸も、時間の軸さえも同様に、僅かながらの余剰次元を残していることに感覚的に気づくことは難しい。空間と時間は、根柢の部分で双極化した情報が、均衡を保った形を模索する上で、互いに干渉を起こし、複雑化し、やがて生命という、均衡化されながらも動的である空間構造を生み出した。無数に散らばる世界を、その一部であるがままに観測し、それに対するメタ的な情報を集積する高次元な情報の誕生である。それはまさしく双極化する空間と時間が生命という、精神という帯で結ばれる事であった。
 我々は双極なる空間と時間の狭間で悶える精神である。我々の精神の生み出すスピンの余剰が我々の思考、我々の肉体、我々の軌跡を描いていく。しかし、この営みは、果たして終わりあるものなのだろうか。もしも、空間と時間が完全に等価な双極であれば、いつか終わりは来たのかもしれない。しかし、空間とは配置に依存した情報(時間に依存する距離ではなく、情報の配置自体が空間である)であり、一方時間は空間の再配置に依存している。それは数値と数列の関係である。二つは全く質の異なる事象なのだ。
 空間を縦糸、時間を横糸と例えたところで、横糸に対する別の横糸を見出せてしまう。その新たな横糸が、時に事象と、時に生命であり、精神であると呼ばれるのだが。無数の糸が縺れ合い、我々の世界は成り立っている。
 しかし、それもまた均衡化して、眼には見えぬが均一なる方向に加速させられていく。
 我々は世界を為すものである。それはまるで巨大な枯れ木のように。我々の枝葉には無数の可能性がある。そして、我々の根にも、無数の方向がある。過ぎ去った事は変わらないと人は言う。が、あまりにも遠くに見下ろす過去においては、収束した事象すらも発散してしまう。ほんの微細な量子のたち振る舞いがマクロな事象を変えてしまうことと似ている。時の流れは空間よりも尚細く長く収束し、その曖昧さを覆い隠している。だから誰も気づかないのだ。無数の過去と未来が入れ替わり、立ち替わる中で、我々の現在だけが収束していく。歴史さえもがいつの間にか書き変わり、誰もそれに気づきもしない。世界の樹には、頑強な一本に伸びる茎があり、多くの魂はその中を泳いでいるばかりなのだ。
 我々の根柢には、無数の基礎がある。その収束した部分だけを仰ぎみれば、この宇宙が機械にシミュレートされた仮想空間だと言う事もできるだろう。或いは、宇宙自体を食いつくした巨大なブラックホールの中で、事象の地平線内に新たに自然発生した宇宙である。或いは、虚空を夢見る巨大な黒羊の脳に発生したノイズでもあるし、星々の灯さえも食らう巨人達の記憶の中の風景であるかもしれない。
 私はかつて、荒廃し、汚染され滅びかけた地球の夢を見た。奇妙に歪み、植物と動物の境界を越えて繁殖した苔が、全ての存在を腐食させながら電磁気的分解を行っていた。年老いて膨張していく太陽の光と風を吸収しながら成長した苔層は、地球を巨大な光化学的情報体マトリックスへと変えていた。
 私は巨大苔状生物『地球』の心に触れた。まさしくそれは、神であった。かつてあった全ての精神、受け継がれてきた全ての営み、遡行し参照できる全ての記憶を併せ持っていた。甘美であり冒涜的な悟入体験に、私の心は震え上がった。
 しかし、それすらも我々の世界を表現するタームのほんの一部分に過ぎなかった。私の全てを導くには、苔状生命の神だけは足りなかった。
 誰が言ったか、『神とは宇宙そのもののことである』と。しかし、一つの宇宙そのものの本質を持ってしても、世界の根源に至ることは難しかった。
 いくつかの体験があった。電子的生命としての神と出会ったこともあった。どんな電流にさえも、人間の観測的不可知なエンタングルメント効果を見出せると教わった。顕微鏡的ミクロな観測行為は、どんなに誤差を無くそうとしても、無限小的観測誤差が生まれる。その結果はマクロレベルでは収束し、無数の並行世界のように観測される。空間的な世界の配置すらも、無数の誤差を見出して捉えられてしまうのだ。それも精緻に観測しようとすればするほどに決定的に。
 或いは、この世界は本質的に均一な光に溢れているのだろうと思った。完全な光は完全な無に等しい。完全な無は無自身をも無に帰す。情報の多極化現象が起こり、数学的収束が起こり、光が非連続的存在になる。光を絞り込むレンズが形成され、それは時間体験と共にチューブのようなエネルギー形態を取り、それらがワイアーとなって我々の物質的世界の構造を編みこんでいる。
 しかし、そのような理由などで世界の本質の全てを言い表す事は出来ない。
 電子的な神も、生命体的な神も、記憶の集積としての神も、私にとっては全くの不足であった。そのうち、私は現実的世界すらも曖昧な波長のようにとらえられることが多くなった。この世界はイデアの連なりであり、眼に見える世界すら、言葉の連なりと同じようなものだ。
 夢を見るときに映像的記憶ははっきりと浮かぶ。無数の記憶の連想が像を結んでいるだけなのに、ほつれている場所を意識できないと言うだけの事で、随分と鮮明な世界を体験できるものだ。
 眼を覚ましていて体験する世界も、夢の延長にあると私は考えるようになった。眼の盲点を普段意識できないように、世界自体にも盲点のような網目のほつれが存在する。薄いシャツの布地を光が透かしてしまうように、この世界の背景から、無数の輝きが零れ出してくる。それは時にサイケデリック幾何学的な光景のようにも思えたし、グロテスクな程均一な色彩のように見える時もあった。
 しかし、意外なことに、それは歌だった。
 ああ、私はその全てを知っている。世界の終わりに訪れるその光景を、私は悟ってしまったのだ。ひと組の恋人たちが居た。幸せな恋をして、やがて光に包まれる庭で歌を唄いながら溶け合っていた。彼は彼女の膝に枕し、彼女は幸せな歌を歌い続けた。無限にも続き、永遠にでも繰り返す世界の中で、最も幸せな瞬間がそこにあった。そこで世界は終わっている。空間も、時間も、生命も、宇宙の背景にある無数の基底も、神々すらも、全てがその瞬間のためだけに溶け合っていた。そして、輝いて消えていた。その後の全ての未来も、その前の全ての過去すらも、その恋人たちの、その瞬間のためだけにあった。悟りとは残酷なものである。何の変哲もなく、それでも尚世界の全てが生むべくして生んだ『時の最果て』であるところの幸せな結末。私自身がその選ばれし恋人たちの片割れではないと知りながら、生きていかねばならないのである。
 世界は複雑なものが絡まって生まれながらにも、実はそんな単純なものを求めるために生きている。
 始まりは一つの磁石だった。双極に分かれたものが、廻り回って一組のつがいとなって完結する。あまりにも単純で、美しくて、まぶしい物語であった。我々が生きるあらゆる世界は、その瞬間を覆い隠すための覆いに過ぎないのかもしれない。それでも、彼らの木漏れ日は、イデアの網から漏れて、絶えず我々を優しく照らしているのである。