📒 白鳳の湖

◆１

　エイミが家を飛び出したのは午前１０時を回った頃だった。

「伯母さんを助けるために、薬を取ってくる！」と言い残し、幼い少女は街を飛び出したのだ。

　ロゼッタストリートと呼ばれる郊外の田舎町。緑と山に囲まれ、住人達は皆顔見知りだった。

 

　エイミがまず最初に向かったのは、古ぼけた小さな薬屋だった。

「店主さん、店主さん！伯母さんが大風邪引いて寝込んでるんです。いい薬はありませんか？」

「おや、エイミちゃん。サンドラ伯母さんが風邪を引いたって？それは大変だ。何とかしないと」

「なんかね、肌が真っ白になってて、唇がカサカサになってて、ずっと震えが止まらないみたいなの」

「何だって？」

　薬屋の店主である老けた中年女性は、訝しげに尋ねた。

「本当に風邪なのかい？熱は出ているの？」

「いいえ、全然。でも、苦しそうで、ずっとベッドから動けないの」

「パージ伯父さんはどうしているんだい？」

「最近ずっと仕事で忙しいみたい。だから、中々伯母さんの面倒を見れないみたいで」

「それは困った人だねえ。じゃあ、私がサンドラさんの家に診療に行ってみるわ。もしかしたら、ただの風邪じゃないかもしれないのだけれど」

「どういうこと？」

「重い病気を患っているかもしれないのよ。ちょっと、備えが必要だから、あなたは先に行って待っていて」

「わかりました」

 

　エイミが薬屋を出ると、幼馴染の少年がドアの向こうで待っていた。

「なあエイミ、ちょっとこっち来いよ」

「どうしたの、リュート君」

　誘われるまま、エイミは人目の付かない木陰のほうへと付いていった。

「話は聞いてたよ。サンドラ伯母さん、大変なんだって？」

「うん。凄く苦しそうだから、心配になっちゃって……」

「実はさ、あの店、最近薬の入荷が足りないみたいなんだ。客があんまり来ないから。もしかしたら、あの店主さんじゃサンドラ伯母さんを治せないかもしれない」

「じゃあ、救急車を呼ばないと！」

「そっちは店主さんが見てから決めることだろ？でもさ、このままじゃ俺達はやれることが無いと思わないか？」

「うん、まあ……」

「実はな、東のほうに小さな林があるだろ？あそこの湖に咲いている花には、どんな病気も治す力があるって噂があるんだ」

「そうなの？」

「ああ。この街の古くからの伝説らしいぜ。どうせこのままじゃ手持ち無沙汰なんだ。本当にいい薬を作る材料になるかもしれないし、とりあえず行ってみないか？」

「うーん……」

　エイミは考え込んだ。サンドラ伯母さんに付きっ切りで面倒を見てあげたい気持ちもあるけれど、私が居た所で何の解決にもならない。

　だったら、リュートと一緒に伝説の薬花を探しに行くほうが、帰って看病の邪魔にもならずに済むかもしれない……

「分かった。一緒に行こう。でも、もし効き目が無かったら怒るからね」

「いや、俺だってサンドラ伯母さんを何とかしてあげたいだけなんだよ。藁にも縋りたいだけなんだ」

「そうだよね。とにかく、じゃあ行ってみよう！」

 

　森林の入り口には30分足らずで着いた。

『危険！この先立ち入るな』と書かれた看板もあったが、林の中にはしっかりと踏み固められた順路があり、案内標識もあり、迷う心配はなさそうだった。

　そこで二人は、湖のほうへとどんどん足を進めていったのだった。

 

「ここが『白鳳の湖』かあ。案外普通なところだな」

「そうね。何の変哲も無いただの池だわ」

「どこに花があるんだろう？雑草ばかりしか咲いてないじゃないか」

「本当だ。何処にも花なんて無いわ」

　そこでふと思い出したようにリュートが笑った。

「そう言えば、水中花っていうのもあるらしいな。もしかしたら、池の中に咲いてる花があるのかもしれない」

「じゃあ、飛び込んで探してみる？」

「それもアリだな。どうせ大して深い池じゃなさそうだし」

「じゃあ、手分けして探しましょう」

 

　靴を脱いでスカートの裾をたくし上げ、エイミは湖に入っていった。

　リュートも靴を脱ぐ。ハーフパンツを履いていたので、服が濡れる心配は無かった。

「そう言えばさ、なんでここが『白鳳の湖』って呼ばれてるか知ってる？」

　池に入りながら、リュートが尋ねて来た。エイミは素直に「知らない」と答える。

「鳳凰って知ってる？不死身の力を持った伝説の鳥がいるんだ。で、ここには白い翼を持った鳳凰様が住んでるって昔から言われてる。白鳳を目にしたものはあらゆる死に打ち勝つ力を得られるだろう……ってね」

「ふーん」

「まあ、そういう伝説があるんだよ。だから、あながち万病に効く薬草があったとしても不思議は無いって事だよ」

「伝説に隠された真実ってヤツ？」

「そういう事。まあ、探してみようぜ。俺はこっち行くから、お前はそっちな」

「うん」

　ジャブジャブ、と水を掻き分けてエイミは前に進んでいった。小さな池のようだとは言っても、四方は100ｍ以上ある湖だ。そこから水中花を探し当てるのは苦労がいる。

『本当にこんな事に意味があるのかしら……』と思った瞬間、エイミは水中の藻で足を滑らせ、池の中に真っ逆さまに落ちてしまった。

「きゃあっ！」悲鳴を出すのが早いか、エイミの体はゆっくりと湖に沈んでいく。

『でも大丈夫よ、底の浅い池のはずだし』

　エイミは楽観視して、とりあえず自分の両肘が池の底に付くまで踏ん張ろうとした。だが、いくら待てどもその瞬間は訪れない。

『あれ？この湖ってこんなに深かったかしら？』

　エイミは、このまま自分が溺れ死んでしまうのではないかと若干不安になってきた。咄嗟に閉じていた目を開けてみると、水面の輝きは、もはや上空遥か遠くに見えるようになっていた。

『部分的に深い場所があったんだわ！』そう気づいたとき、もうエイミは自分の力で這い上がることの出来ない湖の底にゆっくりと沈んでいくしか出来なかった。

　段々息が苦しくなってゆき、意識は朦朧とし、水面の輝きは遠くになっていく……

『私、このままここで死んじゃうのかな』

　エイミは薄れ行く意識の中でそう思った。そして、最後にこう思った。

『死ぬのはやだな』

　そしてエイミの体は深い湖の底に溶けて行った。

 

◆２

「ぷはあっ！」

　エイミは何とか湖の底から這い上がってきた。何処をどうやって泳ぎきったか分からないが、とにかく何とか湖の外に這い上がって来られたらしい。

「はあっ、はあっ、はあ……」

　ぐしょ濡れになった服をパタパタと揺らして乾かして、それからすぐに幼馴染の少年の事を思い出した。

「リュート君！何処！？何処にいるのー！？」

　しかし、エイミが呼びかけても返事は返ってこなかった。エイミは突然不安になった。自分が何処か遠い世界に置き去りにされてしまったような気がしたのだ。

　辺りはシーンと静まり返っている。時折、軟い風が吹いて辺りの木々を微かに揺らす。その自然の奏でる雑音が、とてつもなく恐ろしく感じられた。

　見れば、辺りの木々の様子もおかしい。さっきまでは深緑の芽吹く豊かな春の森林だったのだが、今は枯葉が所々に落ちていて、木々の色はくすんで見える。

『いよいよ死後の世界に来てしまったのかしら』

　エイミは疑って、自分の頬をつねってみた。しかしそこに感じる痛みは紛れも無く本物のそれであり、どう見ても夢の仲の世界などではなかったのだ。

「とにかく、リュート君を探さないと」

「何かお困りですかな？お嬢さん」

　独り言を呟いた矢先、突然後ろから声を掛けられた。

　振り向くと、ハットを被り、眼鏡を掛けた紳士風の男性が立っていた。

　エイミを警戒させたのは、紳士が突然声を掛けてきたからではなかった。黒いスーツを着たその老紳士は、手の先から、顔の天辺まで見ても、どうにも毛むくじゃらだったからだ。

「おや、お嬢さん。珍しい顔立ちをしていますね。どうかなさいましたか？私の顔に何か付いておりますか？」

「え、ええ。確かに付いていますわ。立派な黒いお鼻と、真っ直ぐに伸びるお髭と、犬のような毛むくじゃらの耳が……」

　老紳士は少し驚いた顔をして、うやうやしく頭を垂れた。

「おお！そうですか。あなたはどうやら人間族のようだ。私のような狼男を見るのは初めてですか？」

「ええ、まあ……こんな人、物語の中でしか読んだことはありませんわ」

「そうですか。すると、あなたは何処からこの場所にやってきたのですか？」

「ロゼッタストリート４丁目から……」

「ふーむ、聞いた事の無い名前の街だ。この辺りにあるのですか？」

「この辺りもこの辺り、歩いて１時間もかかりませんよ！それで私、この『白鳳の湖』で溺れてしまって……」

　狼男の老紳士は、驚いたように目を見開いて、尋ねた。

「『白鳳の湖』ですって？この池が？」

「え？だってそうでしょう？私はこの湖で溺れて、底から這い上がってきたんですよ」

「おお、確かに折角の服がびしょ濡れだ。このままでは風邪を引いてしまうでしょう。どうです、話は後回しにして、私のお家の方で着替えていきませんか？」

「ええ？でも、とって食うつもりじゃないでしょうね？」

「そんな事、やろうと思えばいつでも出来ますよ、お嬢さん。大丈夫。家には妻と娘が居りますので、服のほうも着替えは用意できますよ」

　渋々エイミは承諾し、老紳士の家へと５分ほど歩いて辿り着いたのだった。

 

　老紳士の奥さんも娘も、やはり犬のような顔をした人間だった。どう見ても二本足で立っているし、服もしっかり着ている。だが、尻尾が服のお尻の部分からはみ出しているのだ。

　奥さんのほうは、とても気立てのよさそうな若々しい犬女だった。娘の方は何故か初めはエイミのことを怖がっていたが、次第に打ち解けると、垂れた耳の可愛い、普通の女の子に過ぎないことが分かった。

　娘の服を借りて着替えを済ませたエイミは、食卓に座って老紳士と話をはじめた。

「さて、どこから話をしたらいいものですかね。エイミさんとおっしゃるのですよね？ええ、あなたは間違いなく人間のようだ。だけど、私たち人狼はそんなに珍しい種族じゃないと思っていましたがね」

「そんなことありませんわ。確かに御伽噺の中ではポピュラーな存在ですけどね。私、あなたのような人を実際に見るのは初めてなんです」

「ほう……御伽噺？すると、あなた様は未来の世界から迷い込まれた人間なのかもしれませんね」

「私が未来からやって来たですって？」

　エイミは声を上げて笑った。確かに、そうとでも思わなければ説明が付かない世界に迷い込んでしまっているのが現実なのだ。

「ええ、狼男さん、私はたぶん未来からやって来てしまった人間なんだと思いますの。それじゃあ、元の世界に帰るにはどうすればいいのかご存知でいらっしゃいますか？」

「それは不可能です」老紳士はキッパリと言い切った。

「何ですって？」

「いえ、不可能と言うわけではないんです。ただ、あなたがあの場所に辿り着くことは、ほぼ不可能に近いと言っていいでしょう」

「あの場所って何処のことです？何故私では不可能なの？」

「その場所こそが、『白鳳の湖』ですよ。あの場所は、霧深い峡谷の一番奥のほうに存在しているんです。そこに辿り着くには、遠い野を越え、山を越え、危険な獣達の住まう密林を越えていかなければなりません」

「でも、さっきの湖こそが『白鳳の湖』でしょう？５分足らずで辿り着けるじゃないですか」

「あなたは何か勘違いなさっているようだ。あの池は、『白鳳の湖』などでは在りません。『白山羊の池』と言われるつまらない小池ですよ」

「あなたこそ私を謀ってらっしゃるのでは？私はあの湖の底から戻ってきただけなんですわよ？」

「では、確認に行きましょうか。リリーもついておいで」

「うん、分かったわ、パパ」

　リリーと呼ばれた老紳士の娘も連れ立って、三人はさっきの池のほうへと戻っていった。

 

「あなたはこの池から這い上がってきた。そうですよね？」

　老紳士の問いかけに、エイミは力強く頷いた。

「ええ。確かに道順も覚えていました。私はここから這い出てきたんです。それにしても――」

　エイミは池の周りをぐるりと見回した。自分が溺れた『白鳳の湖』は１００ｍ四方はある大きな湖だった。

　だが、この池はどう見積もっても３０ｍ四方程度の面積しかなかった。

「どういうことかしら？私が溺れたときとは全然別の池みたい」

「そうでしょうとも。伝説によれば、『白鳳の湖』は、別の世界と別の世界を繋げる為の扉のようなものだと言われています。あなたは恐らく、あなたの世界の『白鳳の湖』に入って、私共の世界に迷い込んでしまったのでしょう」

「ああ！なんてこと」

　エイミは力なくうな垂れた。もうこうなっては帰る手段がない。サンドラ伯母さんを助けたくて来たはずが、何故自分がこんな世界に迷い込んでしまったのだろう？

「エイミ、元気を出して！大丈夫よ。何とかなるわ」

　リリーが地面に突っ伏したエイミを励ます。しかし、エイミは泣き顔で睨み返した。

「どうしてそんなことが言えるの？私がこんな世界で一人ぼっちになってしまった気分、あなたに分かるというの？」

「分からないわ、エイミ。でも、あなたが悲しんでいることは分かるよ。手助けをしてあげたいの」

「どうやって？」

　その質問には老紳士が答えた。

「あなたは、あなたの世界の『白鳳の湖』からこちらの世界に来たというのでしょう？ですが、こちらの世界にも『白鳳の湖』はあります。上手くすれば、元の世界に帰れるやも知れません」

「でも、不可能だと言ったではありませんか！」

「ええ、ええ。あなた一人の力では不可能でしょう。ですが、誰かの手助けを借りれば大丈夫かもしれません」

　そこで、待ってましたとばかりにリリーが尻尾を振った。

「パパ！私が行ってもいい？エイミを元の世界に帰してあげたいの」

「そう言うと思ったさ、リリー。もうお前も親離れをしなくてはいけない時期だ。エイミさんと一緒に『クロイスの街』に行って来なさい。そして、彼女の旅を応援してやるんだ」

「分かったわ、パパ」

　エイミは泣き崩れてた顔から一転、希望の光を取り戻したかのように目を輝かせた。

「本当に助けてくださるんですの？本当に？」

　老紳士は頷いて、「ええ、それが私共の仕事ですから」と言った。

「どういうことです？」

「私達一族は、この森の中で、『白山羊の池』を見守る、見張り番の仕事をしているのですよ。あの池に異変が起きるとき、世界に大きな災いと幸福が訪れると言われています。長い間池の守人をしていましたが、突然池から見知らぬ世界の人間が這い出てくるなんて事は初めてですよ。きっと、これも何かの宿命なのでしょう」

「そうなのかしら。私がこの世界に災いと幸福を？」

「ええ。あなたは気付いていないかも知れませんが、既にこの世界は変わり始めているかもしれませんよ。まあ、ともかく今日は私共の家に帰って休みましょう。美味しいご飯を用意させておきますよ。それから明日、リリーと一緒に街に出るんです。全てはそれからです」

 

◆３

　人狼夫妻の家を出てから２時間ほど歩くと、クロイスの街は見えてきた。

「あそこがこの辺りじゃあ最大の商業都市なの。きっといい方法が見つかるわよ、エイミ」

「ありがとうね、リリー」

　人老夫妻の家で乾かした元の服に着替えなおしたエイミは、都会の熱気を感じて胸が高ぶり始めていた。

 

　街には多種多様な種族が居た。猫人、小人、ドワーフ、エルフ、巨人族、妖精族。それぞれの人種が特に争うこともなく活気良く暮らしていた。

「ねえ！ちょっとあそこの公園に寄ってもいい？疲れちゃったわ」

「そうね、エイミ」

　公園の噴水には、マーメイドの歌姫が居り、竪琴を奏でながら澄んだ美しい歌声を披露して見せていた。

　歩き詰めでクタクタになっていたエイミは、歌声に癒されて、ベンチで眠りに入ってしまった。

 

　夢の中で、黒いローブを身にまとった骸骨が現れた。

「お前が別の世界から来た人間か？」

　夢の中でエイミは何も答えなかったが、骸骨男は納得したように息巻いた。

「悪いがお前を白鳳の湖に行かせるわけにはいかない。お前はこの世界で永遠に留まる事になるのだ」

「あなたは誰なの？」

「私はこの世界の魔王だ。強力な魔導師達がお前の命を狙いにかかるだろう。ゆめゆめ忘れるでないぞ」

「何故私が帰ってはいけないの？」

「それが摂理と言うものだからだ。まあ、お前がこの世界に留まり続けると言うのなら命だけは見逃してやろう。どうする？」

　エイミはあかんべーをした。

「私には帰らなきゃいけないところがあるの。リュート君、サンドラ伯母さん、パージ伯父さん。皆いい人ばかりだもの。私が帰れなかったら心配するに決まっているわ」

「そうか。幸せな奴め！益々お前のことが気に食わなくなった。さあ、眠っている間にお前を殺させてやろう」

「えっ！」

　その時、エイミは強い揺れを感じ、目を覚ました。

 

「エイミ！起きた？」

　エイミはリリーに体を揺すられ、ベンチから引き摺り下ろされていた。

「リリー、一体全体どうしたの？」

「化け物が襲ってきたのよ！」

　視線をリリーの見ているほうに向けると、黒い大きなローブを纏った影が、一直線に空を飛びながらこちらに襲い掛かってきていた。

「あれが魔王の手下だわ！」

　エイミは一目散に、リリーの手を引きながら逃げ出した。

　しかし影は猛スピードで追ってくる。追いつかれ、手に持っている鎌で首を掻き切られるのは時間の問題だった。

「どうすればいいのエイミ、あれは何！？」

「魔導師たちが私の命を狙っているのよ！」

「あなたって本当に予言された存在だったのね」

　リリーはそう言うと、急に立ち止まり、両手を合わせて何か得体の知れない言葉を呟いた。

　かと思うと、突然目の前に炎の壁が現れて、宙を飛ぶ死神の行く手を遮った。

「凄い！あなた魔法が使えるの？」

「パパに教えてもらっていたの。万が一の時があるかもしれないからね」

　しかし、影は思案に暮れた後、鎌を投げ捨てて、両手で何かしらの印を作り始めた。ぶつぶつと呟くその言葉は、リリーの見せた魔法と同じようなものだった。

「不味いわ！炎の壁の呪文が破られる！」

「逃げましょう、リリー！」

　二人は公園の階段を転げ落ちるように降りて行き、裏路地のほうへと入り込んでしまった。

　後ろのほうで爆発音が轟く。しかし二人には振り返っている余裕などなく、ただ一目散に逃げることしか出来なかった。

　すると、目の前にいかつい斧を持ったライオンのような顔をした巨大な獣人が現れた。

「そこの人、お願い、助けてください！」

　二人が走りながら叫ぶと、ライオン男は大きく斧を振りかぶり、走ってくる二人目掛けて振り下ろした。

「きゃあっ！」

　二人が左右に避けると、ガキイン、と言う大きな金属音が鳴り響いた。

　二人が振り返ると、背後から追って来た死神が振り上げた鎌を、ライオン男が斧で受け止めている場面が見えた。

「助けてくれるの！？」

　リリーが叫ぶと、

「事情は良く知らんが、コイツは公衆の敵のようだ」

　と言い、死神に向けて強烈なキックを放った。

　死神が慌てて避けようとしたところを、ライオン男の斧が待ち構えていた。

　ローブの首から上が斧のスイングによって両断されると、死神は音もなく地面に落下し、黒い煙となって消滅した。

「あ、ありがとうございます、ライオンさん」

　エイミが礼を言うと、男は一瞥をくれて、

「俺は獣王族のレゴンだ。ライオンではない」

「どっちにしろありがとう、レゴンさん。お陰で助かりました」

「礼なんてまあいいさ。だが、事情くらいは聞かせてくれるだろうな？」

「はい、実は……」

「おっと！酒場にでも行って話そう。喉が渇いてしまった」

「真昼間からお酒ですか？」

「安心しなお嬢さん。君達はミルクでも飲むといい」

 

◆４

　事情を話すと、レゴンはうーむと唸って悩みこんだ。

「なるほどな。大体事情は飲み込めた。通りで、最近魔王軍の動きが活発だったわけだ。君の来訪を予期していたんだろう」

「魔王軍？どういうことです？」

　エイミが尋ねると、レゴンは二人を置いて酒場のマスターに何かを話に行った。

「どういうことだろう」

「分からないわね、リリー」

　しばらくすると帰ってきて、レゴンは話し始めた。

「実は俺は、王国軍の雇われ兵士なんだ。この世界を支配しようとする魔王と戦いを繰り広げているのさ。さっきの魔導師を倒すのも仕事の一環だったわけだ。この酒場も、王国軍の連絡所代わりにもなっているんだよ」

「そうだったの？じゃあ、私はこれからどうなるの？」

「大丈夫。魔導師たちが追って来られないように細工を頼んでおいた。君達は、俺と一緒に大賢者カノン様の処に赴くが良い、ということで話を付けて来たよ」

「大賢者カノン？」

「そうだ。この世の理を最も知る男。魔王再来も、予言に記された救世の少女も、全てカノン様はお見通しだったのだ」

「その人の処にはどうやって行くの？」

「お譲ちゃんたち、乗馬の経験はあるかい？」

　二人は首を振った。

 

「ヒャッホォーゥ！」

　レゴンは楽しげに馬を繰り、二人の少女を後ろに乗せて草原を走り飛ばした。

「ちょっと気持ち悪いよう」

　リリーが言うと、エイミは楽しげに笑った。

「そう？こんな爽快な気分、生まれて初めてだわ！」

　三人は広大な草原を抜けて、緑生い茂る山道の方へと入っていった。

 

「ここがカノン先生のお住まいだ」

「ここが？どう見たってただの洞穴じゃない。しかも、すぐに行き止まりになっているわ」

　エイミが言うと、リリーは笑った。

「呪文を唱えればいいのよ。そうすれば扉が開かれるんだわ」

　レゴンは笑って「正解だ」と言った。そして、ぼそりと短い言葉を放つ。

　小さな岩の洞に入っていた三人は、突然自分達の立っている岩場が回転するのを感じ取った。

　そして、後ろを振り向くと、立派なお屋敷の扉が待ち構えていたのだった。

「入りなさい」

　何処からか老人の声が響いた。三人は招かれるままに屋敷のドアを開けて中に踏み込んだ。

 

「君達がここに来ることは分かっておった。私の助力ならいくらでも貸して存じよう」

「ありがとうございます、カノン先生」

　レゴンが言ったが、エイミは不満だった。

「ねえ、そんなに凄い力を持っているんなら、カノン先生が魔王を倒して来ればいいんじゃないかな」

「おいおい、失礼なことを言うなよ」

　レゴンが嗜めると、老賢者カノンは、ほっほと笑った。

「いいんじゃ、いいんじゃ。確かにそれが出来るならそれが一番いい。だがな、わしは老い先短い身。知識や技を授けることは出来ても、もう魔王と戦うだけの体力は残っておらんのよ」

「それじゃあ仕方ないですね。だったら何を授けてくれるんです？」

「まず、銀の宝剣。これをリリー君に差し上げよう。これを使えば魔物と戦える上に、魔法の力を増幅させることができる」

「ありがとうございます！」

　リリーは嬉しげに輝く宝石の装飾された短剣を受け取った。

「そして、神殺しの戦斧。これをレゴン君に。これは、投げて手放しても、すぐに手元に戻ってくる優れものだ。君の体力をより有効に役立てることができるだろう」

「ありがとうございます」

　レゴンは斧を受け取り、その重みを確かめるように持ち上げていた。

「ねえ、私には何も無いのですか？老賢者様」

　エイミが不服そうに口を尖らせると、ほっほと賢者は笑った。

「君は戦わなくてもいいんじゃよ。この世界の住人ではないのだからな。その代わりといっては何だが、わしの図書室をいくらでも覗かせて上げよう。いつか役に立つときが繰るかも知れん」

「ありがとう！どんな本があるんです？」

「この世界の動物や魔物についての本……薬学・医学・生物学……ありとあらゆる知恵が詰まっておるよ。是非、読んでいくといい。他の二人は、しばらくわしが付きっ切りで魔法の指導を行おうかの」

「わかりました」

　そして三人はくたくたになるまで働いて、美味しい晩餐を頂いてから一晩ゆっくりと休み、翌朝、『白鳳の湖』に向けて出発した。

 

「魔王の狙いがエイミ君を『白鳳の湖』に行かせない事だとすれば、その狙いを覆して、エイミ君を湖に届かせなければいけない。険しいたびになるが、何、大丈夫さ」

　カノン老子はそう言って笑った。

 

　深い山と谷のある山脈を三人は渡った。途中、何度も転げ落ちそうになりながら、必死で山登りを繰り返す。乾燥した岸壁の山脈を抜けると、今度は湿った密林に出た。

　そこには、巨大な竜が待ち構えており、一行の行く手を塞いでいた。

 

「くそっ、ここを越えなければ『白鳳の湖』には辿り着けないと言うのに。どうすればいいんだ」

「倒すしかないわ。みんな、竜の弱点はあの大きな髭よ。あれを切り取ってしまえば、魔力は拡散してしまうの」

「凄いわエイミ。昨日読んだ本のお陰？」

「ええ。レゴンさん、斧を投げて」

「わかった」

　レゴンは竜の頭部目掛けて斧を投げた。スパッ、と根元から竜の左頬の髭を切断すると、手元に戻ってきた。

　竜は自分が攻撃されたことに気付き、威嚇行動をとり始めた。

「灼熱の吐息が来るわ！リリー、氷の魔法を！」

「ええ」

　リリーは宝剣で空間を切り、呪文式を発動させた。灼熱のブレスは一行の目の前で凍りつき、蒸発した。

　その間にレゴンは斧をもう一度投げ、竜の右頬の髭も切断した。

　魔力を失ったことで、もう灼熱のブレスも吐く事ができない。暴れ狂った竜は、一行を噛み砕きにかかった。

「レゴンさん！竜は、噛む力は強いけど、口をあける力は弱いの」

　エイミがアドバイスをすると、レゴンはジャンプして竜の口の上に乗っかった。

　ずしりと頭を地に伏せられた竜は、じたばたともがいていた。

「リリー！宝剣を眉間に突き刺して」

　エイミが言い、リリーの宝剣が竜の脳を貫くと、竜の動きは弱まった。

　その間にレゴンは竜の首を両断した。

「凄い！私たち、ドラゴンをやっつけちゃった」

「あなたのお陰よ、エイミ」

「違うわ。二人が頑張ってくれたお陰よ」

「おい……」

　レゴンが、二人の注意を背後に促す。

 

「クソッ、王国軍の軍勢ももう持たなかったか」

　一行の背後には、鎌を持った無数の魔導師達が浮遊していた。

「エイミ、あなたは早く『白鳳の湖』に辿り着いて」

「ああ、ここは俺達が通せんぼする」

　レゴンとリリーはエイミの前に出て、戦いの構えを取った。

「でも、二人とも……」

「大丈夫だ！お前が元の世界に帰れば、それだけで俺達は助かるんだ。いいだろ？」

「そうよエイミ。あなたには帰る世界があるでしょう？」

「うん……分かった。みんなごめん、行ってくるね！」

　そう言ってエイミは走り出した。『白鳳の湖』目指してまっしぐらに。

 

◆５

「良く来たな、人間の娘よ」

　霧深い白鳳の湖には、実際に白い鳳凰が居て、エイミの訪れを待っていた。

「よくもまあ馬鹿なことをしたものだ」と言い、あの魔王までもが姿を現した。

「どういうこと！？どうして魔王がここに！？」

　エイミが叫ぶと、「落ち着け、コイツはただの臆病な人間だ」と白鳳が行った。

「人間ですって？こんな骸骨お化けが？」

「ああ。その名前はパーム……この世界では強大な化け物を装ってはいるが、その実態は臆病なただの人間に過ぎないのだ」

「パームですって？じゃあ、パーム伯父さんが魔王だったって言うの？」

「そうだ。彼は、自分の浮気相手のために、妻であるサンドラを毒殺しようとしていたのだ。毎日少しずつ食事に毒を盛ってな……」

「そんな……だからサンドラ伯母さんは風邪を引いてるみたいに突っ伏していたって言うの？」

　魔王が口を開く。

「ああ、そうだ。そうだ。そうだ。忌々しいあのサンドラ。あいつが居なければ、俺は自由な人生を歩んで幸せを謳歌していられたんだ。少ない稼ぎで必死に仕事しているのに、家計のためとか言って少ない小遣いしか渡してくれない。誰の金で生活できていると思ってるんだ！」

「パーム伯父さん！サンドラ伯母さんは本当に家のことを考えて……」

「知ったことか！俺がどれだけ傷ついていたか、お前のような小娘に分かるか！女は、いつも男の作ったものを盗んでいきやがる……」

「じゃあ、そのために人を殺したって構わないって言うの！？愛していたはずの奥さんを自分で手にかけてまで！？」

「クッ……だから、お前を元の世界に戻すわけには行かなかったんだ」

　エイミは考え込んだ。

「白鳳さん。ここは一体なんなの？この世界は一体？」

「これは君の記憶の世界だよ。君だけじゃない。他の色んな人の作り上げてきた記憶の世界だ……見なさい」

　エイミは白鳳の示したほうを見る。そこには、一握りの水中花がふわふわと浮かんでいた。

「それを持って帰りなさい。世の中には、忘れたほうが良い記憶もあるんだ。それは『忘れ草』だよ。それを煎じてパーム伯父さんとサンドラ伯母さんに飲ませて上げなさい。そうすれば二人は仲直りして、伯母さんの体調も直に戻る。全て無かったことに出来るんだ」

「ありがとう、白鳳さん」

　魔王は、ぐぬぬと唸りながらエイミが水中花を取り上げるのを見守っていた。

「そして、君自身もそれを飲みなさい。そうすれば、この世界で経験した怖い記憶も無かったことにできる」

「そう……ありがとうね白鳳さん。最後に聞いても良い？」

「私の正体、か？」

「ううん。分かってるよ本当は。あなたが、所謂神様ってヤツなのね」

　そう言って、エイミは湖に飛び込んだ。

「違う……私は、確かに神と言う名で呼ばれることもある……だが、それは人の弱さであり……強さでもあるのだ……」

「え？」

　ごぽごぽと湖に沈んでいく中で、エイミは白鳳の声を聞いた気がした。

「己の信じる道を行きなさい、強き人間よ……」

 

「ぷはあっ」

「おいおいエイミ、大丈夫かあ？」

「あ、リュート君」

　元の世界、白鳳の湖に這い上がってきたエイミのすぐ傍には、リュートが居た。

「大丈夫かあ？全く危なっかしいヤツだなあ……お、それって伝説の薬草？」

　エイミは握り締めていた自分の手を見る。そこには、しっかりと水中花が握り締められていた。

「ねえリュート君、私がこの湖に来てから何日経った？」

「ええ？まだ探し始めて１時間も経ってないじゃん」

「あれ？でも三日間くらいあっちの世界を彷徨ってた様な……」

「お前、頭でも打ったんじゃないのか？夢でも見てたのか？大丈夫？」

「え、ああ……うん。そうだよね。じゃあ、早速サンドラ伯母さんの所にこれを持って帰らないと」

「そうだな、急ごう」

 

「うーん、ただの風邪のようにも見えるけど……どうなのかしら」

　薬屋の店主はまだサンドラ伯母さんを診ていた。適当に風邪薬を処方して、とりあえず様子を見てから病院に連絡するか決めよう、という話になった。

 

　エイミは水中花を煎じ淹れて、美味しそうな紅茶を作って、サンドラ伯母さんに飲ませてあげた。

「ありがとうね、エイミちゃん。どうも、疲労が溜まったのかしら。最近、夫が浮気してるんじゃないかなんて疑ってしまって……」

「大丈夫ですよ。パーム伯父さんは良い人なんだから。紅茶の残りを冷蔵庫に入れておきましたから、伯父さんにも飲ませてあげてください」

「そう？エイミちゃんは飲まないの？美味しいわよ、この紅茶」

「私は……」

　エイミは少し考えてから、

「私はいいです。夫婦二人で仲良く飲んでくださいね」

　そう言って、エイミは立ち去った。

 

「知ってる？実はさ、パームさんとサンドラさん、ちょっと最近夫婦喧嘩が多かったらしいんだよ。だから心労で風邪引いちゃったのかなあ」

　リュートとエイミは木陰のある公園に遊びに来ていた。

「でも、全て水に流して仲直りしたんだってさ。結局、あの水中花は伝説の薬草だったのかなあ」

「そうだね。実は全然、効果なかったのかも」

「まーな。でも、気休めで良い気分に成れたならそれでいいじゃん。まーでも、伝説の、ってのは言い過ぎたかな。俺、最近ＲＰＧに嵌っててさー。銀の宝剣とか、神殺しの戦斧とか。そういうのに憧れててさー」

　エイミは少し驚いた顔を見せ、そしてふふっと笑った。

「えー、何が可笑しいんだよお前、馬鹿にすんなよー」

「違うよ、馬鹿になんてしてないの」

　エイミは幸せそうな笑顔を見せて、

「ただ……リュート君はいつも私を守ってくれるなあ、って」

「んん？なんのこっちゃ」

　その時、エイミは東の空を指差した。

「あ、白鳥」

　白い鳥は大空へと羽ばたいてゆく。一筋の余韻を残し、どんな悲しみも憎しみも奪い去っていくかのように。

 

<了>